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神にとっての価値

事情は割愛するが、急遽ゲストが説教者として立つこととなった。若い説教者であるが、今年海外へ派遣されることになるという。そちらの日本人のための教会に行くのだそうである。
 
開かれたのは、イザヤ書43章の最初の4つの節であった。ここには、有名な「わたしの目には、あなたは高価で尊い」という言葉がある。ここは、あちこちの教会で好んで開かれる箇所である。説教者はそのことを、日本の教会が伝道の意図をもつ場合によく開かれると言い、それは海外の目から見ると特異なものである、と指摘する。
 
そこでデータを活用し、日本人、とくに若者についてよく報道されるが、「自己肯定感」が著しく低いことを挙げる。だから、聖書には「あなたは尊い」と書いてあるよ、と告げて、聖書の世界に救いを見出すように導きたいのではないか。そういう心理が、日本人を相手に語る伝道者にはたらくのかもしれない。会衆は、そのように考えるように導かれていた。
 
説教者は、その日本人問題には拘泥せず、この後イザヤ書にどっぷり使った形で語った。それでここでは少し脇道に逸れ、この「自己肯定感」について、少し省みてみたい。
 
果たして単純に「自己肯定感」が低い、と言ってよいのか。それもまた「神話」ではないのか。そのように疑うことは可能であるように思う。そもそも日本人は、アンケートに対して「引きがち」なことがよくある。「あまりガチガチに自分を出して応えるのは自分の趣味じゃない」というような心理である。「まあちょっとこのくらいにしておくか」と思いながらアンケートに応えた経験はないだろうか。「強くそう思う」と「どちらかと言えばそう思う」とが並んでいたら、後者の方を好んで選びはしないだろうか。
 
こうして、アンケートという形式そのものが、「引きがち」なものを含んでいるということになる。結果、正直にガンガン自分の主張をぶつける文化の回答者と比較すると、「自己肯定感」が低い、という方向に偏った数字になってしまうのだ。だが、えてして日本人は、「人目」を気にする。SNSに関する悲劇もその「人目」から起きているようなものなのだが、「人目」を気にすることと、「自己肯定感」が低いこととは、等値ではないだろう。
 
私たちの身の回りでは、スーパースターがえらく目立つ。そんな中で「俺は野球で自分に自信をもっている」などと口にすると、「大谷選手と比べておまえなんか全然じゃないか」という声が飛んできそうである。あるいは、そういう声をぶつけられないための予防線として、「俺はそんなに野球はうまくないけどね」と言っておいた方が無難なのである。
 
子どもたちと日々接していると、そのような「曖昧さ」をモットーとしている子が多いことを感じる。他方、根拠のない自信に溢れている子も、実は目立つ。なんでそんなにケロッとしていられるのだ、なんで自分はできると強気で言えるのだ、なんで自分は悪くないと言い張れるのだ、そんなふうに問いたくなる場合も少なくない。他方、「自分はどうせだめだ」と落ちこんでいる子には、めったにお目にかかれない。もちろんそれは「塾」という場だからではあるかもしれないし、悩んでいる子がそこかしこにいるであろうことを無視するつもりはない。だが、決して「自己肯定感」が低い子が多い、というふうには思えないのが正直なところなのである。
 
さて、イザヤ書に戻ろう。説教者は、この4つの節を、3,4節をまとめた形で3つの理解にまとめる。ポイントの挙げ方は明確で、分かりやすい。いわゆる「スリーポイント」の説教は、一時流行したし、それでいつも話したがる人もいるが、どうしても3つと思うと、安易な看板掛けになることもある。この説教者がどうであるかは、一度だけでは分からない。
 
この場合の3つとは、「神と人間との関係」「神の臨在」そして「贖い主または救い主」という観点である。ここでその説教を再現するのが目的ではないので、経過を全部綴ることは控えるが、要点はご紹介するべきだと考える。
 
まず、神と人間、具体的にはイザヤ書はイスラエルの民との関係を振り返る。43:1では、イスラエルを創造した主が「恐れるな」と声をかけている。そこには「あなたを贖った」という言葉もあるが、これは第三の点で触れるため、「あなたの名を呼んだ」に注目する。説教者は、自分が陶芸教室に参加した経験から、創造者の目線で、創った陶器に対する愛着を覚えたことを明らかにする。
 
「名」という概念には深入りはしなかったが、教会の現場にも身を置き、神と契約で結ばれる関係の大切さを思い起こさせてくれた。
 
次に、神の臨在である。43:2には、「わたしは、あなたとともにいる」と告げた言葉がある。たとえ火の中水の中、あなたはその故に守られる、というのである。イザヤ書の視点では、つまりイスラエルの歴史では、出エジプトの出来事が大きいことだろう。説教者は気づかせる。ふと自分の人生を振り返ったことがあれば、そこに自分を常に共に導いていた神を知ることがあるのではないか。その気づきが、貴重な「証し」に、きっとなることであろう。聖書には、「インマヌエル」という福音があるのである。
 
最後に、43:3-4には、主が「救い主」である、と宣言していることを挙げる。だから、「わたしの目には、あなたは高価で尊い」と言えるのだ。この「救い」は、43:1の「贖った」ことと結びつく。あの出エジプトの出来事は、いずれバビロン捕囚へと陥るに至る。そこには、「罪」の問題が否めない。ローマ書でパウロが、自分の罪からそう簡単に抜け出せない叫びを呈している。だが、イエス・キリストがその罪からの救いを、福音書で実現したのであって、パウロもそこに救いを見出している。
 
ここで説教者は、イエス・キリストを登場させて、そちらへ話を引き渡してゆく。キリストによる解放は、罪からの解放であった。イスラエルはメシアの中に、政治的・軍事的な解放を夢見ていたかもしれない。その方向でのものかと勘違いされたために、政治的・宗教的指導者たちにより一方的に追い詰められ、十字架刑へと進まされることになった。が、キリストがもたらしたかったのは、そういうものではなかった。
 
「あなたは高価で尊い」とイザヤを通して主は告げた。心に遺る言葉である。だがその「高価」とは何か。私たちに価値があるのかどうか。説教者の注目点は、ここなのであった。だから、キリストが救ったのは、「価値ある人間」なのではなかった。見事な陶器ではなくても、下手くそでも、自分が創ったという事実の中にある陶器を、愛したのだ。イザヤ書でも「わたしはあなたを愛している」とはっきりと宣べている。
 
それは、何かと比較して「すばらしい」と評価するような価値なのではない。ただただ、それがそれとしてあるだけで、それ自身を意味をもつのである。同じ人間同士で、称え合うのでもない。神からの愛は、絶対的なものとして、垂直に降りてくる。
 
十字架のイエス・キリストがそこに関わるのは、聖書を信じる者には、よく分かる。だが、もしキリストとの関係性が心にない人にとっては、ここでの急速な展開は、飛躍がありすぎたことだろう。伝道礼拝ではないのだから、それを一概に問題視する必要はないが、イエス・キリストがどのように、あるいはどのような点で、罪を贖ったのか、その贖うというのはどういうことか、時間もあったのだから、どこかで触れて戴きたかった。
 
さらに言えば、そこが、説教者自身のキリスト体験ということになる。キリストとの出会いは、人それぞれ異なるだろう。どれが正しくてどれが間違っている、などと決めつける権利は、人間には誰にもない。出会ってさえいればよい。それは、その人がキリストとどう出会ったか、それに制約されることにもなる。しかし、確かな入口があれば、その背後にある巨大なキリストに、聞く者はきっと一緒に入っていけるだろう。全く同じような体験はないかもしれないが、説教者の有つ入口を共有して、キリストの救いに共に結びつくことは、必ずできるものである。
 
昔の有名な説教者の中には、キリストのある姿を語り始めたとたん、むせび泣き、声を震わせて語ったという。もういたたまれなくなって、そうなったのだろう。なにも、そうしたパフォーマンスをしろなどと言うわけではない。だが、真実なキリスト体験は、何らかの形で、聞く者に響くものである。
 
美しい言葉の羅列も、教義として申し分のない説明も、最善のものではない。いわば「間違った」語りであっても、そこに「真実」はありうるのだ。「真実」は、新しい聖書にある場合、以前は「信仰」と訳されている語である場合がある。語る者の「信仰」は、偏ったものかもしれない。が、礼拝説教に魂を委ねる者は、教科書を読みたいわけではない。それならば、別によい教科書をひとりで読んでおけばよい。しかし「癖のある」参考書は、時に反発を覚えることがあっても、心に刺さり、心に遺るものである。そしてその方が、結局受験生を生き生きと活躍させることだろう。
 
説教者の、陶器の体験は私の心に遺った。体験談や譬え話が必要だ、とは必ずしも思わないが、語る言葉が、非常に活性化されるということはある。子どもたちへの何気ない授業においても、その瞬間は、話していて感じることがある。子どもたちが「おお」などと反応を示してくれると、それは分かりやすい。会衆も、説教中に「アーメン」と口走ってもよいのではないか、とふと思った。
 
せっかくの初見参の説教者である。そして間もなく海外に出て行くとのことである。私が聞きながら感じたことを、余談としてここに記しておくことを、お許し願いたい。
 
説教者は原稿を読んでいた。もちろん、棒読みではなかった。棒読みをする人を何人か知っているから、それとは比べものにならないくらい、楽しかった。但し、気になることがあった。「書いた説教」は、「目で読む」ことを意識して綴られるのが通例である。書きことばというのは、なにも文体や単語のことを言うわけではない。話しことばは、それとは違う。1行前を読み直して確認できる読書とは異なり、聞くことばは、絶えず流れる時間の流れの中にある。
 
そこで、聞くことばとしては、「文は短いほうがよい」という基本がある。もう少し具体的に言うと、「主語と述語が近いほうがよい」のである。たとえば、「いまの私は、AがBであること、CがDであること、これらの……について、~の場合については、賛成できかねます」というような文は、書きことばとしては必ずしもダメであることはないのだが、聞くことばとしては、非常にストレスがかかる。最後に「賛成できかねます」と言われた瞬間、何に賛成できなかったっけ、と記憶を辿り、その条件も含めて、考え直さなければならないのだが、その間にも、次の文が語られている、という事態になる。
 
これを、じっくり訥々と語るのならばまだしも、原稿読みのままにすいすいと語られたら、聞く側はかなり辛い。特に、一文の中に、節(主語と述語を含みもつ構造の部分)が幾つも出てくると、その間、主語に対する述語が保留されているわけで、心のメモリーにかなりのものを蓄えておかなければならないことになる。
 
書いた原稿は、書いた原稿でよい。後から原稿として印刷した場合には、その方が読みやすい場合が多いのだ。だが、それを見ながら語るときには、聞くことばとして聞きやすいように、文の構造を変更する必要がある。先ほどの例の場合には、「いまの私には賛成できかねることがあります。それは、~の場合についてのことですが、AがBであること、CがDであることです。これらはどちらも……についての話です」などのように区切って一つひとつを示して話すのである。そうすると、聞く側にかかるストレスは減るだろうと思われる。
 
子どもたちに話す授業では、教師は自然と、そのように喋っているはずだ。そのほうが、聞いていて、理解しやすいからである。人間の頭脳のワーキングメモリーに、たくさん溜めこませると、疲れてしまうのだ。
 
近年子どもたちは、文章読解にかなり難点がある場合が目立つ。決して本を読まないわけではない。ただ、書きことばについても、聞くときのようなつもりで滑っていくと、読解は難しい。ラノベと呼ばれるライトノベルは、意識的に、この聞きやすいタイプのことばで書いているように思われる。本はたくさん読んでいても、これでは、ちょっと心許ない気がする。今日、そうしたことにまでも気づかせてもらえて有意義だった。

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