エリッヒ・フォン・シュトロハイム監督 『愚なる妻』 : エリッヒ・フォン・シュトロハイム論
映画評:エリッヒ・フォン・シュトロハイム監督『愚なる妻』(1922年・アメリカ映画)
シュトロハイム監督の第3作で、モノクロ・サイレント作品である。
完璧主義の映画作家としてすでに高い評判を得ていたにも関わらず、本作に金と時間を費やしすぎて「こんなやつを雇っていたら、会社が潰れてしまう」と、ユニヴァーサル社をクビにされたという、そんないわく付きの作品だ。
ストーリーは、簡単に言ってしまうと「ロシア貴族になりすました女たらしの詐欺師が、アメリカの公使夫人をたらし込んで、金を巻き上げようとするが、お手つきの下女の嫉妬を買ったがために、あと一歩のところで詐欺に失敗して、最後は自滅する」というお話である。
で、これを、いま見て面白いのかと言えば、「面白くない」と断じても良い。
あちこちの映画サイトのカスタマーレビューを見てみると、まあ、こういうマニアックな映画をわざわざ見る人たちのことだから、本作を「古典的な名作」ということで、基本的には、誉めようと頑張っている、という感じだ。
要は、先人の評価をなぞり、無理にでも「面白いところ」を探して、それで褒めて見せている、という感じなのである。
無論、なにしろ100年以上も前の作品なのだから、今の目で見て「つまらない」の一言で済ませてしまうのでは、そもそも歴史的な作品(古い作品)を見る意味がない。そういう「今の面白さ」を味わいたいだけの人は、新しいエンタメ映画だけ見ていれば良いのである。
そんなわけで、古い作品を古い作品として鑑賞し、そのうえで、その作品から「今日的な意味」を汲みとるというのは、とても大切なことなのだ。だがまたそれは、「心にもないのに、無理して褒める」といった単なる「権威主義」とは、ぜんぜん違った話でもある。
だからこそ、「今の目で見て、つまらないと感じる部分」を「昔の人たちはどういう理由で、面白いと感じたのか」と問うてみてこそ、「古い映画」を見る価値もあるのだ。
それは、今の私たちが「面白い」と感じていることも、時代が変われば「何が面白いのかわからなくなる」程度のものなのかも知れないという、今の私たちの「常識」を相対化する「自己認識の知恵」へとつながる、知的営為であるからだ。
したがって、本気で「面白い」と感じた人は別にして「今の目で見ると、つまらない」と感じた人は、次に「では、なぜこの作品は名作とされているのか」と考えるべきなのだ。
一方、素直に本気で「面白い」と感じた人の方は、自分がどこかで「現代性」を欠いているのかも知れないと、少しは疑ってみても良いだろう。なぜなら「作品の面白さが分かれば、すなわちそれは賢い(理解力がある)」ことの証明だと短絡的に考えるのは、人とは違って「私には神が見える(から、衆に秀でている証拠だ)」と本気で言う(思う)人と同じで、むしろどこかに欠陥のある可能性だって、否定できないからである。
さて、私から見て、本作がどうして「今の目から見たら、つまらない」のかと言えば、それは「ストーリに、曲(ひねり)がない」からである。
先に『「ロシア貴族になりすました女たらしの詐欺師が、アメリカの公使夫人をたらし込んで、金を巻き上げようとするが、お手つきの下女の嫉妬を買ったために、あと一歩のところで詐欺に失敗して、最後は自滅する」というお話』だと要約したとおりの、それだけの内容でなのだ。
しかも、このシュトロハイム演じるところの詐欺師は、悪漢としての魅力すらない「単なる、見かけ倒しのゲス野郎」なのである。
世に「ピカレスク・ロマン」と呼ばれる「魅力的な悪党」を描いた作品は、山ほどある。これは、善人であれ悪党であれ、魅力的でありさえすれば、それは鑑賞に値するものだからであろう。
だが、本作の主人公である悪漢、自称「カラムジン伯爵」にはそんな魅力は無くて、わかりやすく「女たらしの、いやらしい卑劣漢」な「だけ」なのだ。
もちろん、シュトロハイムが演じているのだから、外見的には「独特の男の魅力」があるし、それを「謎めいた悪の魅力」と言ってもいい。
また、そんな男が『女は、高級将校の制服に弱い』と自覚して、白い軍服をバリッと着こなしているのだから、見かけ的には間違いなく「魅力的」だと言えるだろう。
だが、この魅力は、あくまでも「作品の中の女たち」のとっての魅力であって、私たち作品鑑賞者には、この男が、単なる「見かけだけのゲス野郎」だとわかるように描かれている。だから、私たちにとってこの偽伯爵は、「ピカレスク・ロマン」の主人公にはなり得ないのだ。
したがって、本作の持つ意味を考えるうえでのポイントは、「騙す側のゲス男(とその仲間のゲス女)」と「騙される側の愚かな女」しか描かれていないに等しい作品、つまり「魅力的な登場人物がいない作品」なのに、どうして、制作当時は高い評判を勝ち得たのか、という点なのだ。
で、それを考えるために、ひとまず「ストーリー」を紹介をしたい一一のだが、じつのところ、いつものように「コピペ」して済ませられるような、これといったストーリー紹介が見当たらない。本作には、日本語版「Wikipedia」も無いのだ。
かと言って、わざわざ、この「種も仕掛けもない」ストーリーを、自分でまとめるのも面倒だ。
一一で、やむなく、サイト「allcinema」の掲載の、比較的詳しい「解説」から「あらすじ」部分を引用して、あとでそれに「補足」を加えることにしよう。
まず『三人のロシア貴族が集う。公爵夫人オルガ、公爵令嬢ベラ、と二人の従兄、大尉カラムジン伯』という表現だけでは、ぜんぜん足りない(そもそも、オルガとベラが母娘なら、伯爵は2人の従兄ではあり得ない)。
この3人は、貴族でありながら『遊蕩生活』を送っていたから、金に困って詐欺を働こうとしたのではない。彼らはもとから「詐欺師」であり、当然その肩書きは、真っ赤な嘘。要は「女たらしの詐欺師の男」とその「仲間である2人の女」なのである。
『伯爵お手つきのメイドが、嫉妬から二人を閉じ込め、館に火を放ってしまう』ということだが、この「お手つきメイド」というのも、少し説明が必要だ。
要は、このメイドは、この詐欺師の3人組がモナコにやってくる前から、この別荘付きのメイドだったのである。だから、彼らのことを本物の貴族だと信じているのだが、ある時、偽伯爵が当座の金に困って、身近にいたメイドに「私は祖国のために全財産を注ぎ込んで、いま一文無しであり、すぐに金を工面しなければ、名誉と命に関わる危機にある。それに比べれば、君は堅実にお金を貯めているんだろうね」みたいなことをうまいこと言って、メイドが12歳で奉公に出てからの20年間、それなりに金を貯めているのを聞き出すと、いつもの手で、メイドの同情を惹いて「借りる」という口実で金を引き出し、これに感謝感激する態で「いずれ祖国に帰ったときは、君と結婚する」と、そういう出まかせを口にしていたのだ。で、無学なメイドは、これを真に受けてしまい、今はメイドでも、近い将来は「伯爵夫人」になれると信じて、忠勤これに励んでいたのである。
ところが、そんな伯爵が、若い女(アメリカ公使夫人)をこの別荘に引っ張り込んだので、メイドはこれに嫉妬して、二人を部屋に閉じ込めて火をつけた一一と、こういうことなのである。
『後が判然としないのだが、伯爵は何者かによって酷たらしく殺され、エピローグでこれが物語の中の事件であったことが(取ってつけたように)匂わされる。』という「解説」だが、これは単純に間違いだ。
まず、偽伯爵を殺したのは、作品の冒頭近くで登場する「偽札作りの男」である。彼の作った偽札をつかって、「公爵夫人とその娘」に扮した女詐欺師の2人が、モンテカルロのカジノで、賭博詐欺を働いていた(偽札で賭博をしていた)のだ。
そしてこの偽札作りの男には、同居している姪の娘がいた。他に身寄りがないため、この娘を実の娘のように大切にしていたのだが、女たらしの偽伯爵は、金目当てではなく、単に「若くて綺麗な娘」に目をつけていたのだ。
で、アメリカ公使夫人に仕掛けた詐欺が失敗に終わって、夜逃げしようとした際に、ふとこの娘のことを思い出して、モンテカルロからもおさらばだから、最後にこの娘を味わっておこうとスケベ心を出し、偽札作りの男の家の上階の娘の寝室に、窓から侵入するのである。
で、ここで場面は、女詐欺師たちが夜逃げしようとしていたところに、警察が踏み込んできて2人をお縄にするシーンが挟まり、そのあと、再度切り替わった偽札作りの男の家のシーンでは、すでに偽伯爵は、偽札作りの男に殺されて死体になっており、偽札作り男は、偽伯爵の死体をカーテンに包んで家から引きずり出し、表のマンホールにその死体を捨てる様子が描かれるのである。
つまり、偽伯爵が殺されるシーンは、わざと省いたのか、もともとはあったのに切られた部分なのか、正確なところはよくわからないが、とにかく偽伯爵は、最後はあっけなく殺されてしまうのである。
で、このサイト「allcinema」の解説者氏は、なぜか「偽札作りの男とその姪」の存在をすっかり忘れていたので、このラストが『判然としない』唐突なものに映った、というわけである。
では、『エピローグでこれが物語の中の事件であったことが(取ってつけたように)匂わされる。』というのは、どういうことか。
これは、偽伯爵に徐々にたらし込まれていく若い公使夫人は、最初に登場した時から、暇を見ては本を読んでいたのだが、その本のタイトルが本作と同じ『愚なる妻』であり、言うなればこれは、公使夫人の運命を暗示する、露骨な伏線だったのである。
で、最後は、あわや火事で焼き殺されるところを九死に一生を得て自宅に戻った公使夫人は、その本のラストにも書かれているとおり、彼女のことを大切にして見守り続けてくれていた(年上の)夫のありがたさを身にしみて知り、真の幸せを掴む一一と、こういう伏線回収型のラストになっていたのだ。
つまりこのラストは、『物語の中の事件であったことが(取ってつけたように)匂わされ』ているというのではなく、「通俗作品によくある、予定調和のハッピーエンドにしましたよ」という、シュトロハイム監督の「皮肉」なメッセージなのである。
偽伯爵が死んだのも、公使夫人が夫の元に戻ったのも、本作中の現実であり、決して「夢オチ」的なものではないのだが、しかし、この「ハッピーエンド」における「最後に、悪は滅び、愛は勝つ」というメッセージの方が、むしろ監督の本音ではないというのを「匂わせる」ために、わざわざ付けられた「わざとらしいオチ」という演出だったのだ。
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さて、ここまで来れば、シュトロハイムが本作で何を描きたかったのかは、ほぼ明らかだ。
要は「世の中、映画のように、最後は悪が滅ぶとか愛が勝つなんてことはないんだよ。現実とは、最後までいやらしくも馬鹿くさいものなんだ。男も女もだ」ということなのである。
そしてこれこそが、当時のアメリカでは先進的に映った、シュトロハイム監督の「リアリズム」、ということだったのだ。
淀川長治は、この作品が、当時の人々に与えた衝撃を、次のように語っている。
つまり、当時のアメリカでは「女は、優しく賢明だけれども、か弱い存在」であり、だから「正しく強い男が、女性を騎士的に守らなければならない」という「昔風のフェミニズム(女性尊重主義)」が「良識」としてあって、ハリウッドでも、それが「良識的な(建前としての)規範」になっていたのである。
わかりやすく言えば、『スーパーマン』における、男まさりな「ロイス・レイン」と「スーパーマン」の関係だ。女性を守れない、頼りない男性「クラーク・ケント」では、男として不十分だったのである。
で、こうした「性役割」的なものが、なぜ当時のアメリカで強かったのかと言えば、私の推測するところではたぶん、アメリカが「清教徒(ピューリタン)」によって作られた国だったからだ。
つまり「女は優しく賢明で、男は強く正しくなければならない。そして両者は助け合って、神に恥じぬよう善良に生きなければならない(でないと、天国に行けないぞ)」という「ピューリタン」的な禁欲的倫理であり、マックス・ヴェーバー言うところの「プロテスタンティズムの倫理」だったのではないだろうか。
そして、こうした「当時のアメリカ」的な「WASPの倫理観」を、シュトロハイムがどう見ていたかは、次のような彼の出自・経歴を見れば、おおよその見当もつくはずだ。
彼は「貧しい帽子職人の倅の、ユダヤ系ドイツ人」であり、当然のことながら「差別」も受けてきたから、この世の「裏の部分」の現実を、体験的に知っていたわけだ。
そして、そんな彼だからこそ、新天地アメリカに流れてきた後は「経歴詐称」くらいのことは「生きるための知恵」だと考えていたのだろう。「ユダヤ人が、ユダヤ人だと正直に告白して、それで公平に扱われるような、この世界ですか?」というわけである。
つまり彼としては、「アメリカ式」あるいは「ハリウッド式」の「プロテスタンティズムの倫理」は、「偽善」にしか映らなかった。
だから彼の映画とは「現実の世界と人間というものを、私が見せてあげましょう。そっちの方が面白いに決まっているのだから」というものになった。それこそが、彼の「リアリズム」だったのではないだろうか。
したがって、彼の根底には「世界に対するルサンチマン(恨みつらみ)」がある。
「世の中なんて、嘘ばっかりだ。偽物ばっかりだ」という思いが、どこかに必ずあったはずだ。
だから彼は、「虚飾の楽園」であるハリウッドに流れ着いて、「偽物の貴族」となり、「この世の、いやったらしい現実を、これでもかと描いた」のではないだろうか。
彼が、映画のセットや小物などに対して「本物指向の完璧主義」を貫いたために、やたらに制作費がかかって、映画会社をクビになったとか、監督業を続けられなくなったというのも、彼が「本物」にこだわりながら「偽物としての映画」を作るという「矛盾」に、この世の現実(リアリズム)を見ていたからではないだろうか。
その意味で彼の映画は、この世界に対する復讐的な「サディズム」であり、同時にそれは、自己に対する「サディズム」でもあれば「マゾヒズム」でもあったのだ。
わざわざ、世間からの、あるいは、映画会社からの「顰蹙を買うために」、莫大な予算をかけて「いやな現実を描く映画」を作って見せたのである。一一ハリウッドが体現する「夢と希望」の「欺瞞」を嘲笑うためのリアリズム映画を、わざわざ作ってみせたのだ。
彼が、無闇に長尺の映画を撮ったのも、要は「嫌な現実」を「これでもかというくらいに見せつけたかったから」ではないだろうか。
「嫌な現実世界は、死ぬまで続くんだぜ。それに比べれば、見るのに半日かかるような映画だって、大した苦痛でもあるまい」と。
それにしても、彼はなぜ、こんな、完全主義の「呪われた監督」になったのだろうか?
それはたぶん、この世を呪いながらも、そんな世の中に対して「目を覚ませ」という叫ぶ「愛」を捨てられなかったからだろう。だからこそ、要領よく世間に迎合することができなかった。
だからこそその意味で、彼の映画は「見返りを求めない無償の愛」のひとつの「ひねくれた表現(かたち)」だったのだと、私には思えるのだ。
どんなにひねくれていても、それでも彼が「偉大な映画監督」であり得たのは、彼の「リアリズム」が「愛に発した憎悪が、裏返されたかたちで、無償の愛を語ったものだった」から、ではないだろうか。
また、だからこそ彼は、公私共に「偽物」であることを、自罰的にひき受け続けたのであろう。
(2024年8月26日)
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