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「ハレルヤ」を聞きながら

黙示録の講解説教が続く。いつしか18章から19章にまで旅してきた。19章は4節までで区切られたが、そこでは「大群衆の大声のようなもの」が、天から響いていた。その歌には、しきりに「ハレルヤ」との声が含まれていた。
 
今日の説教には、最初から最後まで、この「ハレルヤ」の歌があった。神の言葉の背景に、ずっと「ハレルヤ」が流れていた。礼拝は、かくありたい、とも思った。
 
説教者は、自分も驚いた、というように、恐らく会衆を貶めたいためにも言った。新約聖書に「ハレルヤ」が登場するのは、この黙示録19章だけなのだ、と。この先6節にもう一度登場するが、今回読まれた1,3,4節に三度、都合四度しかこの語は使われていないのだ。
 
もちろん、それはヘブライ語に由来し、「讃えよ。主を」というような構成になっている1語である。そして詩編にはしばしば用いられ、後半には特に「ハレル(ヤ)詩編」と呼ばれる一連の詩編が並ぶところが複数ある。そのため、旧約聖書の詩編を基にして、「ハレルヤ」という言葉を含むゴスペルがよく生み出された。否、最も有名なものは、ヘンデルの「メサイア(メシア)」を飾る「ハレルヤ・コーラス」であろう。
 
教会を訪れた音楽家が、礼拝堂で歌うことを望み、やがて洗礼へと導かれた逸話を交えて後、説教者は、天上でのこの「ハレルヤ」の歌を生き生きとイメージする。それは、目先の情況がどうだから、という理屈なく、天上では歌われていたという。14万4千の大群衆が、どんなに大きいものか、スタジアムを想像させた上で、具体的に、その場に現れたかのように示した。以後、この礼拝には、ずっと「ハレルヤ」の歌が流れ続けることになる。
 
さて、この歌を流すために、最初に19章から説き明かしたのであったが、改めて18章に戻って語り始める。そこでは、「大いなる都、バビロン」が投げ捨てられた。これはもちろん、当時のローマ帝国のことを指している。だが、バビロンという昔話がしたいのではない。そして、昔のローマ帝国の話で終わるのでもない。
 
いま、ここでの出来事なのである。これについては、「お前の商人たちが/地上の権力者となった」(18:23)というところに、会衆の関心を引き寄せる。そう言えば、これまでも「地上の商人たちは、/彼女(淫婦)の豪勢なぜいたくによって/富を築いた」(18:3)として黙示録に登場し、「地上の商人たちは、彼女のために泣き悲しむ。もはやだれも彼らの商品を買う者がないからである」(18:11)と記され、そのことで「不幸だ、不幸だ」(18:16)と嘆いていたのも、この商人たちであった。
 
この商人たちが動かしていた商品のリストが上げられている。その最後は「奴隷、人間」で結ばれる。ひとの「体」と「魂」を売り買いしているという、彼らの仕業は教訓的である。「体」も「魂」もあの商人に売り渡してしまった者たちは、残念ながら「ハレルヤ」と歌うことができない。説教者は、こうした事情を少しく強調していた。それは、内田樹(神戸女学院大学名誉教授)が、「SNSには人の命を奪うだけの力がある『呪いの言葉』が書かれていることがある。こうしたテクストには絶対に触れてはいけない」と言っていることに言及したことからも分かる。
 
内田氏は「読むと生命力が減殺されるテクスト」がある、とも言っている。教会が語る神の言葉は、生かす言葉であるはずだ。だが、私は思う。この神の言葉は、人間の肉を一度殺すものでなければならない、と。肉が死んでからこそ、霊に生きる復活があるのだ。それを、肉を殺すこともできないような生温い言葉だけを、恰も教科書のキリスト教の解説だけをするかのように語り、政治や世の中の悪を他人事として話して、肉の人間の人気をとるようなことしか語らないようであっては、実はひとを生かすことはできないし、命を与えることもできない。十字架の死があったからこそ、復活の命がある。自分も十字架につけられて死んだという経験があったからこそ、蘇りの命を受けることができる。これがキリスト教の、核心にあるはずである。
 
聖書のテクストは、内田氏の表現とは少し噛合わないところがある。だが、『勇気論』で氏が述べているのは、こうした宗教的体験の話ではないから、それはそれでよいのだ。雑誌『福音と世界』に長期にわたって連載していた『レヴィナスの時間論』は楽しく読ませて戴いた。武道論をはじめ、多くの著作を送り出している、人気の執筆者である。
 
説教者が特に話題に取り上げたのは、「拝金主義」とでも訳すべきだろうか、とする「マモニズム」であった。それは、普通の英単語でもあるが、日本にはその言葉すらない、と指摘する。つまりは、それを対象化して批判する視点すらないほどに、それに染まっている、ということである。
 
それは、バビロン「の魔術によって/すべての国の民が惑わされ」たことにも関係している。そう、説教者は「魔術」を強調した。人々を魔法にかけ、自分のことが分からないようにしたのである。催眠術にかかると、自己意識が消え、自分で自分をコントロールすることができなくなるだろう。しかも、自分では自分の意志で自分というものがある、と思い込んでいる。洗脳とかマインドコントロールとか言われるものの怖さである。かのバビロンの支配を受けてしまうと、そうなってしまうのである。「自分が何をしているのか知らない」(ルカ23:34)というのは、正にそういうことである。もちろん、誰でも、そしてもちろん私も、自身がそのような状態に陥っていないかどうか、警戒する必要がある。それがまた、「目を覚まして」いることでもあるのだろう、と私は思う。
 
その「魔術」によって、人々は惑わされる。そして「預言者たちと聖なる者たちの血、/地上で殺されたすべての者の血」(18:24)が流されてきた。預言者たちの言葉を封じてきたのは誰か。これを他人事だと捉えてはならない。私もまた、いま小さな声を封じているかもしれないからだ。「静かにささやく声」(列王記上19:12)を以て、神は呼びかける。「奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところ」(マタイ6:6)にて、神の語りかけを聴く必要があることを痛感する。
 
こうした危機的な世界を辿りつつも、説教者は希望を告げる。これらの困難な情況は、確かにある。だが、結局、それらは滅ぼされてしまうのだ。人を滅ぼそうとする力は確かに働くが、それに負けない人々がいる。というより、神がその敵を滅ぼしてくださる。この結論だけは、揺るがないのだ。決まっているのだ。これが希望である。
 
サッカーの試合を見て、ハラハラしている。後半の時間も残り僅か、一点リードされている。ああ、このままだと負けてしまう――と、ライブ中継なら不安になるだろう。だが、結果として、勝利するというニュースはすでに聞いている。そう、これは中継録画なのだ。ハラハラはするにしても、結果の勝利を知っているのだ。その勝利の瞬間を、録画の上ででも体験するのを、いまかいまかと待っている。私たちの信仰は、きっとそれに近いのである。
 
脳裏には流れている。「ハレルヤ」のコーラスだ。ずっとずっと、止むことなく歌われ続けている、「ハレルヤ」のメロディ。説教中も、ずっと聞こえていた。時にピアニッシモになり、騒音にかき消されそうになったかもしれない。でも、止まなかった。最後にはフォルテッシモで終わる、その瞬間を待ちながら、この説教の間に歌われ続けている「ハレルヤ」の歌は、確かに聴いていた。
 
この歌は、説教が閉じられても、終わることがない。まだ続くのだ。否、むしろこの説教を受けたいまから、新たな「ハレルヤ」の楽章が始まるのだ。誰が歌うのか。それは、私である。この説教を聴いた、すべての人である。本当を言うと、キリストに救われたすべての人、これから救われるすべての人を含むのであるが、さしあたり、この説教に応える人々、そして確かに聴いたこの私、それがこの「ハレルヤ」に参加するということから始めよう。
 
説教者は、もう歌っているではないか、と言う。さあ、こうして地上で集い――リモート画面も含む形で――、主を讃え歌おうではないか。そして、それは、自分の魂を大切にすることと同じだ、ということを説教者は付け加える。自分を尊ばない者は、自分を創られた神を尊ばないことでもあるからだ。
 
この点については、ちょうどいま読んでいる本の中に、心に残った指摘があった。最後に、それを私も付け加えることにしよう。その本は『まことの説教を求めて 加藤常昭の説教論』(藤原導夫)である。そこに掲載された、加藤常昭先生の「わたしたちの原点」(1992)という説教の本文に、ジョン・ヘンリー・ニューマンという、イギリス国教会からカトリックの聖職者になった神学者についてのエピソードがあった。次のようなものである。
 
「『あなたは神の存在を信ずるか』と言われて、わたしは『もちろん』と応える。『その理由』と問われたならば、『わたしは自分を信じているから』と答える」というのです。これは意表をつく言葉です。わたしは自分を信じているから神の存在を信じるとしか言いようがない。なぜそんなことを言うのかと問われるのならば、わたしの中に来てくださった、ひとりの人格を持ち、すべてを知り、すべてを審いてくださる存在である神、この神の存在を信じることなくして、わたしは自分の存在をも信じることはできない、ということなのです。

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