『仕事』(今村仁司・弘文堂思想選書)
2024年、新刊書でこれを知った。文庫版だった。発売までまだ間があったが、元々は単行本だと分かった。帯にある言葉「資本主義は賃金奴隷制にほかならない」という言葉に惹かれた。私も断固そのように感じていた。しかし私は抽象的に感じていたに過ぎない。本書は社会思想ないし社会哲学を専門とする教授である。どんな論拠があるのか、具体的に何がどうなのか、ぜひ知りたいと思った。同じく帯には、「渾身の書きおろし」という言葉もあった。だから私があまり知らない分野ではありながら、きっと面白いと信じた。そして、それは違わなかった。
最初に宣言されているが、「私が目ざしたことは、労働観史を踏まえて、近代の主流的見解たる「労働中心主義」を解体することである」という。これも、内容に違わなかった。主張がはっきり明かされているため、読みやすさも一入であった。
さて、本書は「仕事」というタイトルであるが、「はしがき」でも断っているように、事実上「労働」概念が中心である。タイトルに「仕事」を用いたのは、私の推測に過ぎないが、「仕事」という言葉で示す概念に、ある種の積極的な意義を見ているからではないかと思う。つまり、タイトルを「労働」にすると、先ほどの宣言にあったように、解体が目的にようになってしまう。だがそうした破壊が目指すところではないと言っているように感じられてならない。タイトルには、積極的な意味をこめているのではないか、と思うのだ。
最初の章は、「未開社会」を場とする。南太平洋のマエンゲ族について調査した、フランスの人類学者パノフの研究に沿って動く。特に、労働に関する言葉が四つあり、どういう概念であるか、それぞれ示す。もちろん、近代労働とずいぶんと違うことが鮮明になる。共同体の存在がすべての前提となっているわけだが、もちろんこれは、現代の私たちに直結するようなものではなく、直接模範とするようなものでもない。あまりに文明的に差異が大きいのだ。
そこで、次に探究するのが、古代ギリシアの労働観である。しかし、その分野の研究は実はこの時点でたくさんはなかったそうだ。それだけでも、読むほうはわくわくする。そこには、当然ギリシア神話が絡んでくる。だから、同じ農業でも、宗教的な活動あるいは倫理的な活動としての意味合いが色濃く根づいている。そしてアリストテレスがまとめたように、四原因論を押さえつつ、ポイエーシスたる「制作」と、プラークシスたる「実践」という捉え方を理解してゆく。
そのとき、時間概念にも注意が向く。聖書でおなじみの「カイロス」という時間意識が強かったというのだ。そこには、近代労働が時間単位で仕事を計るような考え方はなく、時が熟す捉え方がある。この辺りのことは、後々のことを考えると、読者は丁寧に辿っておくほうがよい。
次は、西欧中世の労働観。本書の解説をするわけではないので、ここから少し端折ることにするが、これまた従来の研究が手薄なのだという。だとすれば本書を読むことは実にお得ではないか。もちろん中世とは言っても、時期が長く、その間で動いてゆく過程というものもある。また、そこでは初期にはキリスト教の考え方が色濃く反映されているし、その後ルネッサンスへつながる頃には、ずいぶんと変化してくる。大学が生まれると、学問的な理解も違ってくる。つまり、知的労働という考え方も大きな意味をもってくることになる。
それから、最初は卑しい仕事として分類されていたものが、次第に良いイメージで捉えられてゆく過程も追いかけられていて、面白い。このとき、背後に「時間」についての考え方の変化があることを、いみじくも指摘しており、興味深い。商業の中に「時間を売る」という姿勢を見ていたというが、それは抽象的な性格を帯びる。教会の時間は、具体的で自然でもあったから、教会は金を目的にしなかったことと、金を扱う商業とは違う道を歩むことになる。この時間の捉え方は、近代の時間へとつながってゆくことになる。この時間概念についても、実に興味深い論述があるのだが、それはもう本書に直に触れてお楽しみ戴くしかない。
そうして、ついに近代の労働感へと突き進む。まずはプロテスタンティズムの労働感が顧みられる。このとき、時が貨幣となり、それが信用として、社会を形成する。よく知られるように、ウェーバーがそこに近代労働感を見ていたとしても、そもそもは宗教的動機に過ぎなかったはずである。この世を重んじていたというわけではない。労働を賞賛していたわけではないのである。古代から、労働そのものは、低く見られていたものである。それが、資本主義の到来により、労働には価値があるのだ、という見方が推奨されてゆくのであった。
共同体は崩壊し、社会は市民社会となってゆく。個人はアトム化し、それまではなかった私的所有というものが発生する。時代は一気に変化してゆくのである。この労働観の変化は、経済学を学問たらしめる。生産することの値打ちが高まり、そのために技術が必要とされる。かつては科学的な知であれ、学的な技術であれ、社会的には地位の低いものであった。しかし、19世紀に、労働観はそれまでと全く変わってしまうのである。
最後の章は、労働の批判的考察が記され、それで本書は結ばれる。最初に挙げた「労働中心主義」の解体がいよいよ進められてゆく。ここにその過程を再現はできないが、ハンナ・アレントやシモーヌ・ヴェーユの登場は大きな意味をもつ。もちろん、マルクスの捉え方もひとつの鋭いものであって、さらに著者は、マルクス自身が意識できていなかった観点を、ここで前面に出してくる。「労働の解放」という、商業的制約からの解放が、賃金奴隷制の正体であることを暴くこともあるが、さらにそこから先に進まねばならないという。「労働からの解放」と著者はそれを呼び、区別する。マルクスの目指す共産主義は、こちらにあったはずだ、というのである。それは人間の自由と自立を求めるものである。それまでの「労働」から、そこへ転じてゆかなければならないのである。
このとき、「遊戯性」という、少し難しい観点が登場するのだが、これについてはもうひとつ説明が不足しているような気がする。ただ、それによって労働は、機械的な性格を転換させられ得るようになるし、昔の人間的な労働、つまり「仕事」と呼んで然るべきものになることが可能になる、と希望を掲げるのである。未来の仕事は、古代での仕事と、自由な活動とが結びついて、いまあるような奴隷制から解放されなければならない、というのである。
社会学に疎い私のことだから、理解は間違っているかもしれない。だが、とにかく面白かった。大いに刺激を受けることができた。感謝したい。