«1995» (14)
後日譚の続き。
上智大学の二次試験で奇妙な圧迫面接を受けた理由は長く謎だった。
別の教授に後日確かめたこともあるのだが、
「入学前の面接でフランス語で質問するなんて自分はやらないし、聞いたこともない」と。それはそうだろう。
入学後、田中先生本人に
「面接でいじめられた」と訴えたこともあるのだが、
「いじめてなんていませんよ」と強く否定された。
「私はいじめの意思がなかったのだからいじめは存在しない」という言い分が、典型的なパワハラの思考だということは指摘しておかねばなるまいし、今なお大学界隈ではびこるアカハラ、セクハラの類いは、自分は教授で偉いから、自分の主張こそが全てであとは知らないとでも言わんばかりの思い上がりに存するという自省と自戒は必要だろう。
ところが、卒業して20年近く経ってから、僕はあの奇妙な体験があながちいじめではなかったことを知る。
既に退官していた、髪型の素敵な元教授と、そのゼミ生だった同期と飲みに行く機会があり、酒の入った席でその先生が
「ただでさえ男子の少ないウチの学科としては、暁星出身者は、いわばフランス語が完成した状態で来てくれるわけだから、大歓迎なんだよ。だから暁星の子の二次面接なんてないも同然」
との告白をなさったものだった。
つまり、田中先生もメランベルジェ先生も、そのままスルーパスで入学させてしまうのは面白くないし、面接したというアリバイもつくらねばならないから、今の言葉でいうイジりをしていたわけ。
背景が分かってしまえば笑い話でしかないのだが、自分の人生の岐路でそんなことをして欲しくないという気持ちは今でも消えない。
おしまいに、時計の針をかなり進めるが、社会人3年目の2002年に僕は初の海外出張を経験した。行き先はアフリカ。モロッコの首都ラバトの空港でタラップを降りる時に、担任だったあのシカラズンバジジイのニヤケ面と予言を僕は何度も反芻したものだった。いやはや。
昨年2月から、月イチ800字という締切と制限を自分に課して書いてきた。
当初の計画では、大学に入ってから経験した、ホメロスのオデュッセイアさながらの奇妙な体験まで書き進めるつもりでいたのだが、ひとまずここで筆を置くことにしたい。
30年近く前のことを、よく覚えているなと我ながら感心した一方で、大きく記憶が欠落していた部分もあり、人間の認識なり感覚というのはあまりにも主観的でいいとこどりをしがちなのだということを改めて思いもした。
来月からも、別のテーマで何か書きたい(了)
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