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光につつまれた都

「礼拝はままごとではない!」はっきりとした言葉が説教者の口から零れた。そこで命の水を飲み続ける場なのである。しかしこれは、叱りつけるような言葉ではなかった。「泣いていてもよいのだから」ということへと繋がるものだったのだ。その涙も、神が拭ってくださるのだから。
 
教会で、また突然、天に召された方がいた。プライバシーもあるからその経緯をここで再現はしない。ただ、その方は先週の礼拝にも、いつもどおりに来ていた方だったのだ。いわば突如として、天へ出かけて行かれたかのようだったのである。
 
しかし、先週の礼拝の後、ふだんと違う姿を見た、と説教者は言った。説教にとても霊が満たされたとでもいうのか、呼び止めて、説教について「ありがとうございました」と言ってくださったのだという。
 
同じく黙示録からの講解説教だった。新しい天と地の希望を語ったのである。あるいは、それは終末論に関するものであった、と言ってもよいかと思う。私など単純だから、その場で言及された本を、すぐに読みたくなる。古書でしか入手できないものなので、その日のうちに探して注文した。また、同じ著者関係の別の本も以前薦められていたので、併せて注文した。
 
天の都エルサレムが降りて来る。このうれしいニュースに、私たちは確かに先週幻を見た。きっとその方も、それと同じか、それ以上の幻を見たのだろうと思う。そして、その次の説教を耳で聴くことなく、その天の都に旅立たれたのだ。
 
説教者というものは、毎週語る説教に対して、命懸けであるものだ、と私は信じている。そこで語った説教を、生涯最後に聴く人が、その場にいるかもしれないからである。いまそこで座って説教を受けている人が、来週もそこに座っているという保証はない。人間は、それを知ることができない。だからそれだけの意味のある説教、魂を生かす福音を語らねばならない、と思うのだ。福音ならざるもので笑いをとったり、教案誌を書き換えたり、コピペで原稿を形だけつくったりすることなど、論外である。
 
この説教者は、それを確かに心得ている。先週の説教の言葉は、どこを切り取っても熱い血がほとばしるようなものだった。いや、毎週がそうである。ただ、本当にそれが最後になることを想定はしていなかったことだろう。つねにベストを尽くす、それが語る者のみならず、私たちもまた、何をするにしても必要な真摯さである。
 
だから、「礼拝はままごとではない」のである。というと、子どもたちにとり「ままごと」は成長過程で必要なことだから、悪い例に使うべきではない、というお叱りを受けるかもしれない。それもその通りである。私は「幼稚だ」という表現も、実は口にするのを憚ることがある。幼子のようにならなければ、というリスペクトをもっているからには、悪い意味の言葉で使いたくはないのである。だからこの「ままごと」にしても、説教者はそうした迂闊な使い方をしたのではなく、先に挙げた悪い例のように、おとなが遊び半分でふざけた形で切り盛りするようなものではないのだ、という意味で受け止めておきたい。
 
この新しいエルサレムには、具体的な数字がある点が面白い。説教者は、前回口にした数字か一桁違ったことを詫びた。それで調べてみると、驚くことにこの面積は、黙示録が執筆された当時の、ローマ帝国の面積に匹敵することが分かった。実際に計算していたわけではないとは思うが、古代人の想像力には舌を巻く。もちろん、それを神が教えたのだ、と言ってしまえばそれだけであるのだが。
 
当地の都市は城壁で囲まれ、敵の侵入に備えている。その十二の門や宝石についても丁寧に聖書は記しているが、やはり目を惹くのは、次の流れではなかろうか。都の中には神殿がない。主と小羊が神殿だからだ。また、太陽が照らす必要もない。神の栄光と小羊の輝きがあるからだ。ここに、諸国民が来る。諸国の王たちも来る。このような開かれたあり方については、先週も語られていた。そしてまた、「都の門は、一日中決して閉ざされない。そこには夜がないからである」(21:25)には驚かされる。
 
夜は閉じられるものなのである。しかしもはや、閉じられない。夜の闇を突いて侵入しようとするような敵はいないのだ。なぜか。そもそも夜がないからである。小羊の輝きが常にある。光あるうちに歩め、という言葉は、ここにもつながっているように見える。人の住む世界には、昼がある、夜がある。その夜に、誘惑があり、試みがある。また、ユダが裏切ったときは、夜であったのであり、イエスの裁判を見守るペトロは、夜に人が焚いた火明かりがあっても凍えていた。
 
説教者はここで「都市」という言葉を繰り返した。都市とは何か。これを考察すると、それだけで一冊の本が出来上がることだろう。古代ギリシアでは、ポリスと呼ばれる都市そのものが国家を意味した。古代ローマは、土木建築に優れた技術を有しており、都市を築くことで支配を拡大した。都市部の水道の実現など、驚くばかりである。
 
ただ、都市はそのようなハード面だけでできるものではない。所詮、都市の本質は人である。人が都市機能を考え、組織をつくるのだが、そちらが中心となり、人が疎外されるという既定路線に陥らないように、人間社会は十分配慮すべきだった。
 
これは、「教会」というものに似ている。教会が建物でない、という認識は広く行き渡っているが、まるで国家のように、教会という抽象的な「組織」が人格をもち、人を支配するようになっていないか、私たちは強く見張っておかなければならない。
 
加藤常昭先生の説教論は常々尊敬し、教えられることばかりであるのだが、その様々な説教やエッセイで、少しばかり気になるのが、「教会」についてである。「教会」というものの位置づけが非常に大きく、強いのである。うっかり読んでいると、教会に従わなければ救われない、というふうに聞こえてしまう場合も少なからずあるような気がするのである。
 
これは「教会」という語の概念の理解によるものと私は考えている。現実にここにある教会組織やなんとか教団というもののことのように聞こえると、怪しくなる、ということである。プロテスタントは、カトリック教会から分かれて生まれたが、それは、カトリックの「見える教会」から「見えない教会」への理解の深まりによる意味があった、とも考えられる(事はそう単純ではないが)。そのプロテスタントでさえも、その後「教団組織」が恰も「教会」のすべてであるかのように振る舞っているのではないか、という反省は必要ないだろうか。
 
組織としての教会に毎週来てもらって、献金を置いていってほしいのは、人間臭い牧師の本音の部分にもしかするとあるのかもしれないが、加藤先生は、もちろんそんな教会を想定して語っているのではない。そして牧師であれ、役員であれ、世が定めた法人格を、教会のすべてだと錯覚しないようにして、キリストの体であり続けてほしいと思う。
 
元に戻るが、都市は、運営上も様々な問題を現在抱えている。その中で、対処しにくい問題として、精神的な問題が指摘される。人混みの中でこそむしろ強く覚える「孤独感」と、「つながり」の虚偽あるいはそこからの逃避などである。故郷を離れ、それまでの束縛された生活からいきなり自由を与えられた大学生を、洗脳的な宗教グループが待ち受けている。「孤独」につけいるのだ。
 
教会組織も、気をつけなければならない。新しい人が来なくなったとき、いませっかく以前から顔見知りとなっている仲間たちが結びつくことが重要だ、というような考え方をするところもある。教会員の居場所でありましょう、などというスローガンを掲げることがあるかもしれない。そして、東日本大震災で急に広く知られるようになった「絆」を強くしましょう、などとも口にする場合がある。「絆」は同時に「ほだし」でもある。本来、それは家畜を繋ぎとめる紐である。切ろうにも切れない関係のことをいうのである。教会組織が、信徒を縛り離れられなくするようなあり方をし始めたら、要注意である。逆にまた、教会の言うことを素直に聞かない者は、「聖書にあるように」などと言って「除名」扱いをする。そうして、右も左も弁えない人々を繋ぎとめておこう、とするようなことも、やろうと思えばできるのである。
 
天の都エルサレムは、そうした人間的な場所ではない。先に挙げた門や明かりについてもそうだった。説教者は指摘する。そこには「聖と俗」の区別もないのだ、と。ファリサイ派という名は、分離するという意味だった。自分たちは俗世間とは違うのだ、というプライドを表すものだった。だがそもそも「聖」という概念も、そのようなものであった。特別なもの、という意識が、「聖」の言葉にこめられていた。新たな都においては、そのような区別さえもう必要がなくなっている。悪魔はもう襲わない。ここは神の国、神の支配する領域である。俗なるものを区別する必要がなくなるということである。
 
すると、黙示録の記者としては、ひとつ大きな慰めが与えられることになる。ここまで、実に酷い描写で、悪との戦いや裁きが書かれてきた。だが、もうそのような区別が意味をなさない場となるのである。キリスト者は、キリストを信じる故に、他の一般の人々とは食い違うということで、迫害を受けてきた。キリスト者は地上では寄留者として生きなければならなかった。ある意味で、自己の中に分裂を抱えた生き方が強いられていたのである。それがいまや、キリスト者がキリスト者のまま、この町で暮らしてゆけるのである。もう迫害もされないし、命を狙われることもないのだ。びくびくして生活してゆくこともないし、信仰を告白すべきかどうかなどという悩みも必要がなくなったのである。
 
また、これは説教の最後のところでだったが、説教者がこの都の風景について触れたことが興味深かった。それは、この天の都は、確かに「都市」であるのだが、「家」について言及されない、ということだった。確かに、個々人の「家」には一言も触れられていない。不自然な町なのである。ここから説教者は、自分の家や自分のことだけを考えてあれこれやるような場所ではないのだ、という理解を示した。自分本位で、自分をやたらと隠すような必要はもはやないのであって、それまで縁のなかったような人々や国々とも、共に手を携えて主を賛美することになるのであろう。
 
そのような理想郷を、人は欲しかった。ダビデがいつか再来し、新しいイスラエル王国を築いてくれるもの、というメシア願望が人々の間にあったのだという。しかし、かつてアッシリアやバビロニアといった帝国で酷い目に遭いながらも、イスラエルは復興を果たした。それなのに、再び今度はローマ帝国により、神殿は破壊され、ユダヤ人は駆逐された。もう人間は、キリスト者であっても、諦めなければならないところだった。もうこんな町を望むことはできないのではないか。
 
説教者は希望の言葉をここで告げた。「だが、神は諦めていない」と。この神の思いは、聴く私たちの力となるだろう。たとえ私の心が凹んでも、希望を見る望遠鏡がへし折られても、私の信じるあの神は、決して諦めることはないのだ。
 
まるで荒唐無稽な絵空事のような黙示録ではあるが、決してそれは嘘事ではない。まだ誰も、それの真偽を定めることはできないのだ。この黙示録に書き留められた計画は、いまこの教会――もちろん良い意味での――で、つねにすでに始まっている。キリスト者が信仰でつながる、ある意味で仮想的であるかもしれないような場においての出来事が、その始まりなのである。
 
説教者の教会とのつながりもある教会の牧師が、先週召されたという。SNS関係でその知らせは見たが、そのような関係があるとは知らなかった。まだ高齢ではなかったが、病魔に見舞われた。治療については、緩和ケアではなく、自宅での治療を選んだ。しかも礼拝説教を、ずっと続けていくようにしたのだ。それがウェブサイトから見ることができる、ということを知らされたので、私は早速開いて見た。最後の説教であった。声が出しにくく、少し話す度に疲れを見せるような語りだったが、淡々と福音を語っておられた。
 
その葬儀では、「主よ、いまここに」が、会衆により力強く賛美されたという。私の愛唱賛美と言っていい。私の信仰の姿勢はこれだ、と示してもいい。その牧師とは面識はなかったが、信仰によって魂はつながることはきっとある、という希望を懐かせて戴いた。私の勝手な思い込みであるかもしれないが、そのような意味でも、聖書の言葉や賛美歌というものは、いいものだ。
 
「死」というものがすべてを分かつことはできない。天の都エルサレムは、「死」の彼方にあった。そこには夜がなく、光だけであった。ウルトラマンが「光の国」から来たというのも、きっとこうした理想の中で得たファンタジーであったことだろう。説教者は、私たちは「小羊の命の書に名を記されているのですから」と、この説教を結んだ。
 
その後礼拝は、礼拝報告の後に閉じられることとなるのだが、説教者はすべての報告を終え、退席するにあたり、最後にこう一言告げて、壇上から降りた。教会の建つこの土地を頭に置いてのものだっただろうと思う。その言葉がまた、印象的だった。「それでは、小さな石を、この町のために積んで参りましょう。」

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