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終わりの時のために求められていること

ユダ17-21 
 
「終わりの時」のことを警告します。それは「イエス・キリストの使徒たちが前もって語った言葉」であるといいます。使徒たちという立場の者たちの、権威が確立していたことが分かります。イエスの言葉が最も尊いことは、誰にでも想像できます。けれどもイエスの言葉は、その語録があったのだろうし、すでに福音書が既知のものとなっていました。
 
もちろん、後の「正典」という考えや権威が備わっていたわけではありません。私たちのいう「聖書」は成立していませんでした。しかし、教会内々では、すでにそういう価値を置かれていたのではないでしょうか。パウロの手紙は、福音書に先立って尊重されていました。ここでいう「使徒たち」には、パウロも含まれていた、と見てよいのでしょう。
 
さらに、パウロの名によるその弟子たちの手紙なども、その部類として通用していたのではないでしょうか。終末を見越した新約の叙述は、「嘲る者たち」の出現を予告しています。「不敬虔な欲望のままに振る舞うだろう」というのです。これは今、私たちの時代を見渡しても、十分納得のいくものである、と言えるのではないでしょうか。
 
「分裂を引き起こす者、自然の者、霊を持たない物」とも表現されています。「自然」とは分かりにくいけれども、神の霊を受けていない者のことであるようにも感じられます。「聖霊によって祈りなさい」とここで言われているように、教会で如何に聖霊が重視されていたか、が推測できるでしょう。
 
神の霊を持たないならば、「嘲る者」にカウントされても仕方がないのです。だから、聖霊と共に、私たちは「最も聖なる信仰の上に自らを築き上げ」られることを求めるのです。私たちが求めていないかもしれないことを、聖書はきっちり要求してきます。しかし、私たちが何かをしなければならない、と迫っているわけではありません。
 
「神の愛の内に自らを保ち、永遠の命を目指して、私たちの主イエス・キリストの憐れみを待ち望」むとよいのです。私たちは、自分の足元をよく見なければなりません。自分はどこに立っているのでしょうか。立ち位置に気を配るのです。そして、神の業を待ち望むことが求められています。ただイエス・キリストを見上げて、待ち望むのです。

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