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偽善者とは何か (マタイ23:13-15,25-28, 詩編36:2-3[新共同訳])

◆偽善者と禍

マタイによる福音書23章
13:律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたがた偽善者に災いあれ。あなたがたは、人々の前で天の国を閉ざしている。自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない。
14:律法学者とファリサイ派の人々、あなたがた偽善者に災いあれ。あなたがたは、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。だから、人一倍厳しい裁きを受けることになる。
15:律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたがた偽善者に災いあれ。あなたがたは、改宗者を一人つくろうとして、海や陸を巡り歩くが、改宗者ができると、自分より倍も悪いゲヘナの子にしてしまう。
 
禍なるかな。黙示録では、「災いあれ、災いあれ、災いあれ」(8:13)と1羽の鷲が空高く飛びながら大声で言っていました。「ウーアイ」という、嘆きとも呪いともとれるような叫びが、不気味に空から響いてくるのを、著者ヨハネは聞いたのでした。
 
今日のメッセージは、「禍なるかな」で始まる、少し暗い場面から始めます。日本語訳のうちの幾つかが、「禍なるかな」からその句を始めていますが、原文は確かにそうなのです。
 
マタイ伝23章には、聖書協会共同訳では「災いあれ」という言葉が8つ並ぶ場面があります。5章で「幸いなるかな」が8つ並ぶところと対照的ですが、このうち14節は、初期の写本には見当たらないとのことで、これを思い切って省く訳が近年増えています。8つの幸いに合わせたのだろう、とも推測されていますが、私は調った8つで受け取ることにします。
 
それにしても、「あなたがた偽善者に災いあれ」とは、なかなか手厳しい言葉です。こんな言葉を突きつけられるのは、「律法学者たちとファリサイ派の人々」。福音書では、イエスの敵役です。これからのお話に度々登場しますが、長い呼称なので、昔の呼び方で以下「ファリサイ人」と称することにします。
 
新約聖書で「偽善」というだけの言葉が登場するのは、マタイ伝とルカ伝に一度ずつですが、「偽善者」という語には偏りがあります。マルコ伝には一度、ルカ伝には三度ですが、マタイ伝には13回も現れます。律法にやかましいマタイにとって、ファリサイ人を叩くことが、イエスの存在を立てるために、徹底的に重要だったのかもしれません。
 

◆演劇

この「偽善」という言葉は、ギリシア語で「hypokrisis」といい、これが英語の「hypocrisy」にそのまま受け継がれています。「偽善」というと、いかにも善人であるかのように振る舞う悪人の姿を想像してしまうかもしれません。悪い企みを自ら懐いていながら、表向き善人面を出している、というイメージでしょうか。
 
古代ギリシアでは、その言葉はまた、「演技」を表すものでもありました。ギリシアでは、演劇は、神々に献げるものでもあり、非常に発達していました。悲劇や喜劇がいまも多く伝えられています。かのソクラテスも、非常に揶揄された形で登場する演劇作品があり、岩波文庫でも手に入ります。
 
ラテン語になると、「persona」という言い方が、これに関わってきます。いわゆる「仮面」です。古代ギリシアでも、演劇は仮面をつけるものでした。日本での「能面」をイメージすると、近いのではないかと思います。この「persona」が「personalitry」の語源です。「性格」とは、人が何かを演じている仮面と見たのでしょうか。
 
だんだん入り組んできましたが、「偽善」という概念の中に、最初から「善悪」が含まれてはいなかったことを、はっきりさせておきたいと思います。それは「演ずる」という方が実情に近いのです。後世、そこには「評論家」を表すようにも変化します。演ずるためには、何らかの解釈や評論的な要素が必要だった、ということなのでしょうか。
 
演劇という芸術は、様々な要素を盛り込んだ総合芸術であるようにも考えられます。多くの人の手がそこに関わっています。役者個人で演劇ができるわけではありません。それでいて、スタッフがこしらえた誂えの中で、たんに人形のように操られているのでもありません。個人がすべてを決めているのでもなければ、個人の意志が全くない通用しないということでもないのです。あるいはまた、そのどちらとも成立するようでありながら、そのどちらでもないのかもしれません。
 
では、イエスに「偽善者」と罵られたファリサイ人の場合、果たしてこうした演劇の中での出来事に、何か類似点があるのでしょうか。
 

◆ファリサイ人

律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたがた偽善者に災いあれ。
 
幾度も繰り返される、イエスの口撃。あるいはそれは、福音書を書いたマタイの意図だったのかもしれません。今回ここで、「ファリサイ人」と呼ぶことにしましたが、「律法学者」と「ファリサイ派の人々」とは、ずいぶんと違うものです。
 
「律法学者」は、やはり学者です。きちんと先生に就いて学び、聖書を研究していなければなりません。いまでいえば「神学者」と呼ぶと、イメージが近いような気がします。
 
他方「ファリサイ派の人々」は、ユダヤ教のグループなのですが、「サドカイ派」と対比される存在でした。「サドカイ派」は、祭司ツァドクに由来しての名という説があります。ユダヤ教の中でも政治的な集団であり、政治的な権力を有します。神殿祭儀の主軸であるのは、政治と宗教とが共働する祭政一致の制度の中で中心に位置する組織であったと言えるでしょう。非常に現実的な手腕を発揮する必要があり、福音書では、復活を信じなかった、と説明されています。
 
他方「ファリサイ派」は、復活を信じていました。そもそも旧約聖書では、「復活」はメインの教義ではありません。一部の預言書や、旧約聖書続編に収められている文書などから、新しい時代の中で湧き起こってきた思想だと言われています。イスラエルが、ヘレニズム思想の世界の中に位置するようになって、庶民の間に高まった信仰であったのではないかと考えられます。
 
「ファリサイ派」という呼び名には、「分離する」という意味が含まれていると言われます。紀元前2世紀に、ユダヤの土地は、ヘレニズム思想に染め上げる政策が行われていました。旧約聖書続編を読むと、その辺りの事情がよく分かります。その中で、ユダヤ本来の宗教に戻るべきだ、という考えが起こってきました。愛国の思想、右派の思想だと言えます。敬虔派という意味の「ハシディーム」が、政治活動あるいは軍事活動に染まるのに対して、もっと精神的に信仰を大切にしよう、とするグループが、そこから分離していきました。この「分離」の名を掲げたのが「ファリサイ派」を形作ってゆきます。
 
彼らの依拠するものは、いまでいう旧約聖書でした。特に律法は重要だったことでしょう。清く正しく美しく、そんな宗教的理想を追求し、その教えとして掲げていました。いまでいえば、敬虔で聖なることをモットーとする、信仰篤いグループをイメージするべきなのかもしれません。あるいは、もう少し拡大して、「クリスチャン」と称する全体へと目を移すとよいのではないか、と私は捕えています。
 
ファリサイ派の人々は、神殿が破壊され神殿祭儀が不可能になった歴史の中でも、生き残ることになりました。また、そのような状態でかろうじて集まった会堂における礼拝は、後のキリスト教会の礼拝の基礎となりました。
 

◆偽善者の自覚

イエスがファリサイ人へ向ける刃は、その後も続きます。全部挙げるわけにはゆかないのですが、ここでは一つだけ注目することにします。
 
25:律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたがた偽善者に災いあれ。あなたがたは、杯や皿の外側は清めるが、内側は強欲と放縦で満ちている。
26:ものの見えないファリサイ派の人々、まず、杯の内側を清めよ。そうすれば、外側も清くなる。
27:律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたがた偽善者に災いあれ。あなたがたは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。
28:このようにあなたがたも、外側は人に正しいと見えても、内側は偽善と不法とでいっぱいである。
 
このように、イエスはファリサイ人に対して「偽善者」と呼び続けます。なんとも厳しい裁きのようにすら思えます。果たして彼らに、自分たちが偽善をしている、という意識があったでしょうか。背景を考えても、全くそのようなことはない、と思われます。イスラエルの伝統を大切に守ることを第一とし、神の教えを広めることを使命としました。もちろん、自らそれに見合った生活をすることは必須です。口先だけではなく、実際に敬虔な生活を送ることで、自分の正しさを示すことにもなったと思われます。
 
自分は偽善者だ、というようには、彼らは微塵も考えていません。子どもたちが喜ぶ正義のヒーローの場合とはだいぶ違うのです。敵役は「俺たちは悪の組織だ」と名乗ります。敵味方を分かりやすくし、子どもたちは安心して、正義の味方を応援することができます。同じように、私たちもまた、正義のヒーローの構図を、いつの間にか真に受けているような気がします。自分は正義のヒーローの仲間だ、ということを、何の考察もなしに、何の検証もなしに、当然の事実だと前提しているのです。しかしそれは、たいへん怖いことだと思います。
 
ウルトラマンシリーズは、クリスチャンの一族の円谷プロによって生み出されました。正義の味方のウルトラマンと、地球防衛軍のようなものが、日本に現れた怪獣たちを倒します。実にスカッとします。ウルトラマンが不利になるとドキドキしながらも、最後には勝つことを信じています。
 
しかし、ファンの子どもたちが成人するようになり、またウルトラマンの人気と会社の経営が問題になってくると、平成のウルトラマンの時代、様相が変わってきました。怪獣をただ倒すウルトラマンであってよいのか。それは本当に正義なのか。制作者は考えます。そして、ウルトラマンはいつしか、怪獣をその場で殺すことなく、そっと宇宙に返す係にすらなりました。ごめんね、ただ地球にだけは来ないでね、と。
 

◆良識

ファリサイ人は、自分が間違っている、という前提でいたわけではないはずです。正義の味方でいたはずだし、正義の味方でいなければならなかったはずです。自分が間違っている、という前提で活動をしていたわけではないはずです。
 
そうなると、問う必要があります。ファリサイ人は、福音書が告げるほどに本当に「偽善者」だったのでしょうか。
 
私たちは新約聖書を信じています。それを見る限り、福音書がユダヤ人のファリサイ人の悪口を書いた以上、ファリサイ人は悪い、と信じるのが当然なのかもしれません。このことは、後世のユダヤ人迫害の理由になっています。ユダヤ人自身を悪だと断じ、民族ごと虐殺することをすら正当化しました。
 
それをしたのは、キリスト教徒でした。聖書を根拠に、迫害や殺人をすら、正義だと称しました。キリスト教徒自身が、いまそのことを、どれほどに反省しているのでしょうか。この黒歴史に、気づこうとしないだけなのではないか、というように見られても仕方がないような気がします。
 
ファリサイ人は律法を守っています。ちょっとウザいかもしれませんが、現代社会はこういう人々を善人とみるはずです。善良な市民です。
 
親は子に願います。ひとに迷惑をかけない子になってほしい。昔からあまりにそう言われるものですから、その反動として、迷惑をかけるのは当然で、迷惑をかけてもよいのだ、という教育方針を口にする親もいますが、本当にそういう人が身近にいたらどう思いますか。ゴミ出しのルールを守らなくてもいいじゃないか。夜中に家の前でバイクをふかしても構わない。電車で騒いでも気にしない。若くしてシルバーシートに訳なく座り、スマホに熱中していて、何が悪いのだ、という人を、私たちは快く迎えることができるのでしょうか。
 
良識ある市民が周囲にいると、私たちはどれほどほっとすることでしょう。人にやたら迷惑をかけない市民を、歓迎する心理があっても普通ではないでしょうか。となると、逆にそういう人間であることを強調して、清く正しい社会を願う人を取り込むこともできます。口先で、世界平和とか家庭の純潔とかを掲げて、そういう「正しさ」への憧れのある人を取り込む宗教が、現にあります。全財産を献げさせ、借金までして献金をさせるようにすらなっても、「正しい世の中」のために、そして彼らの掲げる「神」のために、その「正しい宗教」に騙されていることに気がつかないようになってしまうのです。
 
それでも、世の中を明るくしましょう、飲酒運転をなくしましょう、正しい選挙をしましょう。そんなスローガンを、私たちは決して「けしからん」とは言わないものです。
 

◆それが信仰

「正しい」生活は、このようにするものです、皆さんで、明るい社会をつくりましょう、神さまの教えに従って、幸せになりましょう。――ファリサイ人は、こうした掛け声をかけ、「正しい」世界をつくろうとしていた、と見てはいけないでしょうか。そして、世の人々から尊敬もされていました。立派な人たちだねぇ、と。ゴミ出しのルールを守らない人を摘発します。電車で騒ぐ人に軽蔑の眼差しを送ります。新聞に投書もするし、SNSで良識を振り撒きます。
 
ファリサイ人は、ルール破りには目くじらを立てます。イエスという者が、人々の心を盗んでいる。神の決まりである、安息日を守らないでいる。けしからんではないか。我慢なりません。みんなのきまりを守らないで、ええかっこして、尊敬を集めています。ああいうのがまかり通ると、自分たちが何のために社会を明るくしようと神のさまりを教えているのか、分からなくすらなるでしょう。
 
あのイエスは、「間違っている」と思うのです。「正しくない」に違いありません。――この論理自体は、決して間違ってはいません。主張するファリサイ人自身も、決して間違ってはいません。
 
教会に、新しい人が訪れました。あれれ、タバコを吸っています。あれれ、どうやら酔っ払っているようです。かと思えば、教会員の中にも、家庭が荒れている人がいるという噂です。クリスチャンのくせに、けしからんではありませんか。
 
ヤコブ書にあるように、みすぼらしい身なりで不潔な人が教会に来たときに、私たちはやっぱり、自分の横に座らないでほしい、と祈るような思いで見守っているようなことはないでしょうか。非常識な人が横にくると、厄介だとは思わないでしょうか。
 
しかし、貧しく見窄らしい人が教会に来たとき、差別をすることについて、ヤコブ書は厳しい戒めを告げていました。ヤコブ書は「藁の書」だからまともに読む必要がない、という過激なことを言う人は稀だと思いますが、私たちは聖書を見ても、それが自分たちのことだとはなかなか思いません。
 
自然と私たちが思っていること、やっていることは、イエスの敵としてのファリサイ人と同じことではないか。私たちはクリスチャンは、自分は神を信じているから天国に行ける、と考えています。それを「信仰」と呼びます。教会に来ていない人は救われない、とも考えています。そのような「正しい」教義を「信仰」しています。でもそれは、福音書を見る限り、ファリサイ人についてイエスが指摘している、正にそのような姿ではないのでしょうか。
 

◆気づかないから

「偽善」とは、自分が偽っているぞ、と気づいてやっていることではないらしい、と私たちは考えました。しかしまさか、自分たちが偽善者であるなどとはつゆ考えずに、いつでも自分が正義の味方であり、神の側にいることを前提として聖書を読んでいるように思います。自分の偽りには気がつかないのです。そしてそのことが、偽善の最も巧妙で、奥深いところなのです。恰も、サタンの業が巧妙であるように。
 
36:2 神に逆らう者に罪が語りかけるのが/わたしの心の奥に聞こえる。彼の前に、神への恐れはない。
36:3 自分の目に自分を偽っているから/自分の悪を認めることも/それを憎むこともできない。[新共同訳]
 
詩編36編の最初のところを、新共同訳から引用しました。これは、誰か他人の、悪辣な奴のことを言っている、そのようにしか普通人は考えないものですが、今日、その見方に少しでも揺らぎが見出されたらよい、といま私は思っています。
 
キリスト教の歴史を見ると、教会と信者は、つねに自らを正義としてきました。他の誰かを悪と呼び、それを撲滅すれば自分は神の業に貢献するのであり、それをこそ「正義」と呼んできました。キリスト教文化の下にはない、幾多の文明を自分たちの都合や欲望のために滅ぼしてきました。しかもそれを、神の国の実現だ、と公言してはばかりませんでした。この考え方の路線が、果たしていまは改善されているのかどうか、私たちは楽観はできないのではないか、と考えます。私たちは、そうしたキリスト教界と、自分自身とを、見張っていなければならないと思うのです。
 
かといって、このように提言していることそのものもまた、私が私の「正しさ」を根拠にしているのではないか。そのように批判されたら、返す言葉もありません。構造は非常に厄介です。
 
イエスは、ファリサイ人を「偽善者」だと呼びました。それは、「自分が正義である」と思い込んでいることに基づくものだ、と読み取ってきました。だったら、キリスト教信徒や組織としてのキリスト教会は、いつでもファリサイ人を演ずることができるでしょう。質の悪いことに、自分では、自分が演技をしているという意識がありません。いつの間にか、すり替えられるようにして、自分を正しい者に自分で定めてしまっているかもしれないのです。このことに、聖書から神の言葉を聴こうとするキリスト者は、気づかねばなりません。
 
キリスト者は、一人ひとり、自分に向けて神の光を当てる必要があります。自分を照らす鏡を用意しなければなりません。聖書は、そのような鏡として最適です。聖書については、自分に都合のよい自分の正義を第一とするような読み方をする人もいるでしょう。自分は善と悪とをきちんと弁えているのだ、と自己評価していたとしたら、それは自分で自分を神としてしまうことにほかなりません。
 
しかし聖書は危惧しています。私たちは、そうありたくないと願います。イエスは何のために憤ったのでしょうか。イエスは何故泣き叫んだのでしょうか。私たちは、もっと偽善の構造とそれがもつ罠に、厳しいアンテナを張っている必要があります。聖書に向き合うとき、常に自分の罪が照らし出されるような信仰を以て読みたいものです。すると、改めてそこから、イエスの救いという福音の道を歩き始めることができるのではないかと考えます。きっと、いつからでもどこからでも、悔い改めて、十字架を仰ぐことができる。そう信じて止みません。

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