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力強い信仰の風

三日前、私の休日に妻が休暇を合わせてとってくれた。行きたいところがあるという。出かけた先は、福岡県嘉麻市にある、市立の織田廣喜美術館である。「ゑと本 ささめやゆき 石川えりこ 絵本作家のふたり展」のチラシを、近くの図書館で私が持ち帰っていたことがきっかけだった。猫のイラストが、妻の気を惹いたのだ。
 
石川えりこさんは、地元嘉麻市の出身。ささめやゆきさんは、同じ嘉麻市出身の画家織田廣喜の作品とのつながりがあるという。二人とも、多くの絵本のイラストを描き、福音館書店などから多くの本が出版されている。
 
展示物の中に、自伝のようなところが開かれている本があって、そこに、ささめやゆきさんが、山を自転車で駆け上がって、若いころからずっと教会に通っていた、という記述を偶然見た。その牧師が後に亡くなり、その教会を離れたと書いてあったような気がしたが、自転車でひとり山の上の教会を目指す少女の姿が、絵本さながらに私の頭に浮かんできて楽しかった。
 
今日の礼拝説教担当は、韓国出身の女性牧師である。神の言葉を口ずさむ、というのが今日のテーマだった。詩編第1編である。
 
1:1 いかに幸いなことか……
1:2 主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人。
 
説教者は、自身の思い出話を語る。山道を登り教会へ通っていたという。地域から一人だけだったので、歌を歌ったり、暗誦聖句の練習をしながら、山道を登っていたのだそうだ。それを聞いて、私は、ささめやゆきさんのときに頭に浮かんだ情景が、どうしても重なって見えてきて、思わず微笑んでしまうのだった。
 
さて、礼拝前には、信徒の代表の祈りが献げられる。謙虚な祈りが毎度献げられる。そして、その祈りも、これまでもよく聞くフレーズが含まれていた。
 
「主を忘れることの多い一週間でした」
 
私はふだんから、少しだけそれに引っかかるところがあった。が、今回は、その引っかかりがかなり大きかった。本当にそうなのか。私たちが、主を忘れて過ごしていたというのは本当か。
 
もちろん、祈りの趣旨は分かる。私たちは、自分がつねに主に祈っているぞ、というような傲慢な態度をとってはならない。自分はいつもいつも神に従って生きているのが、というような気持ちをもつことは、福音書のあのファリサイ派の人々の言っていたことと同じではないか。自分は信仰生活をちゃんとしているぞ、というような態度を取るべきではない。それよりはむしろ、罪人の私をお赦しください、と胸を叩くような思いでいたほうがずっといい。そして実際、自分が一週間にしてきたこと、自分の魂の状態、それはハレルヤハッピー、ということの連続であったわけではない。
 
だから、謙虚な気持ちからの言葉だったのであるに違いない。だが、私はこのときやけに気になって、そのことを心の中で反芻していた。主を「忘れていた」のだろうか。
 
そんな疑念に伴う緊張感が、山を駆け上る少女のイメージで、すっかり和んだことは言うまでもない。説教者はそれに続いて、大切な大切なことを告げた。
 
「私たちは神の言葉によって生かされているのです!」
 
全くアーメンである。しかも、選ばれた聖書箇所は詩編1編。「いかに幸いなことか」から始まる。さらに言えば、ずばり「幸い」と唐突に宣言する始まり方となっている。そして、この第1編は、詩編全体の序文ではないか、と言われるほどに、詩編というものを総括し代表する役割を担っているのではないか、と理解する人が多い。この150の詩の数々は、神と共にある者の「幸い」をうたっている、というのである。
 
説教者は、マタイ伝の山上の説教から、「心の貧しい心の貧しい人々は、幸いである」などに注目し、貧しさや悲しみ、苦しみや悩みなど、そのすべてが「幸いだ」と言えることへと導いてゆく。もちろん、単純に、不幸な目に遭ってもそれは幸いだからね、などいう気休めのような、冷たい慰めを示そうとするのではない。たとえ水野源三さんを例に挙げながらも、苦しみからの救いというものが信仰の核心なのではない、とするのだ。
 
水野源三さんは「瞬きの詩人」とも言われ、一定の年齢以上のキリスト者にはずいぶん知られていた。最近はどうだろう。人を崇めることを目的とする必要はないが、信仰の先達の模範は、もっと知られていいし、伝えていったほうがよいのではないか、とも思う。この教会ではよく知られた人であったのだろう、このたび詳しくは説明されなかった。
 
水野源三さんは瞬きで伝えた言葉によって、多くの詩をつくっている。その中に「罪からの救いを」というものがある。説教者は直接それを指摘しなかったと思うが、不幸からの救いではない、という言葉を聞いたとき、私はすぐに「罪からの救いだ」と思った。だからこそ、説教者が告げた「キリストが与えられていることの幸い」というものがあるのだ。それが私たちには、限りなくうれしいのだ。
 
「流れのほとりに植えられた木」(1:3)というのは、恵みの象徴のような姿である。神の言葉に聞き従う人の幸いを、説教者はそのようなイメージで伝えた。パレスチナではまた特に、貴重であろう「水」というものにも着目させ、谷川の鹿もそうだが、命の水を得ることの喜びというものに気づかせてもらえた。
 
信仰の純粋さというものを、私たちは、最近まともに受け付けなくなっているような気がする。私だけがそうひねて見ているのかもしれないが、世間に阿り、調子を取って社会常識的な自分を見せようとする傾向が強くなっているのではないか。むしろそれのほうが当たり前で、信仰というものは健全な社会生活をすることと思い込んでいるのではないか。そんなふうに感じることがあるのだ。
 
先日、『知られざる懸け橋』を読み終えた。著者は黒瀬悦成という人だが、一種の伝記であり、枡富安左衛門氏の生涯と、それが遺した影響や意義を綴っている。高倉徳太郎牧師と友に信濃町教会を建てた人だというが、それよりもなお、韓国で農業を当地の人々のために発展させ、それで得た財でキリスト教伝道と、韓国の人々の教育のために尽くしたのである。その本は、1994年に、60周忌の追悼礼拝が、ソウルの教会で営まれたという描写から始まる。この年代と場所を聞き、日本人がこれほどの熱意と敬意とで記念されるということが、尋常でないことを、多くの方は覚ってくださるだろうと思う。
 
照子夫人が、未信徒との結婚を教会側から反対される中、夫をキリスト者にします、との信仰で結婚生活を始めたという。教会にはなんの関心も示さず、どの宗教も同じ、と豪語していた枡富安左衛門氏が、やがてキリストの救いを体験する。そして、自分の全事業を、キリストのために費やすのである。
 
非常に汚い言葉で一言言わせてもらうが、これはバカである。韓国人のためにそれほどまでに全生涯を賭けねばならぬ必然性は、この人にはなかった。ただ、聖書からの言葉、聖書の神への信仰、それだけが彼を動かした。純粋な信仰の姿を、本書は描く。まことに生活の隅々まで徹底している様子が伝わってくる。
 
このような「信仰バカ」が、私のどこにあるというのだろう。全くないとは言わない。私も、信仰のために職業上安い給料の道を選んだ。向こう見ずであった。だが、大きな力をもつ事業や学校建設など、枡富安左衛門氏の足元にも及ばない。生活の隅々に生かされたその信仰の姿には、その影を踏むだけの資格もない。私はバカに遠く及ばないのである。
 
「懸け橋」という言葉はベタだが、と断った上で、著者は、それでもその言葉しか浮かばなかった、と告白する。韓国と日本との確かな懸け橋となったこの人のことを、私は今の今まで知らなかった。加藤常昭先生の説教で触れられたから、知って、探したのである。
 
こんな大きく結ばれた実のことを、私たちは知る努力を惜しんでいる。偉大な先達はたくさんいる。私はいくらか知っているほうだと思っていたが、とんでもない自惚れだった。さらに、この人のことが「知られざる」と形容されたように、もっともっと世の中の陰で、キリストの喜ばれる業を、人知れず営み続けている人が、いまもどこかにいるはずである。
 
そして、できるならば、その一人になりたい、と思った。
 
説教者は最後に、詩編がしばしば対照的に示す、「正しき者」と「悪しき者」とについて触れた。かつて私たちは「悪しき者」だった。しかし、イエス・キリストと結ばれてからは、私たちは「正しき者」とされた。聖書をその立場で読むときに、己れの「幸い」を覚ることができる、というのは本当なのだろう。もうひとつ開かれた、ルカ伝11章の言葉が、それを示している。
 
11:28 しかし、イエスは言われた。「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」
 
尤も、私たちは気を付けなければならない。ここで、自分はキリスト教を信じているから「正しき者」なのだ、と豪語するほどにまで、人は暴走する生き物であることを自覚しておく必要がある。聖書に通じており、生活の中で修行めいた思いまでしながら、律法を守っていたあのファリサイ派の人々でさえ、イエスの敵となってしまっていたのだ。私たち現代の「クリスチャン」が、そうならない、という保証はどこにもないのである。
 
さて、説教前の祈りに、強く引っかかっていたことを先に挙げた。「主を忘れることの多い一週間でした」という祈りに、「アーメン」と言ってよいのかどうか、ためらいを覚えるのであった。
 
説教を聞いているうちに、私の中で私にとっての謎が解けてきたような気がした。私がもしも主を忘れたとしても、主は私を忘れない。主は私から離れない。そこにしがみついているのが、キリスト者というものでありたい、と私は願うのだ。その意味では、説教者が最後に断言したように、「私は『正しき者』だ」という宣言が、実は重要であり、根柢的であってよいのではないか。「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である」というイエスの言葉もまた、決して私たちを裏切ることはない。「神の言葉は人を生かす」のである。
 
この説教は、「主を忘れていました」のような妙な遠慮や謙遜を、吹き飛ばしてくれたのだ。韓国の人々の信仰は、明るく突き抜けている、と言われることがある。辛く苦しい歴史を背負いつつ、そこから「幸い」を見出す祈りと信仰がそこにある。その意味では、この説教は、韓国から吹く、さわやかな力強い信仰の風ではなかっただろうか。罪から救われた、「正しき者」として聖書を読む。イエスが「幸いだ」と言ったのだから。そこにしがみついて、前進するとよいではないか。私には、このメッセージが、そのように聞こえて仕方がなかった。

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