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礼拝説教は、神の言葉。いのちある説教に対しては、それを受けていまここでおまえはどうするのだ、という問いかけがあります。何らかの形で、それへの応答を、祈りのように告げることが必要だ…
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記事一覧

神にとっての価値

事情は割愛するが、急遽ゲストが説教者として立つこととなった。若い説教者であるが、今年海外…

たかぱん
4日前
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神の言葉は人を生かす

「白馬の王子様」は、乙女の憧れの極みであった。アーサー王などの源流が想像されることがある…

たかぱん
11日前

死を超えた礼拝

ある方が家で事故に遭われたという、びっくりする知らせから説教は始まった。無理をしないよう…

たかぱん
2週間前

「ハレルヤ」を聞きながら

黙示録の講解説教が続く。いつしか18章から19章にまで旅してきた。19章は4節までで区切られた…

たかぱん
3週間前
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来たれ聖霊よ

ペンテコステ礼拝である。教会の三大祝祭日の一つとされている。弟子たちに聖霊が降臨したこと…

たかぱん
1か月前
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目を覚ますことと祈ること

説教に「まくら」などという言葉を使うのは不適切かもしれないが、説教者により、いくつかのタ…

たかぱん
1か月前
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絶望ゆえの勝利

黙示録を読み解くひとときが続く。17章が開かれたが、ここから18章辺りまでが、実に黙示録らしいというか、謎めいた記述が犇めいているという。それは荒唐無稽なもののように見えるかもしれない。だが、こういう表現に出会ってこそ、私たちは知る。世界を、別の眼差しで見るようにさせてくれるのだ。説教者はその点に触れた後、キリスト者と教会は、この黙示録があったからこそ、歴史の中で闘い続けることができたのだ、と断言した。黙示録あってこそ。そこに、黙示録の意義がある。   天使の一人が私に、「こ

神の怒りから愛の歌へ

4月26日午後、加藤常昭先生が召された。縁のある教会である。牧会したということではなかった…

たかぱん
1か月前
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沈黙の声と歌

十字架と復活を語る春であったため、久しぶりの黙示録講解説教である。15章から再開し、その全…

たかぱん
2か月前
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宣教と神の真実

復活のイエス・キリストの物語は、まだ終わらない。――説教者がまず発した言葉は、説教の姿勢…

たかぱん
2か月前

大きなキリスト

第一コリント書の最後の16章は、些か落ち着かないところがある。直前でまとまった復活論を述べ…

たかぱん
2か月前

マルコ伝の「復活」

復活祭礼拝。確かに、復活ということが信じられないので、教会に行くのが憚られる、というケー…

たかぱん
2か月前
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子ろばに身を置いて思うこと

受難週を迎えるにあたり、十字架そのものよりは、エルサレム入城のほうが、選ぶ聖書箇所として…

たかぱん
2か月前
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河の流れのように

「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」(マルコ8:27)とイエスが問う。弟子たちは様々に答えるが、ペトロが、「メシア」だと言う。もちろん語としては「キリスト」だが、新共同訳以来、ユダヤ教の脈絡から言われているものはユダヤ式に「メシア」と訳すようになっている。まだ違和感がないわけではないが、そについてとやかく言う立場にはない。   キリストの受難を思う期間、連続講解としての黙示録は休止している。ここで、非常に禁欲を強いるような教会や教えがあるという。だが、説教者はその考