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知恵を求めた結果として

箴言2:1-9 
 
「神の知識を見いだすだろう」という結論がここにあります。尋ね、そして探すなら、という条件によってであるように見えます。箴言は、繰り返すような表現の中で、同じ「知恵」を様々に言い換えて持ち出します。詩編119編の例にあるように、神の戒めこそが知恵であり、英知・分別そして知識と言葉を替えますが、指しているものは多分同じです。
 
新約の徒としては、これを神の言葉・聖書の言葉と受け止めてもよいはずです。ここにも1節に「私の言葉」つまり神の言葉という言い方が掲げられています。箴言では、これは父の諭しとして設定されています。まるで、イエスが神のことを父と呼び、自らを子と称することを予告していたのようです。ここでも描写はいろいろ変わります。
 
受け容れ、内に納め、耳を傾け、心を向ける。そのように言い方を換えても、一つひとつ区別して解釈する必要はありません。2節までは、こうして受ける側の視点で記されていますが、3節と4節は求める方向で見ています。知恵を求めよ、とするのです。そうすると「神の知識を見いだすだろう」ということになるわけです。
 
この知恵は、神の口から出るものです。知識や英知などと言い換えようと、主からそれが来ることは間違いありません。表現からすれば「正しい人には良い考えを」備え、「完全な道を歩む人には盾を備える」としていますが、主が与えるより以前に「正しい人」や「完全な道を歩む人」がそこにいるかのように聞こえるかもしれませんが、果たして。
 
あるいはこの「正しい」というのは、神と向き合い神との関係ができていることを示すのかもしれません。こうして正義が得られ、公正な裁きがなされる結果がもたらされます。父は子に対して、民族のリーダーであることを自覚させているかのようです。それは「幸いに至る唯一の道のり」であるといいます。聖書は「幸い」という目標からブレません。

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