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エリッヒ・フォン・シュトロハイム監督 『愚なる妻』 : エリッヒ・フォン・シュトロハイム論

映画評:エリッヒ・フォン・シュトロハイム監督『愚なる妻』1922年・アメリカ映画)

シュトロハイム監督の第3作で、モノクロ・サイレント作品である。
完璧主義の映画作家としてすでに高い評判を得ていたにも関わらず、本作に金と時間を費やしすぎて「こんなやつを雇っていたら、会社が潰れてしまう」と、ユニヴァーサル社をクビにされたという、そんないわく付きの作品だ。

ストーリーは、簡単に言ってしまうと「ロシア貴族になりすました女たらしの詐欺師が、アメリカの公使夫人をたらし込んで、金を巻き上げようとするが、お手つきの下女の嫉妬を買ったがために、あと一歩のところで詐欺に失敗して、最後は自滅する」というお話である。

(左がアメリカ公使夫人・21歳。中央が夫のアメリカ公使・41歳)

で、これを、いま見て面白いのかと言えば、「面白くない」と断じても良い。
あちこちの映画サイトのカスタマーレビューを見てみると、まあ、こういうマニアックな映画をわざわざ見る人たちのことだから、本作を「古典的な名作」ということで、基本的には、誉めようと頑張っている、という感じだ。
要は、先人の評価をなぞり、無理にでも「面白いところ」を探して、それで褒めて見せている、という感じなのである。

無論、なにしろ100年以上も前の作品なのだから、今の目で見て「つまらない」の一言で済ませてしまうのでは、そもそも歴史的な作品(古い作品)を見る意味がない。そういう「今の面白さ」を味わいたいだけの人は、新しいエンタメ映画だけ見ていれば良いのである。

そんなわけで、古い作品を古い作品として鑑賞し、そのうえで、その作品から「今日的な意味」を汲みとるというのは、とても大切なことなのだ。だがまたそれは、「心にもないのに、無理して褒める」といった単なる「権威主義」とは、ぜんぜん違った話でもある。
だからこそ、「今の目で見て、つまらないと感じる部分」を「昔の人たちはどういう理由で、面白いと感じたのか」と問うてみてこそ、「古い映画」を見る価値もあるのだ。
それは、今の私たちが「面白い」と感じていることも、時代が変われば「何が面白いのかわからなくなる」程度のものなのかも知れないという、今の私たちの「常識」を相対化する「自己認識の知恵」へとつながる、知的営為であるからだ。

したがって、本気で「面白い」と感じた人は別にして「今の目で見ると、つまらない」と感じた人は、次に「では、なぜこの作品は名作とされているのか」と考えるべきなのだ。
一方、素直に本気で「面白い」と感じた人の方は、自分がどこかで「現代性」を欠いているのかも知れないと、少しは疑ってみても良いだろう。なぜなら「作品の面白さが分かれば、すなわちそれは賢い(理解力がある)」ことの証明だと短絡的に考えるのは、人とは違って「私には神が見える(から、衆に秀でている証拠だ)」と本気で言う(思う)人と同じで、むしろどこかに欠陥のある可能性だって、否定できないからである。

さて、私から見て、本作がどうして「今の目から見たら、つまらない」のかと言えば、それは「ストーリに、曲(ひねり)がない」からである。
先に『「ロシア貴族になりすました女たらしの詐欺師が、アメリカの公使夫人をたらし込んで、金を巻き上げようとするが、お手つきの下女の嫉妬を買ったために、あと一歩のところで詐欺に失敗して、最後は自滅する」というお話』だと要約したとおりの、それだけの内容でなのだ。
しかも、このシュトロハイム演じるところの詐欺師は、悪漢としての魅力すらない「単なる、見かけ倒しのゲス野郎」なのである。

世に「ピカレスク・ロマン」と呼ばれる「魅力的な悪党」を描いた作品は、山ほどある。これは、善人であれ悪党であれ、魅力的でありさえすれば、それは鑑賞に値するものだからであろう。
だが、本作の主人公である悪漢、自称「カラムジン伯爵」にはそんな魅力は無くて、わかりやすく「女たらしの、いやらしい卑劣漢」な「だけ」なのだ。

もちろん、シュトロハイムが演じているのだから、外見的には「独特の男の魅力」があるし、それを「謎めいた悪の魅力」と言ってもいい。
また、そんな男が『女は、高級将校の制服に弱い』と自覚して、白い軍服をバリッと着こなしているのだから、見かけ的には間違いなく「魅力的」だと言えるだろう。

(昔、沢田研二が、この写真に似たような格好とポーズをとっていたような記憶がある。もしかすると、シュトロハイムの真似かもしれない。あと、シュトロハイムは、ちょっと「十三代目 市川 團十郎 白猿」に似ているかも)

だが、この魅力は、あくまでも「作品の中の女たち」のとっての魅力であって、私たち作品鑑賞者には、この男が、単なる「見かけだけのゲス野郎」だとわかるように描かれている。だから、私たちにとってこの偽伯爵は、「ピカレスク・ロマン」の主人公にはなり得ないのだ。

したがって、本作の持つ意味を考えるうえでのポイントは、「騙す側のゲス男(とその仲間のゲス女)」と「騙される側の愚かな女」しか描かれていないに等しい作品、つまり「魅力的な登場人物がいない作品」なのに、どうして、制作当時は高い評判を勝ち得たのか、という点なのだ。

で、それを考えるために、ひとまず「ストーリー」を紹介をしたい一一のだが、じつのところ、いつものように「コピペ」して済ませられるような、これといったストーリー紹介が見当たらない。本作には、日本語版「Wikipedia」も無いのだ。
かと言って、わざわざ、この「種も仕掛けもない」ストーリーを、自分でまとめるのも面倒だ。
一一で、やむなく、サイト「allcinema」の掲載の、比較的詳しい「解説」から「あらすじ」部分を引用して、あとでそれに「補足」を加えることにしよう。

『 モナコのアモロサ荘に三人のロシア貴族が集う。公爵夫人オルガ、公爵令嬢ベラ、と二人の従兄、大尉カラムジン伯だ。朝食のシリアル代わりにキャビアを喰う遊蕩生活を送り、彼らは金に困っていた。その時目にした米公使来訪の報。三人は公使夫人をカラムジンの手管で篭絡し、金を巻き上げようと企む。まずは射撃会で夫妻と近づきになり、後はとんとん拍子で、伯爵は週末のドリーム館へ夫人を誘う。そして、嵐の気配を察してわざと散策に出て迷い、不気味な婆さんの小屋を訪れ、一夜の宿とする(彼が暖炉にあたりながら、濡れた衣服の着替えをする夫人を手鏡で覗く場面のいやらしさ!)。が突然の神父の訪問で、本懐を遂げることなくその晩はすぎ、しばらくして伯爵は夫妻をカジノに誘う。ルーレットの資金を夫人に出させ、10万フランを獲得させた伯爵は、自分の屋敷に彼女を呼びつけ、財産のすべてを祖国につぎ込んで金が要る、と9万フラン無心する。一方で秘密裏に作った偽札を公使たちとのポーカーの過程で本物の札とすり替える従妹たち。夫人は伯爵に喜んでお金を譲るが、それを隠れ聞いていた伯爵お手つきのメイドが、嫉妬から二人を閉じ込め、館に火を放ってしまう(その狂気演技が凄烈)が、間一髪の所で救われ、メイドは自殺。後が判然としないのだが、伯爵は何者かによって酷たらしく殺され、エピローグでこれが物語の中の事件であったことが(取ってつけたように)匂わされる。ともかくスキャンダラスな素材をねちっこい描写で見せて、今でも虚を突かれる映像に満ちた怪作だ。』

まず『三人のロシア貴族が集う。公爵夫人オルガ、公爵令嬢ベラ、と二人の従兄、大尉カラムジン伯』という表現だけでは、ぜんぜん足りない(そもそも、オルガとベラが母娘なら、伯爵は2人の従兄ではあり得ない)。
この3人は、貴族でありながら『遊蕩生活』を送っていたから、金に困って詐欺を働こうとしたのではない。彼らはもとから「詐欺師」であり、当然その肩書きは、真っ赤な嘘。要は「女たらしの詐欺師の男」とその「仲間である2人の女」なのである。

(左から、偽侯爵夫人、偽伯爵、偽侯爵令嬢)

『伯爵お手つきのメイドが、嫉妬から二人を閉じ込め、館に火を放ってしまう』ということだが、この「お手つきメイド」というのも、少し説明が必要だ。
要は、このメイドは、この詐欺師の3人組がモナコにやってくる前から、この別荘付きのメイドだったのである。だから、彼らのことを本物の貴族だと信じているのだが、ある時、偽伯爵が当座の金に困って、身近にいたメイドに「私は祖国のために全財産を注ぎ込んで、いま一文無しであり、すぐに金を工面しなければ、名誉と命に関わる危機にある。それに比べれば、君は堅実にお金を貯めているんだろうね」みたいなことをうまいこと言って、メイドが12歳で奉公に出てからの20年間、それなりに金を貯めているのを聞き出すと、いつもの手で、メイドの同情を惹いて「借りる」という口実で金を引き出し、これに感謝感激する態で「いずれ祖国に帰ったときは、君と結婚する」と、そういう出まかせを口にしていたのだ。で、無学なメイドは、これを真に受けてしまい、今はメイドでも、近い将来は「伯爵夫人」になれると信じて、忠勤これに励んでいたのである。
ところが、そんな伯爵が、若い女(アメリカ公使夫人)をこの別荘に引っ張り込んだので、メイドはこれに嫉妬して、二人を部屋に閉じ込めて火をつけた一一と、こういうことなのである。

(頭を抱えて悩んでいるフリをしながら、メイドの様子を窺う)
(きっちり引っかかるメイド。32歳とは思えない老け顔で不美人)

『後が判然としないのだが、伯爵は何者かによって酷たらしく殺され、エピローグでこれが物語の中の事件であったことが(取ってつけたように)匂わされる。』という「解説」だが、これは単純に間違いだ。
まず、偽伯爵を殺したのは、作品の冒頭近くで登場する「偽札作りの男」である。彼の作った偽札をつかって、「公爵夫人とその娘」に扮した女詐欺師の2人が、モンテカルロのカジノで、賭博詐欺を働いていた(偽札で賭博をしていた)のだ。
そしてこの偽札作りの男には、同居している姪の娘がいた。他に身寄りがないため、この娘を実の娘のように大切にしていたのだが、女たらしの偽伯爵は、金目当てではなく、単に「若くて綺麗な娘」に目をつけていたのだ。
で、アメリカ公使夫人に仕掛けた詐欺が失敗に終わって、夜逃げしようとした際に、ふとこの娘のことを思い出して、モンテカルロからもおさらばだから、最後にこの娘を味わっておこうとスケベ心を出し、偽札作りの男の家の上階の娘の寝室に、窓から侵入するのである。
で、ここで場面は、女詐欺師たちが夜逃げしようとしていたところに、警察が踏み込んできて2人をお縄にするシーンが挟まり、そのあと、再度切り替わった偽札作りの男の家のシーンでは、すでに偽伯爵は、偽札作りの男に殺されて死体になっており、偽札作り男は、偽伯爵の死体をカーテンに包んで家から引きずり出し、表のマンホールにその死体を捨てる様子が描かれるのである。
つまり、偽伯爵が殺されるシーンは、わざと省いたのか、もともとはあったのに切られた部分なのか、正確なところはよくわからないが、とにかく偽伯爵は、最後はあっけなく殺されてしまうのである。
で、このサイト「allcinema」の解説者氏は、なぜか「偽札作りの男とその姪」の存在をすっかり忘れていたので、このラストが『判然としない』唐突なものに映った、というわけである。

では、『エピローグでこれが物語の中の事件であったことが(取ってつけたように)匂わされる。』というのは、どういうことか。
これは、偽伯爵に徐々にたらし込まれていく若い公使夫人は、最初に登場した時から、暇を見ては本を読んでいたのだが、その本のタイトルが本作と同じ『愚なる妻』であり、言うなればこれは、公使夫人の運命を暗示する、露骨な伏線だったのである。
で、最後は、あわや火事で焼き殺されるところを九死に一生を得て自宅に戻った公使夫人は、その本のラストにも書かれているとおり、彼女のことを大切にして見守り続けてくれていた(年上の)夫のありがたさを身にしみて知り、真の幸せを掴む一一と、こういう伏線回収型のラストになっていたのだ。

つまりこのラストは、『物語の中の事件であったことが(取ってつけたように)匂わされ』ているというのではなく、「通俗作品によくある、予定調和のハッピーエンドにしましたよ」という、シュトロハイム監督の「皮肉」なメッセージなのである。

偽伯爵が死んだのも、公使夫人が夫の元に戻ったのも、本作中の現実であり、決して「夢オチ」的なものではないのだが、しかし、この「ハッピーエンド」における「最後に、悪は滅び、愛は勝つ」というメッセージの方が、むしろ監督の本音ではないというのを「匂わせる」ために、わざわざ付けられた「わざとらしいオチ」という演出だったのだ。

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さて、ここまで来れば、シュトロハイムが本作で何を描きたかったのかは、ほぼ明らかだ。

要は「世の中、映画のように、最後は悪が滅ぶとか愛が勝つなんてことはないんだよ。現実とは、最後までいやらしくも馬鹿くさいものなんだ。男も女もだ」ということなのである。
そしてこれこそが、当時のアメリカでは先進的に映った、シュトロハイム監督の「リアリズム」、ということだったのだ。

(アメリカ公使夫人に接近する偽伯爵)

淀川長治は、この作品が、当時の人々に与えた衝撃を、次のように語っている。

『『愚かなる妻』はサイレントのこの時代では最もタブーの言ってはいけない題名だったんですね。アメリカで愚かなる女、愚かなる妻なんていうのは絶対に言ったらいけないんですね。それに堂々と『愚かなる妻』という題したんですね。』

「IVC」版『愚なる妻』DVD付録の、淀川長治による作品解説

つまり、当時のアメリカでは「女は、優しく賢明だけれども、か弱い存在」であり、だから「正しく強い男が、女性を騎士的に守らなければならない」という「昔風のフェミニズム(女性尊重主義)」が「良識」としてあって、ハリウッドでも、それが「良識的な(建前としての)規範」になっていたのである。
わかりやすく言えば、『スーパーマン』における、男まさりな「ロイス・レイン」と「スーパーマン」の関係だ。女性を守れない、頼りない男性「クラーク・ケント」では、男として不十分だったのである。

で、こうした「性役割」的なものが、なぜ当時のアメリカで強かったのかと言えば、私の推測するところではたぶん、アメリカが「清教徒(ピューリタン)」によって作られた国だったからだ。
つまり「女は優しく賢明で、男は強く正しくなければならない。そして両者は助け合って、神に恥じぬよう善良に生きなければならない(でないと、天国に行けないぞ)」という「ピューリタン」的な禁欲的倫理であり、マックス・ヴェーバー言うところの「プロテスタンティズムの倫理」だったのではないだろうか。

そして、こうした「当時のアメリカ」的なWASPの倫理観」を、シュトロハイムがどう見ていたかは、次のような彼の出自・経歴を見れば、おおよその見当もつくはずだ。

『1885年9月22日、オーストリア=ハンガリー帝国(現在のオーストリア)ウィーンにてユダヤ系ドイツ人の両親の間にエリッヒ・オズヴァルド・シュトロハイムとして生まれる。父親は帽子職人。商業学校を卒業後帽子職人となる。1906年に陸軍入隊、翌年除隊。1909年にアメリカに渡った。 出自の貧しいユダヤ系オーストリア人ではあったが、新天地・アメリカで幅を利かせるため、いかにもドイツ風で独特な容貌の魁偉さ、尊大な立ち居振る舞いを映画界でのブラフに利用し、貴族名前の称号「von」(フォン)を自称した。自称の経歴によれば、父はフリードリヒ・フォン・ノルトヴァルト公で、士官学校在学中に貴族と決闘沙汰を起こし、フランツ・ヨーゼフ皇帝から直々にアメリカ行きを勧められたという。

1914年、軍服アドバイザーとして映画界に入り、D・W・グリフィス『國民の創生』(1914年)で監督助手を務めた。また同作では屋根から落ちる役でエキストラ出演もしている。続いてグリフィスの『イントレランス』(1916年)ではアシスタントディレクターを務め、パリサイ人役で出演した。その独特な容貌・個性的なキャラクターを買われ、1918年に第一次世界大戦におけるドイツ軍の残虐を描いたグリフィスの『人間の心』ではそのドイツ人将校を演じて知名度を上げた。

1919年、アルプスの高地を背景に、或るアメリカ人夫婦と(彼自身が演じた)悪徳好色漢との三角関係を、綿密なリアリズムで描いた『アルプス颪』(1919年)の脚本をユニヴァーサルに売り込み、自ら監督・主演して成功を収めた。』

(Wikipedia「エリッヒ・フォン・シュトロハイム」

彼は「貧しい帽子職人の倅の、ユダヤ系ドイツ人」であり、当然のことながら「差別」も受けてきたから、この世の「裏の部分」の現実を、体験的に知っていたわけだ。
そして、そんな彼だからこそ、新天地アメリカに流れてきた後は「経歴詐称」くらいのことは「生きるための知恵」だと考えていたのだろう。「ユダヤ人が、ユダヤ人だと正直に告白して、それで公平に扱われるような、この世界ですか?」というわけである。

つまり彼としては、「アメリカ式」あるいは「ハリウッド式」の「プロテスタンティズムの倫理」は、「偽善」にしか映らなかった。
だから彼の映画とは「現実の世界と人間というものを、私が見せてあげましょう。そっちの方が面白いに決まっているのだから」というものになった。それこそが、彼の「リアリズム」だったのではないだろうか。

(嵐を逃れて、一夜、ボロ宿に避難した偽伯爵と公使夫人。夫人は気絶状態だが手は出さない)

したがって、彼の根底には「世界に対するルサンチマン(恨みつらみ)」がある。
「世の中なんて、嘘ばっかりだ。偽物ばっかりだ」という思いが、どこかに必ずあったはずだ。

だから彼は、「虚飾の楽園」であるハリウッドに流れ着いて、「偽物の貴族」となり、「この世の、いやったらしい現実を、これでもかと描いた」のではないだろうか。

彼が、映画のセットや小物などに対して「本物指向の完璧主義」を貫いたために、やたらに制作費がかかって、映画会社をクビになったとか、監督業を続けられなくなったというのも、彼が「本物」にこだわりながら「偽物としての映画」を作るという「矛盾」に、この世の現実(リアリズム)を見ていたからではないだろうか。

その意味で彼の映画は、この世界に対する復讐的な「サディズム」であり、同時にそれは、自己に対する「サディズム」でもあれば「マゾヒズム」でもあったのだ。
わざわざ、世間からの、あるいは、映画会社からの「顰蹙を買うために」、莫大な予算をかけて「いやな現実を描く映画」を作って見せたのである。一一ハリウッドが体現する「夢と希望」の「欺瞞」を嘲笑うためのリアリズム映画を、わざわざ作ってみせたのだ。

(本作のために作られた、モンテカルロのカジノのセット)

『 完全主義者
シュトロハイムは度が過ぎるほどの完全主義者として知られた。その異常とも言える完全主義への執念は様々なエピソードに残されている。

例えば、サイレント映画にもかかわらず俳優にはきちんと台詞を読ませて、何度もリハーサルを行ったり、本物の小道具を使ったり、作品の脚本には映画では撮影しないはずの登場人物の生育歴が綿々と書きつづられていたり、ついには役者の下着にまでこだわるほど。また、当時はサイレント映画なのに、ドアベルまできちんと鳴るように気配りさせたという。『愚なる妻』ではモンテカルロのカジノを、ハリウッドに実物そっくりに再現させてしまう。撮影期間も超過し完成するまで13ヶ月もかかり、製作費は最終的には110万ドルも投じられた。

『グリード』では全編ロケーション撮影を行ったが、ラストシーンはデスヴァレー(通称:死の谷)で撮影を強行し、酷暑のため病人が続出し、ついには死者まで出してしまう。『結婚行進曲』ではオリジナルの豪華な衣装を仕立て、豪勢な料理までも実際に作らせて、撮影中にキャストが口にした。これらはそれまでの映画撮影の常識を打ち破るものだった。

様々なものにこだわりすぎた挙句、ほとんどの作品で製作費がかさみ、上映時間もとても長くなってしまうことが多かった。その場合はほとんどの作品が勝手に編集されて大幅にカットされている。『悪魔の合鍵』ではフィルムの3分の1がカットされ、『愚なる妻』では上映時間が8時間にものぼったため、最終的に1時間50分ほどに短縮させられた。『グリード』では最初の完成作品は42巻で上映時間9時間を越える空前の長尺となり、会社と揉めた末2時間余りにずたずたにカットされた。第1部と第2部に分れていた『結婚行進曲』はスタジオから編集権を奪われたため、第2部は未公開で終わっている。

このような徹底しすぎる完全主義により、ほとんどの作品で予算超過・長尺となり、それが原因で会社やスタッフ、俳優とも何度も衝突している。結局シュトロハイムは、43歳にして映画づくりの道を断たれ、呪われた監督となった。』

(Wikipedia「エリッヒ・フォン・シュトロハイム」

彼が、無闇に長尺の映画を撮ったのも、要は「嫌な現実」を「これでもかというくらいに見せつけたかったから」ではないだろうか。
「嫌な現実世界は、死ぬまで続くんだぜ。それに比べれば、見るのに半日かかるような映画だって、大した苦痛でもあるまい」と。

それにしても、彼はなぜ、こんな、完全主義の「呪われた監督」になったのだろうか?

それはたぶん、この世を呪いながらも、そんな世の中に対して「目を覚ませ」という叫ぶ「愛」を捨てられなかったからだろう。だからこそ、要領よく世間に迎合することができなかった。
だからこそその意味で、彼の映画は「見返りを求めない無償の愛」のひとつの「ひねくれた表現(かたち)」だったのだと、私には思えるのだ。

どんなにひねくれていても、それでも彼が「偉大な映画監督」であり得たのは、彼の「リアリズム」が「愛に発した憎悪が、裏返されたかたちで、無償の愛を語ったものだった」から、ではないだろうか。

また、だからこそ彼は、公私共に「偽物」であることを、自罰的にひき受け続けたのであろう。



(2024年8月26日)

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