見出し画像

死を超えた礼拝

ある方が家で事故に遭われたという、びっくりする知らせから説教は始まった。無理をしないように、との配慮を聞いても、自分がやらねば、との思いが、間接的にでも伝わってきた。だがここは本当に無理をしないで養生して戴きたいと切に願う。教会がそれほど自転車操業でもないのだから、また悪くなるようなことがあってはならない。
 
今日も黙示録の講解説教が続く。
 
19:1 その後、わたしは、大群衆の大声のようなものが、天でこう言うのを聞いた。「ハレルヤ。救いと栄光と力とは、わたしたちの神のもの。
 
このイメージがあるだけで十分だ。本当は、今日の指定箇所は5節から10節である。この1節は先週の割り当てである。だが、加藤常昭先生も、同じ聖書箇所から続いて語るようなことが時折あり、その意味を重々理解している説教者は、前後の箇所を大切にすることについて、ためらうことはない。
 
筆者ヨハネは、パトモス島に流され、希望の見えない中でこれを記しているとされている。実際はどうであれ、この設定は、人が孤立してもなお、神からの幻を与えられ、それを書き記すことができること、さらにそれが、魂でつながる仲間の許へと伝わってゆくこと、そしてそれを神の言葉としてまた仲間が励まされてゆくことを証明している。
 
前回の説教でも触れたように、「ハレルヤ」と新約聖書が告げるのは限られた場面である。すべてこの黙示録に限定され、19節の1,3,4,6節だけである。旧約聖書の詩編において、その最後の3分の1だけで23節にわたり登場しているのと、格段に違う。
 
「主をほめたたえよ」と歌っても、伝える意味は同じと見てよいだろうが、「ハレルヤ」は日本人にも広く耳に馴染んだ言葉である。黛ジュンの「恋のハレルヤ」(1968)が浮かぶ人の年代と、ゆずの「雨のち晴レルヤ」(2013)から入る年代とではだいぶ違うと思いきや、後者はいわゆる朝ドラ「ごちそうさん」の主題歌であったために、けっこう年配の方だからこそご存じであるのかもしれない。
 
説教者が挙げたのは、ヘンデルのオラトリオ「メサイア」の「ハレルヤコーラス」である。復活祭で歌う教会が多いようだが、降誕祭で歌う教会もある。「王の王、主の主」と繰り返す力強いメロディは、幾度か歌えば覚えるのも難しくない。京都の市民クリスマスで初めて歌ったが、高音も勢いで出るものだと感慨深かった。
 
しかし、これを歌う場が、歓喜の場であるばかりとは限らない。ミサイルが飛んでくる中で、声を潜めて歌えるだろうか。疫病が蔓延している中で、果たして歌えただろうか。不条理な故の悲しみの中で、歌うことができるのだろうか。
 
ヨハネ自身も、これを歌えるような情況ではなかった。だが、彼は「聞いた」のだ。「ハレルヤ」という歌声を、天から「聞いた」のだ。
 
ここで説教者は、ルターに光を当てる。ルターは罪と死と悪魔の力と戦っていた。その伝わる話からして、現代でいう鬱のような症状をそこに認める医学者もいる。聖書を訳すルターに、悪魔が現れたのを見てインク壺を投げつけたというエピソードが特に有名だが、その痕が長く遺っていたと言われている。
 
悪魔は人を神から離そうと努めるが、人が人だけの力で、それに抗うことは不可能である。しかもその策略は巧妙である。人が気づかない形で、人を操作しにかかる。いくらかでも、知恵を与えられて、それから逃れる道を選ぶことができるようになれば、と願うばかりだ。
 
自分が自由意志で、正しいものを選んだ、と人は思いたい。だが、悪魔はその「自称」自由意志を操っている。「自称」正しいものというものを、錯覚させている。民主主義はベターな制度だとは思うが、そこを利用するのも、悪魔の常套手段である。これについてはいろいろと思うところはあるが、日頃時折指摘しているので、いまは追わない。
 
この説教では、「死」が重要なテーマとなっていた。近年殊に、教会員が亡くなることが多くなった。多くの人が教会を訪れ、教会の人数が増えていた時期と関係がある「世代」というものなのだろうか。教会員の平均年齢も、信じられないくらい高い。もちろん、それはそれで恵みである。しかし、事実「死」は切実な目の前の問題となっている。現にいまも、それを覚悟しなければならないような事態が複数あるのだという。
 
この「死」について、罪が勝利することはない。説教者は断言する。それはただの「死」では終わらない。この確信は、この説教の核心である。
 
19:9 それから天使はわたしに、「書き記せ。小羊の婚宴に招かれている者たちは幸いだ」と言い、また、「これは、神の真実の言葉である」とも言った。
 
次に説教者は、「幸い」という言葉に注目する。黙示録の中には7度現れるといい、ここはその中央、4度目である。因みに黙示録で「幸い」が登場するのは、1:3,14:13,16:15,19:9,20:6,22:7,22:14である。自分でお調べください、という楽しみを与えてくれていたのだが、中には探すのが大変な方もいるだろうと思い、ここにご紹介することにした。
 
この「幸い」については、マタイ伝の山上の説教で、5:3-10に「八福」と呼ばれる形で並ぶ。11節にもあるが、それはこの並びに数えないのが通常である。マタイ伝ではこの後に単発で3度現れるが、大きくはこの5章にまとめて置かれている。黙示録は、先に挙げたように、散在している。
 
説教者はこの講解説教において、「幸い」の逆の「不幸」について何度か触れている。「ウーアイ」という嘆きの響きの言葉を以て、私たちに強烈に印象づけた。このように、「幸い」と「不幸」の対比は、鮮烈である。ただ、私たちはここからは、むしろ「幸い」を見上げるとよい。「死」という現実の風を覚えるならば、そこに「幸い」を見出して歩むほうが、喜ばしいではないか。
 
先走って、21章の聖なる都の幻や、花嫁の喜びなどを、説教者は口に出す。それは「教会」のことだ、とも言う。もちろんそれは、建物のことではないし、組織のことでもない。「人は神の民となる」(21:3)のである。そしてこのとき、「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」(21:4)のである。
 
さあ、いま大群衆の「ハレルヤ」の声が重なる中で、「小羊の婚礼の日が来て、/花嫁は用意を整えた」(19:7)のであったが、そこに教会の姿を重ねることもできようか。説教者は、私たちがこの婚宴において、招待客としてそこにいるのか、花嫁そのものであるのか、黙示録は曖昧な点があることを告げた。
 
だが、どちらか一方に決める必要はあるまい。この婚宴のセットの中で、あなたはこの席ですよ、などと言われ、手許のチケットの座席番号を見比べなくてもよいであろう。なにせ天の大群衆、轟音ともハーモニーとも分からぬような、天のコーラスである。そして神にできないことはないのであるから、同時にどちらの役割をも与えられていて、何の矛盾があろう。波動であると共に粒子でもある電子の如く、神の恵みにより造りかえられ、新たな命に生かされた者については、神がなんとでもしてくださるはずではないか。人間のしきたりになど、拘泥しなくてよいに違いない。説教者も、概ねそのようなことを述べていたように思う。
 
加藤常昭先生と21章の初めについて学んだ逸話が語られた。19章なのだから、時期尚早だったかもしれないが、要点は、ある牧師の観点が、私たちが天へ昇るというようなところにあったものだから、加藤先生は、聖書からすれば、天のエルサレムが降りてくる(21:10)、天の礼拝が降ってくるのだ、と教えたということだった。
 
このとき、説教者は奇妙な言葉を漏らし、私たちの注意を引きつけた。私たちには、「光が落ちてくる」のです、と言ったのだ。「死」は超えられる。死を超えて私たちは歩み続ける。その時、上から「光が落ちてくる」のだ。なんとも斬新な表現である。光は射してくるものであり、辺り一面を照らし包んでしまうものである。だが、繰り返すその言葉は、「光が落ちてくる」であった。この世界で最速とされる光が、恰もスローモーションでも見るかのように、「落ちてくる」というのは、なんともドラマチックな表現だ。しかも、落ちてくるからには、そこは闇である可能性が高い。私たちが望みを失いかけた闇の中にあって、光が確かに落ちてくる。その幻を、共に見ていてほしい。説教者は、それを訴えるかのように、力強くその幻を告げるのであった。
 
そうしたら、その先にイエス・キリストが、傷ついた両手を広げて待ち受けている。そこには壮大な宴が準備されている。かつての死者たちですら、出迎えてくれるであろう。それが、黙示録が描く世界である。
 
歴史の終わりには、死はもはやない。共に生きる日がくるのだ。涙は拭われ、忍耐も苦難も報われる。そのためには、いまの一日たりとも無駄なものはない。私たちは幻を見るだろう。賛美の歌を聞くだろう。そうしたら、遠慮することはない。私たちも声を合わせ、「ハレルヤ」と叫ぼうではないか。そこに光が落ちてくる。
 
イエス・キリストの救いを胸に、その光に包まれて、私たちは、いままた一歩を踏みしめる。ただイエスのみを見上げれば、そこに光があるのだ。光を探す必要はない。
 
この「良き知らせ」を、福音の説教は伝える。ここに、「死を超えた礼拝」がある。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?