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新天地の希望

黙示録も佳境に入ってきた。「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た」(21:1)をメインに、黙示録が結局もたらそうとした世界像を、いよいよここで明らかにする、という場面である。
 
先週は音響が比較的よかったのだが、今週はまた極端に聞こえにくく、耳をそばだてて聞き入ったが、半分くらいは言葉が定かにキャッチできなかった。大きい出力は聞く側で音量を下げることは可能だが、出力が小さいと、聞く側のボリュームは最大以上にはできないので、時折辛いことがある。どうしたらよいのだろう。
 
そういうわけなので、説教の内容をここで再現するような形で記すわけにはゆかない。誤って聞いていることを、さも説教者が言ったかのように書いてはならないと思うからである(但しそのように見える書き方はしている。だが本当に説教者がそう言った、というようには受け取らないで戴きたい)。もちろんふだんから、私の思惑ばかりを綴っているようなものであるが、今日はいっそう、そうなってしまうことをお許しください。
 
さて、21章から終わりまで、黙示録は、聖書の様々な箇所からの引用や参照を多くもつという。ここを深めて読めば、聖書の多くの記述とのつながりを知ることができ、聖書のエッセンスを学ぶことができるかもしれないのだそうだ。
 
21:1 わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。
 
21:3 そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。
 
私はここにヨハネが「見た」「聞いた」と並べて書いていることを、興味深く感じた。視覚や聴覚が万全でない人にとっては、これらの表記はもどかしいかもしれないが、ここではやはり、確かに視覚的なものと聴覚的なものを意味していると理解できるだろう。
 
説教者は、黙示録の筆者ヨハネに対して、神が直接語りかけるのは、この場面が初めてだ、と言った。これまでは天使からの語りだった。そして、このヨハネを「牧師」と称した。七つの教会への配慮があり、また書き送ったものが一つの説教であるという認識であろうか。
 
現代的な言葉に直してしまうことは、分かりやすくする効果があると共に、原題の概念で割り切ってしまうことの危うさも含まれていることがある。私などは、「律法の専門家」という福音書のところを、「神学者」と置き換えて読むことがある。それでずっと親身に覚えることもあれば、いやいや簡単にそんなふうに言ってはいけない、との戒めを自らに課すこともある。私はほどほどにしておこう、とは思っている。
 
だが、著者ヨハネを「牧師」と理解すると告げるのを聞いて、私は、この黙示録について、襟を正される思いがした。牧師を通して与えられる神のメッセージであるのだ、として向き合う必要を覚えたのだ。この黙示録は、幻想物語でもないと共に、イエスの言葉そのものでもないわけだ。
 
この神の声を聞く前に、「新しい天と新しい地を見た」というヨハネは、説教を語る牧師のように、「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する」(イザヤ65:17)を踏まえていると思われるのだ。イザヤの預言を当然知っているし、それをいまの自分の時代に活かして適用することになる。
 
この世界は、確かに「創造する」とされている。確かに創世記では、「初めに、神は天地を創造された」(1:1)から始まっていた。すでに創造された世界に、私たちはいま立っている。だが、本当に「立っている」のか。しょせん、寄りかかっている程度ではないのか。人間が自分の力で立っているのだ、と豪語するとしたら、それは傲慢なことではないだろうか。私たちは、神に拠ってこそ、ようやく立っていると言えるのではないだろうか。さらに言えば、神のしもべとして、キリストという岩の上に立つとき、やっと私は「立っている」ことになるのではないか。
 
説教者は、「ノストラダムスの大予言」を、いわば反面教師として持ち出した。確かにあれは不気味だった。子どもたちは、かなり怯えた。自分たちは何歳までしか生きられないのだ、という無言の束縛があったような気がする。最近読んだ、角田光代さんの『方舟を燃やす』という小説にも、その世代の子どもたちが、不幸な終末を気にする様子が描かれていた。しかしそれを超えて、では新たな世界へ方舟で漕ぎ出す希望を描くのか、というと、それが希望なのではない、というような方向性も感じた。学生時代に聖書を学んだ著者である故に、「方舟」というタイトルとモチーフも出てきたのではないかと思われる。
 
だが牧師が説教をするときには、それとは違う。確かにここには希望がある。神の創造は希望なのである。世界は、新しいものへと動き始めている。ヨハネの見た幻のような出来事は、いまこの瞬間にも起こっていることなのだ。
 
21:1 わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。
 
「海」が、得体の知れない不気味なもののメタファーとして聖書でしばしば描かれることをここに重ねると、その「海」がなくなったことで、次の「新しいエルサレム」がクリアなものに見えてくる。イスラエルから西を見ると、海がある。その向こうに島々があることを、預言者も心得ている。海の民との交流もあったし、海はそうした異国の民の住むところ、という捉え方もあっただろう。
 
だが、私は黙示録に於いては、「海」には「ローマ帝国」が隠されているような気がしてならない。あの海の向こうに、ローマ帝国がある。そこを都とするローマ軍が、イスラエルを支配している。特にこのヨハネの時代には、ユダヤ戦争を経て、すでにイスラエルにユダヤ人は住めない情況になっていた。正確に言えば、そうなったのは135年終結の「第2次ユダヤ戦争」においてであるが、マサダの戦いの悲劇は誰もが知っていたはずで、ローマ軍の怖さというものは十分身に染みていた。あの「海」の向こうには「ローマ帝国」がある。この、恨みにも似た感情は、ヨハネの手が「海」と書くときに、ちらついていたのではないだろうか。
 
ローマ軍に滅ぼされたエルサレム神殿は、国と民と信仰のシンボルの消滅を意味するはずだった。少なくともローマ軍はそう見ていた。だが、イスラエル民族の信仰は半端なかった。無のような状態の中に、そして通例なら戦争で負けた国の神は無用となるはずだったのに、民は悔い改めるようにして、いっそう神に仕える人々を起こしていったのだ。
 
私たちの上にも、ヨハネの見たような、新しいエルサレムが降りてくるだろうヨハネの見聞きしたものは、私たちもまた、経験するのだ。「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」(21:4)ということを実際に知るだろう。万物が新しくなったことを知るだろう。ヨハネは、そのために、主の「書き記せ」(21:5)の言葉に従い、このように書き留めてくれた。
 
説教者は、ここに「救い」を確かに見出す。そして、この救いが絶大なものであることを強調する。そのために、「クレメンスの第二の手紙」のたぶん冒頭の部分に触れた。
 
兄弟たちよ、私たちがイエス・キリストについて考える仕方は、神について考えるように、また生ける者たちと死せる者たちとの審判者について考えるようにしなければなりまぜん。そして私たちの救いを些細な事と思ってはなりません。(小河陽訳)
 
救いは決して小さなものではない。むしろ、どんなにキリストが大きなことをしてくださったか。私たちの思考を駆使しても及ばないレベルで、救いの業を成し遂げてくださったのか、聖書からつねに受け止めるようにしたいものだ。イエス・キリストを通して、神は歴史を創造し、それを完遂してくださるのだ。
 
ヨハネ伝には、イエスが息を引き取る間際に、「成し遂げられた」(ヨハネ19:30)と言ったと伝えられている。いま、元の言葉はそれとは違うが、「事は成就した」(21:6)と神はヨハネに宣言した。するとどうなるのか。今日の聖書箇所の結びを、よけいなお喋りは抜きにして、そのまま味わうことにしたいと思う。

21:6 また、わたしに言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。
21:7 勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ。わたしはその者の神になり、その者はわたしの子となる。
21:8 しかし、おくびょうな者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、みだらな行いをする者、魔術を使う者、偶像を拝む者、すべてうそを言う者、このような者たちに対する報いは、火と硫黄の燃える池である。それが、第二の死である。」
 
日本語では、「新天地」と言うと、新しい活躍の場所を意味する。私たちは、神の与える新天地において、その言葉のように活躍するというわけにはゆかない。だが、永遠に神を賛美するとか、その喜びが続くとか、何らかの意味で活躍できる、というようなことが待っている、と望むことはできるのではないだろうか。少なくとも黙示録は、そのような希望を拓いてくれていると強く思う。

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