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救いのスペクタクル

先週はイレギュラーであったが、今日の礼拝がゲストの説教者であることは、以前からの計画通りだった。
 
何代も続くクリスチャンの家系であるというが、特に父上が、牧師であると共に、名だたる聖書学者であった。これはプレッシャーがあっただろうと思う。案の定、牧師になるという思いも召しも、当初は感じていなかった。父上亡き後に、それは突如訪れる。エレミヤの胸に抑えられない燃える火が生まれたように、聖書に目が開かれるようにもなり、こうして牧師となったということだ。
 
説教は出エジプト記14章の一部。葦の海における奇蹟の場面である。説教の中で固定的に捉えられていた情景は、もちろん映画で有名になった、海が割れるあの情景である。それについては、殊更に幾度も語った、というふうではない。だが、必然的にその場面が、聴く者の脳裏に留まっていた。
 
繰り返されたのは、「モーセの肩越しに」というフレーズであった。この画面の切り取り方に魅了された。このような、聖書の場面に引き入れる、視覚的な提示というのは、なかなかいい。そのイメージが、今日の説教の決定的な画となる。モーセの背後に、私たちも立つ。何が見えるか。神の業である。
 
結局私たちは、モーセの肩越しに主の業を見るように招かれている。最初のほうで出された命題であるが、これに尽きると言ってよかった。
 
具体的に、そこには何が見えたのか。映画で見たような、奇蹟のスペクタクルなのか。それもあるかもしれないが、説教者はしきりに、「海」に意識を集めさせようとしていた。聖書において「海」というのは、決してリゾートでもないし、人間にとり親しみのもてる相手ではない。日本人ならば、海の中に「母」を見、命の源を覚えることも多いだろう。「海の幸」は人間への恵みである。海外からの風を受け止める波止場と思うかもしれない。だが、聖書では「海」は不気味なもので、人間の力が遠く及ばない大いなる存在である。
 
説教者はこの「海」について、抽象的にそれを「混沌」とも呼んだ。以後、説教において、この「混沌」という言葉が何度も繰り返されることになる。
 
モーセが手を海に向かって差し伸べると、主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、海は乾いた地に変わり、水は分かれた。(出エジプト14:21)
 
これが壮大な情景だったが、これを私たちはモーセの肩越しに見る。否、目撃する。神の業を証言するために、これを見たということだ。
 
モーセは民に答えた。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」(14:13-14)
 
私たちは、自分が何かをするのだ、と焦る必要はない。また、何をしてもダメだ、と諦める必要もない。静かにしているのだ。すると、主の救いを見るのだ。
 
そのとき、「激しい東風」が吹いたのだった。「風」は、聖書を少し読み慣れた人には、必ず重なるイメージがある。それは神の「息」であり、神の「霊」なのだ。語としては、これらは皆同じ原語で、それを翻訳ではその都度訳し分けている。しかし、これらのイメージは、いつでも移行可能にしておくべきである。翻訳の選択が正しいとも限らないし、事実複数の意味を兼ねているとしか思えない箇所もある。
 
「霊」は創世記の場にもあった。こうして、この出エジプトのひとつのクライマックスの情景から、創世の時代から、イスラエルの原点とも言えるこの場面、さらにはその後イエス・キリスト、そして黙示録の場面にまで、説教者は導く。この壮大な物語が、短い説教で果たせるというのは、感動的である。
 
「海は乾いた地に変わり」(21)の中の「乾いた」という言葉は独特であるという。「イスラエルの民は海の中の乾いた所を通ることができる」(14)と「イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んで行き」(22)の「乾いた」は同じなのだが、先のものは違うのだ。この辺りは、旧約聖書を原語で読む方ならではの通知であろう。
 
混沌をイメージさせる「海」は、荒れ果てて命の失せたところであることを伝えるらしい。だが、荒涼としたこの世界は、確かにそのようなものとなった。説教者は必ずしもそのようなふうには伝えなかったが、私は連想的に、そこに少し違う風景を見ていた。「戦争」のもたらすものへ、私たちはどうやら「憎しみ」を懐くべきであろうかと思ったのだ。その「憎しみ」は、決して誰か特定の悪者に向けてのものではない。誰かを悪者に仕立て上げれば解決するような問題ではないのだ。それは私の中にもあるものなのである。確かに私は確実に、その中にかつてあった。いまはそれとは違う光の世界を知った。もちろん、だから私は光輝く人生だ、などと浮かれるつもりはない。依然、どす黒いものに覆われており、隙あらばいつでも全身を支配してしまおうとする「混沌」が一歩のところにいる。
 
説教者は示す。モーセの指を見よ。肩越しに見えるその指は、どちらを向いているか。そう、約束の地である。残念ながら、モーセ自身は超えられなかったが、この後、ヨルダン川を渡って、その約束の地に入る物語がある。
 
京都の牧師のメッセージでは、よくこの二つの川を渡る比較が語られていた。自分の罪を知る。そして出エジプトを果たす。洗礼を受けてキリスト者としての歩みを始めたとき、それは葦の海を超えたことになる。だが、それで万事終了ではない。心の刷新とでも言うのか、教理や教派によってはいろいろ異なるだろうが、もう一段階、信仰の歩みで自分の変革がなされる時がくる、というのだ。それが、ヨシュアを先頭にした、ヨルダン川を渡る出来事である。教会員に、熱く語っていたものだ。ヨルダン川を超える経験を求めなさい。
 
その後、イエス・キリスト自身が「道」となった。「道」というのは、日本語でもそうだが、様々なメタファーとして持ち出される。日本の芸には基本的に「道」が付く。書道・華道・茶道といったものばかりではない。いまスポーツに分類されるものであっても、柔道・剣道などというのだ。単に力強いだけではない、というのがその本来の姿だった。だから面白いことに、野球道や相撲道などというのもそうだろうし、総じて武道などというと、そこには精神的な修養のようなものが根柢を流れていると考えざるを得ない。
 
およそ「キリスト教」という言葉すらない新約聖書の時代、聖書にある「道」という言葉が、「キリスト教」と訳してちょうどよい場面は幾つもある。いまでも「伝道」というから、私たちは自然にそれを受け容れているものと思われる。
 
そのキリスト、つまりイエス・キリストは「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハネ14:6)と宣言した。いま私たちが見る「道」は、イエス・キリストにほかならない。そしてこの道は、終局を予示している。
 
わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。(黙示録21:1)
 
そこには夜がないどころか、「海」もないのである。あの「混沌」がなくなったばかりではない。あの命も水もない乾いた海も、同様にないのである。私たちは乾いた地にいるかもしれない。混沌により翻弄されているとしか思えないかもしれない。だが、モーセの肩越しに見る風景を信仰として懐く者には、神の東風が吹いてくる準備ができている。神の息が吹きかかり、神の霊が降りてくるのだ。
 
イエスの洗礼のときにも、その神の霊は来た。「洗礼」とは、「溺死」するという意味の言葉で表現されるものである。カトリックのもつ多くの秘蹟の多くを、聖書からして秘蹟扱いする必要はない、としたプロテスタントも、この「溺死」たる「洗礼」を退けることはしなかった。イエスは洗礼から立ち上がったが、そこに、イエスの死と蘇りを重ねることも、いまでは可能なのである。また、そのイエス・キリストが、私たちの貧しい存在にも、おかまいなしに、自分に死に、主に生かされる経験を、恵みとして与えてくれる。
 
そうなると、説教者が告げたように、この命のないような乾いた海、というのは、本当は良いことを意味しているのかもしれない。神の風は、混沌の海を干上がらせ、確かに「死」をひとつには経ることにはなるのだが、そこから新しい命の道が始まる希望を、モーセの後ろから、私たちは見守るべきなのである。そこでは「死」も滅ぶ。「復活」がもたらす「命」があり、それは永遠に輝くであろう。
 
最後に触れておく。説教者の語る言葉には魅力があった。視覚的なイメージが豊かであった。現在形を並べたり、体言止めを効果的に繰り返したりして、生き生きとした様子を伝えてくれた。非常に詩的な表現も多用し、聴く者に豊かなイメージを与えようとしていることが窺えた。メタファーを含む豊かな情景を想像させる言葉の連続は、美しかった。
 
ただ、少しばかりその流れが速すぎた。原稿にあるそれらの言葉は、決して気障なものではないのだから、慌てて通り過ぎようとしないで、ゆっくりと、一つひとつの有様を思い浮かべることができるように言葉を零してくれたら、印象派の絵画を思い描くように(朝の「日曜美術館」が印象派の特集だった)、ゆったりとあたたかな光の画を見ていることができたかもしれない。私の想像力が貧困だからなのかもしれないけれども。

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