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脱学校的人間(新編集版)〈37〉

 イリッチが語っていた挿話に登場する、自分の息子を理髪店へ働きに行かせていたマルコスについて、ここで少し話を戻してみよう。
 マルコスはイリッチに指摘されてその事実に気づく以前から、実際にはすでにその息子を「労働力」として理髪店に売って、そこから自分自身の利益を得ていたのだと言える。しかしマルコス自身の意識の上では、働くという事実としては自分も息子もほぼ同じことをしているだけだという感覚しかなかった。それでも彼が息子を「労働力という商品として他人に売る」ということは、彼自身が働かなくても得られる利益、あるいは彼自身を売らなくても得られる利益が、そこにはすでにあったのだということになる。そのような利益を得るということは、「売る商品」を彼自身から切り離して手放さなければ、けっして叶わないことなのである。 
 そんなマルコスに、イリッチの一言が「自分の息子はまだ子どもである」という、また一つ別の気づきを与えた。いや、実際にはまだちゃんと気づいてはいなかったのかもしれないが、しかしもし彼が「ちゃんとした判断力を持った人間である」というのならば、いずれはそのことに気づくことにはなっただろう。

 その一方で、そのような判断力を持つことが当たり前の社会に暮らしながらも、しかしその判断した通りのことが自分自身の力によってではけっしてできないような立場と生活環境に置かれた人々もいる。
「…ニューヨークのスラムの住人に、彼の働いている息子はまだ『子供』だといったとしても、彼は全然驚かないであろう。彼は自分の十一歳の息子は子供時代を与えられるべきことを十分承知しているのであり、むしろ、そうされていないことに憤りを感じるのである。つまりマルコスの息子は、まだ子供時代へのあこがれを知るにいたってないのに対して、ニューヨークの住人の子供は、それを奪われていると感じるのである。…」(※1)
 子どもにはちゃんとした教育が与えられるべきものなのだという判断が当たり前の社会に暮らしていながら、しかしその当たり前に与えられるべき教育が十分に与えられえない状態・環境が、むしろ「教育を奪われている状態・環境」であるかのようにして見出されてくる。見方を変えると、ここでは与えられうること自体が、むしろ奪われていることを可能にしてさえいるのである。
 しかしこれは、可能性ではなくあくまでも前提なのだ。欲求するためには欠乏しなければならない。欠乏し欲求するものを与えるためには奪わなければならない。これが「支配と服從と分配の前提」なのである。奪われることによって支配される者はその奪われたものを欲求し、それが与えられるよう支配する者に対して要求する。そして支配する者は、支配される者が彼に支配されている限りにおいて、支配されている者の欲求に応え、現にその欲しているものを与える。
 このようにして、支配されることによってはじめて保護されることもまた可能ともなるわけであり、このことが一方では、「義務と権利」の観念を成立させる前提ともなっているのだ。

〈つづく〉
 
◎引用・参照
※1 イリッチ「脱学校の社会」東・小澤訳


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