サマー、ショートステイ
福祉業界に携わっていたことがある。
職場は関東某所に位置するユニット型の特別養護老人ホーム。無資格未経験の、モラトリアム卒業からまだ日の浅いフリーター上がりにとって当施設での介護職員生活は、言うなれば全身をサンダーボルトに打たれたかのようなカルチャーショックの連続であった。
ツチノコと見紛うほどのご立派な排泄物を「これどうぞ」と手づかみでお裾分けしてくださる心優しきマダムに、ベッド上でファンタスティックかつアーティスティックな立ち小便をご披露してくださる元小学校教諭の老紳士に、三分置きに「わたくし、今日はお泊り?」と気品漂う口調でもってお声がけしてくださる大正生まれのハイカラ夫人。
このような多種多様な人間模様の中、時にSAN値をゴリゴリと削られながら、それでいて日々なんだかんだで純然たる笑顔を保ってこれたのはたぶん、入居者一人ひとりに確かな親しみを感じ取っていたからだ。
「ノブオちゃん、ノブオちゃん」
入職一年目の八月。民放各局のキャスターが連日のように熱中症関連の報道を茶の間に伝えていたあの夏。一泊二日のショートステイとして施設にやって来た齢七十九の、マキシマムザホルモンの物販Tシャツを召した痩身のおばあちゃん――セツコさんは、ファーストコンタクトの瞬間から僕のことをノブオちゃんと呼んでは幾分親しげな笑みを浮かべた。
「しばらくぶりね。ノリコちゃん元気にしてる?」
「ノリコ?」
ちなみにあとから判明した事実なのだが、ノブオちゃんというのは、どうやらセツコさんの甥に当たる人物らしい。当時まだ二十代半ばの青年と、おそらく中年以上であろう甥っ子をナチュラルに混同する彼女は、言わずもがな認知症を患っていた。
「ノリコ? じゃないでしょう。こんなばあちゃんからかって楽しい?」
「あ、いや、そうじゃなくて……」
「まあいいわ。あたしゃお腹がすいちゃったわよ」
ふんと鼻を鳴らしながら、肩口まで伸びた毒々しいパープルヘアを揺らしながら、手持ちの花柄ステッキと共にAユニットへと消えていくマキシマムザおばあちゃん。
その中途半端に曲がった背中には「KILL All ROCK IMPO PEOPLE」の文字。
あのハードコアなデザインのイケイケTシャツは、果たしてご家族のどなたの趣味なのだろう。まさかご自身の好みではあるまい。頭の片隅でぼんやりと思いつつ、僕が一介護職員として見ず知らずのノブオちゃんを演じてやろうと心に決めたのは、このやり取りの直後だった。
○○○
「セツコさーん!」
午後、介護記録用紙等の書類のコピーを終え、一階の事務所から所属フロアの三階に戻るや否や、妙に甲高い声に不意を突かれた。
この締まりのないヘタレボイスは早番勤務の、新米ヘルパー進藤のもので間違いない。
僕は途端に胸のざわめきを自覚する。
「どうかしたんですか?」
すると、
「いやあ、さっきからセツコさんの姿が見えなくてさあ」
「はい⁉」
「やっぱりマズイかなあ、マズイよねえ……」
あはは、と呑気にガミースマイルを浮かべる五十ニ歳メタボリックシンドローム男を一瞥した僕は、次の瞬間にはもう駆け出していた。
コンディション・レッド発令である。
まずもって脳裏を過ったのは「離設」の二文字。セツコさんは施設を抜け出してしまったのではなかろうか。普段は怠惰な第六感が珍しくきびきびと働いていた。
「セツコさーん! セツコさーん!」
Aユニット、Bユニットからなる計二十床の居室を文化系にあるまじき俊敏な身のこなしで巡回し、次いで共用トイレ、一般浴室と順に周る。
……いない。
フロアに設置された大小二基のエレベーターには常時ダイヤルロックが設定されており、職員以外の人間は勝手に操作できない仕様となっている。しかし、なんらかの手違いで施錠が外れてしまった可能性も十二分に考えられ、僕自身その線が濃厚だと考えていた。
いくら人手不足とはいえ、入職三週間目の新人にフロアを任せっきりにしたのが間違いだった。これは僕の責任だ。悔悟の念と共に急ピッチで施設長に内線を入れるよう進藤に指示したあと、再びフロアを捜索。そういえばエレベーターホールの奥の談話スペースをまだ確認していなかった。ゼーハーと息を切らしながら、顔面蒼白になりながら、駆け込み乗車時さながらの全身全霊さで四肢を動作させる。
「……ん?」
と、そのときのことだ。
談話スペースに向かう途中、オムツや尿取りパッド、トイレットペーパーなどの消耗品が積まれた、いわゆる介護材料室と呼ばれる部屋に一瞬、人影のようなものが見えた――気がした。
これはもしかしたら、もしかするかもしれない。
僕はセツコさんの名前を声を限りに叫びながら、手のひらサイズの希望を胸に、半開した引き戸を勢いよく開いた。
「あ……」
「…………」
「いた……」
「…………」
ワンデーアキビュー越しの視力一・〇の瞳には、薄汚れたタイルの上に体育座りの姿勢で鎮座ましますセツコさんの姿が映っていた。なぜか顔を伏せている。傍らには見覚えのある花柄ステッキ。その様相はさながら小動物のようであり、そこかしこに漠然とした哀愁が漂っていた。
なんとか最悪の事態は免れた……。
全身を隈なく駆け巡る安堵感と共にぐったりと、心底脱力し切ったトーンで、
「セツコさん、こんなところで何――」
「ノブオちゃん」
「はい?」
「あたし、ウチに帰りたい……」
彼女の厚ぼったい一重まぶたの奥には、うっすらと光るものが滲んでいた。
○○○
夕暮れ症候群とは認知症高齢者にたびたび表れる、せん妄の一種である。症状には徘徊、独語、時に暴力を伴うケースがあり、当事者はそわそわと落ち着かぬ様子で決まって帰宅願望を訴えるのだ。セツコさんがこの夕暮れ症候群を発症しているという事実は火を見るよりも明らかであった。
夕方から夜にかけての時間帯に特に表れやすいとされるこの夕暮れ症候群、むやみやたらに本人の気持ちを否定するのは逆効果、さらに帰宅願望を強めてしまう恐れがある。ではいったいどのような対応を取ればよいのか。無論、介護というものに正解は存在しないが、経験則としてある程度の対処法は心得ていた。
「セツコさん、鶴は折れますか?」
より共感的な姿勢で相手の話にじっくりと耳を傾けるコミュニケーション技法、すなわち傾聴を用いること十数分。
結果的に元の落ち着きを取り戻したセツコさんは今、Aユニットのテーブル席で僕と、そして四、五人のマダム連中と共にレクリエーションの真っただ中にあった。この頃にはもう意識は完全に手元の折り紙に向いており、それまでのやり取りなんてまるでなかったかのように――いや実際に忘れてしまっているのかもしれないが――てらいのない笑みを惜し気もなく周囲に振りまいていた。
「鶴? 簡単よ」
「じゃあ、お願いします」
「はいはい」
新たな折り紙を嬉々として受け取り、ご機嫌なハミング混じりに、なんとも自信たっぷりなセツコさん。
「あれ……」
しかし、
「おかしいわねえ……」
しかしだった。いったいどうしたというのだろう。裏返した折り紙を直角二等辺三角形に折ったところですべての動作がぴたりと停止してしまったのだ。
同じテーブル席につく元役者志望のキヨエさんが不思議そうな表情でセツコさんを見つめている。Aユニットのムードメーカー、マサヨさんがおやつのシベリアを頬張りながら「どないしたん?」などと関西地方出身者特有のイントネーションでもって尋ねている。反対側のBユニットから車椅子で爆走してきた自称現役タクシードライバーのセイハチさんが「朝飯まだかー⁉」などと虚空に向かって怒髪天を衝いている。
「セツコさん?」
「折り方、ド忘れしちゃったみたい」
ノブオちゃん、代わりに折ってちょうだい。往年のアイドル然として小首を傾げたセツコさんが、総入れ歯の口元に一万ペリカの微笑みを湛え、
「何せしばらくぶりだからねぇ」
「じゃあ、お手本を見せるので、そのあとに折ってみてくださいね」
「いや、もう結構よ。ちょっと一服させて」
「疲れちゃいました?」
「当たり前じゃない。今朝からずーっと働きっぱなしなんだから。ここ、お給料はちゃんと出るの?」
「お給料……」
結局、セツコさんが鶴を折ることはなかった。
気づけばセイハチさんがテレビ画面に映る罪なき埼玉銘菓・十万石まんじゅうに向かって怒号を浴びせ始めている。共用トイレからは大音量のコールと共に「うんこー!」という入居者の鬼気迫る声が響いている。館内スピーカーからは研修委員会の呼び出しアナウンスが繰り返し流れている。
「ところでノブオちゃん」
「はい?」
「あたし、今日は何時に帰れるのかしら?」
○○○
夜勤明けのギャルヘルパー、谷田部の申し送りによるとセツコさんはその夜、まともに眠らなかったという。
「帰りたい帰りたいって、もうマジでエグかったんだから」
「でもセツコさん、眠ってない割にはピンピンしてるような」
「ほんと……あの体力分けてほしいくらい」
「うはは」
「ちなみにホルモンのおばちゃま、十八時退所ね。荷物チェックはもう済んでるから」
それじゃ、あとはよろしく。ラブホ顔、もとい矢田部が生気のないヘーゼルの瞳でぼそりとつぶやく。よほど疲弊しているのだろう。平時ならば退勤時刻を過ぎてもスタッフステーションにてだらだらとスマートフォンをいじくり倒しているはずの彼女が、今日に限っては十時きっかりにフロアを去ってしまった。
お疲れさま、と十七時間勤務を終えたばかりの同僚を最後まで見送ったあと、片や遅番出勤の僕は手のひらに除菌スプレーを二度三度と吹きかけながら担当のAユニットへと向かい、
「あらノブオちゃん、おはよう」
不意に、手前のテーブル席からパッと弾けるような声が響く。セツコさんである。
「おはよう……ございます」
応えつつ、どうにも動揺を隠し切れずにいるのは彼女が、僕のことを相変わらずノブオちゃんとして認識していたからだ。日をまたぐ頃には職員の顔などきれいさっぱり忘れてしまっているだろうと踏んでいたのだが、どうやら思い違いだったらしい。同居する実の娘や孫の顔すら認識することができず、赤の他人のように接しているという情報をケアマネジャーから入手している手前、 その驚きはひとしおだった。
睡眠不足ということを感じさせないくらいすっきりとした表情を浮かべているセツコさん。体力もあり余っているようで、入居者らの洗濯物を自ら取り込んでくれたり近々に差し迫った納涼祭の催し物作りを手伝ってくれたりと、午前中はもうとにかく動きっぱなし、それこそ時給が発生してもおかしくないくらいの働きっぷりだった。
午後三時を回った頃だろうか。
「ちょっとお散歩に連れていってくれないかしら」
「お散歩ですか?」
「ほんの少しの時間でいいの。なんだか息が詰まっちゃって」
セツコさんの言葉にすんなりと首肯する僕。
幸いにも今日は早番、日勤、遅番と三人のスタッフが出勤していて、僕がこの場を離れたところで新人がフロアに一人きりという状況を生み出してしまう心配もなかった。
フロアリーダーから十分少々の外出許可を得るなりさっそく身支度を整え、施設をあとにする。手をつなぎ、額に汗の玉を滲ませ、お互いに笑みを湛えながら、同じ歩調で蝉時雨の街を行く。
途中、喉が渇いたというセツコさんにコンビニエンスストアでポカリスエットを買い与えたあと、僕らは店内に設けられた人気のないイートインコーナーにそろって腰かけた。
ほどよく冷房の効いた店内。有線から流れる流行りのサマーチューン。穏やかな時間が、二人の頭上五十センチをのらりくらりと通過中。
水分をこまめにチャージしつつ、セツコさんは僕にいろんなことを話してくれた。生まれ故郷の茨城では小さな食堂を営んでいたということ、日本舞踊を習っていたということ、氷川きよしのファンだということ、五十代の頃に原付バイクで日本一周旅行をしたということ、大好きな旦那さんが十数年前に不慮の事故で亡くなったということ。
次から次へと無尽蔵に語られるエピソード群。僕が僕なりの歴史を積み重ねてきたように、セツコさんにもまたセツコさんなりの歴史が存在していた。当たり前のことなのに、その事実がなんだかとても尊いことのように思えて仕方がなかった。
「ねえノブオちゃん」
「なんでしょう?」
「夏休みの宿題は早めに終わらせるのよ――」
ヒステリックお局こと榎本リーダーから早急に帰園するようにと鬼電が入るまでの約三十分間、僕たちはまるで本当の親族のようにナチュラルに話し込んでいた。ちなみにこの間、セツコさんの口からマキシマムザホルモンという単語は一度たりとも出てくることはなかった。
電話口での平謝りのあと、二人はどちらからともなく手を取り、とろけるような盛夏の陽射しへと再びダイブ。
「なんだかいやに謝ってたみたいだけど大丈夫なの?」
と右方からセツコさん。
「うはは、大丈夫。心配いらないですよ。いつものことです」
とニンマリ、底抜けに呑気な僕。
「そう……でもいざというときは、あたしが守ってあげるからね」
「ありがとう、セツコさん」
「お礼なんか言うんじゃないのっ」
焼けたアスファルトを打つ硬いステッキの音。人家から漂う白檀香と畳の匂い。常夏色のそよ風に街角のヒマワリが揺れている。
あと数時間後には施設の送迎車にて帰宅してしまうセツコさん。次回のショートステイ利用がいつになるのか、現時点では未定のままだ。
でも――もし再び顔を合わせるようなことがあったなら、そのときはまたいっぱい、いっぱい職員のことを困らせてほしい。
たくさんおしゃべりしてほしい。
輝くばかりの笑顔で、僕のことをノブオちゃんと呼んでほしい。
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