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道玄坂をおりる/嫌な顔をされる 14

 自分が無表情だとも思っていないし、自分と仲のいい人で、俺のことを無表情なやつだと思っている人はいないと思う。石ころを見る目と言ったやつにしろ、俺が無表情だなんて思っていないだろう。酔ってイライラしていたときに、たまに見る俺の無表情に、少し気分を逆撫でされたというくらいのことだったのだと思う。ずいぶん長く一緒にいるし、俺がどんなやつなのかはわかっているのだと思う。俺はただぼんやりしがちなだけなのだ。
 それは今だってそうだと思う。毎日中華料理屋に行くけれど、そこではオバちゃんがにこにこしているから、俺も自然ににこにこして言葉を交わしている。それから料理が運ばれてきて食べ始めると、俺は食べるのに没頭しているから、ただ味わおうとしているだけで表情がなかったりするんじゃないかと思ったりもする。食べ始めてしまえば、美味しいことに気分がよくなって、気分のいい顔になっていることも多いのだろう。オバちゃんも、にこにこしながらご飯のお代わりをするか聞きに来て、うれしそうに「美味しい?」と聞いてくるから、美味しそうにしているのだと思う。いつも行く中華料理屋でなくても、お店で食べていると、たまに店員の人がにこにこしながら「おいしそうに食べるね。こっちもうれしくなるよ」というようなことを言ってくることがある。渋谷に越してからでも、いくつかの店で言われた。そういうときも、俺は黙々と食べているから、むしろ空っぽな顔になっているんじゃないかと思うけれど、昔からそうだったのだ。自分ではそのつもりがなくても、お店の人や、一緒に食べている人から、おいしそうに食べるねとよく言われてきたし、俺は何かを食べるときに、おいしそうな顔をしなくてはいけないなんて、一度も思ったことがないのだと思う。ただ、そのときの気分のままの顔をしていれば、それで自分の美味しいという気持ちは伝わっていると思ってきたのだろう。
 いつもそういう感じで、気分に任せているだけなのになと思う。けれど、料理は美味しければうれしくなれるけれど、仕事や人間関係はうまくいかないことが多すぎるのだ。人と話していて嫌な空気になることがそれほどあるわけではないけれど、嫌な空気になっていないというだけで、話が噛み合って楽しくなれることは、それなりに珍しいことだったりする。料理でいえば、まずくはないけれど、特にわざわざ食べたいとは思えないものを食べているような感じなのだろう。そして、料理は簡単に自分が美味しいと思えるお店で食べられるのに、人間関係はお店を選ぶようには選べない。だから、気分任せにしていると、うれしい顔や楽しい顔をする機会が少なくなって、ぼんやりした顔をしている時間が増えていってしまう。自分としては、それだけのことだったりはする。
 けれど、自分にとっては、気分任せだと自然に楽しくなれないことが多いということだったとしても、他の人とっては、俺がその場で楽しそうにしていないこと自体が迷惑だったりもするのだろう。その場のノリとか、場の一体感だとか、そういうものに合わせることはマナーのようなものなんだなと感じることは多い。俺もとりあえずはその場のノリに合わせないといけないなと思ったりするけれど、なかなかそれがうまくできなかった。中学の頃から社会人になるまで、ゆっくりと話ができる人とばかり関わってきて、ノリで話すということをあまり経験してこなかったからというのもあるのだろう。お互いに思ったことを話すということばかりしてきたから、そう言ってみているだけの言葉がやり取りされている場所で、うまく会話の流れに入っていくことができなかった。そう思っているわけでもなさそうに何かを言われたときに、どういうふうに反応すればいいのかわからないのだ。
 誰かを見ているときと同じで、人の輪の中に入って、誰かが話しているのを聞いているときも、俺は相手がそんなふうに話していることの感触を感じながら、自分の気持ちが動くのを待っているのだと思う。そして、感じればすぐに気持ちが動くわけではなくて、待っていないと気持ちは自分のところまで上がってこない。けれど、話の流れるスピードは、心の動くスピードよりも速いことばかりだったりする。話の流れは俺の気持ちが動くのを待っていてくれないから、とりあえず話の流れについていくためには、まだ心が何を思ったわけでもない状態で、その場の流れに合わせた言葉を返すしかない。それでも、楽しげな雰囲気があれば、その雰囲気に参加していることで、楽しいような気分にはなれる。けれど、そういう時間は、自分がどう思っているのか自分でわからないような感じだったりして、どこかおぼつかないものだったりする。俺はそのおぼつかなさが苦手だった。相手によってはおぼつかないという以外に感じることもなくて、こちらに興味も関心もないままノリで話しかけてくる人に対しては、すぐにその人の前でぼんやりしてしまって、それで関わりを終わらせいたことも多かったんだろうなと思う。
 けれど、お互いの気持ちを確かめ合いながら、ゆっくりと話していられる人なんて、ほとんどいなかったりするのだ。そして、いても話す機会も時間も限られている。どうしたところで、生活の大半が、速いペースに取り残され気味に過ごす時間なのだ。だから、もっとゆっくりと過ごせればなと、いつも思っていた。職場で仕事をするにも、仕事以外の話をするにも、誰かと会うにしても、もっとゆっくりとやれれば、いろんなことがもっと気分のよいものになるように思っていた。あのバンドをやっていた人にしてもそうで、充分長く話してはいたし、最終的にはハグをしてありがとうございますと言って俺は帰っていったけれど、もっとゆっくりと話せていれば、音楽聴いてるときにそんな顔してちゃダメだなんていう寂しいことを相手に言わせないくらい、俺もちゃんと相手の気持ちに感謝していることを伝えられたんじゃないかと思う。
 そんなふうだから、俺は仕事をすることが嫌じゃないのだろうなと思う。特に、前の職場でやっていたように仕事をするのなら、自分にとって仕事というのは、自分の心の動くスピードでゆっくりと過ごすことができる時間ですらあったのだと思う。仕事でなら、今自分がやっていることに、自分が思いたいことを思いたいだけ思っていられる。次の話し合いまでに、自分が思うことを充分に思って準備しておける。そのあとは、できるだけよいものに仕上げていくために必要な話を他の人と繰り返していけばよくて、そこには何のおぼつかなさもない。話し合ったほうがいいテーマはいくらでもあって、そして、たいていどのテーマも、その場限りのことではなく、ある程度長い目で結果を見守っていく必要のあるものだったりする。お互いに納得するために話し合わなくてはいけなかったし、お互いに自分の考え方を誤解されないように伝えなくてはいけないし、相手の考え方を誤解しないように聞いていなくてはいけなかった。そんなふうに、自分のやっていることと自分の気持ちが噛み合っている時間を過ごすことができていて、だから仕事は嫌じゃなかったんだなと思う。そして、だからこそ、話し合うことを避けて、何もかもをなあなあにしようとする今の職場が嫌で仕方ないのだろう。
 今の職場の人たちとは、仕事でしっかりと関われないから、それ以外でも関わりようがなくなってしまった。内輪のノリに合わせられたのなら、仕事ではすれ違いが絶えなくても、同じ場所にいて苦痛になったりはせずにいられるのだろう。けれど、あの部署のノリには合わせたいと思うことができなかった。そして、合わせたくないなと思っていた俺は、どうしてそうなのだろうという気持ちで社内の人たちを眺めて、空っぽな顔を向けてしまった。
 けれど、あの人たちは俺に歩み寄ろうとしてくれていたのだろうなと思う。評価されてきたし、褒めてもらってもきた。タイミングがあれば声をかけてくれていた。いつでも自分たちの仲間に入ってきてくれていいんだよという態度でいてくれたように思う。そして、今でもまだそうなのだろう。俺に対して敵意を向けてきたのは、いろいろとこじれてしまった上司だけだった。
 けれど、俺は仲間に入れて欲しかったわけではなかったのだ。俺が欲しいのは、誰かと一緒に仕事をしながら、少しは人の役に立てたことに満足できたりする時間だった。そういう自己満足だけが欲しくて、他人の形式的な評価はどうでもよかった。
 それにしたって昔から何も変わっていないのだろう。働き出してから、一緒に働いている人に喜ばれたいとは思っていたけれど、褒められたいと思ったことなんて一度もなかったように思う。褒めることは簡単で、喜ばなくても褒めることはできてしまう。喜ぶためには関心が必要で、結局、無関心をベースにした人間関係の中で過ごしているということが、俺は嫌で嫌で仕方がないのだろう。



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