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浅野マサオ 『東京某家』 : 「絵を見る」のではなく「空気を読む」。

書評:浅野マサオ東京某家』(クリエイティブASN1998年)

「古い家」の写真集である。

今でも続いているのかどうかは知らないが、一時期「廃墟ブーム」が盛り上がって、廃墟や廃工場などの写真集が山ほど出た。
確かにそういうものも嫌いではないし、面白いとは思うのだが、書店で見本を手に取ってパラパラめくって、それでおしまいとなることが多い。

また、近年では「ホラー」小説や映画との関係で「いわく付き物件」というのが、変に持もてはやされされたりしている。要は、変死者を出した不動産物件(事故物件)であり、見かけに特に変わったところはないのけれど、何か変に澱んだ空気が流れているとか、不穏なものを感じるとかいったようなものだ。
そういうものについても、そうと知らされれば想像力を掻き立てられるから、興味を惹かれるというのも、理解はできる。だが、やはり、本物の廃墟に比べると、いささか資本主義経済の手垢に塗れている感じが透けて見え、「そんな手に乗るかよ。子供じゃあるまいし」などと思ってしまう。

やはり、できれば「本物」が良いのだ。
ホラー映画に出てくるような、いかにも微妙に不穏な空気が漂っているような「家」、そのじつ、カメラアングルや照明やBGMでそれらしく盛り上げているにすぎないものなどではなく、本物の「怪しい家」が良い。公認の、手垢に塗れた、「心霊スポット」的な「家」だの「廃墟」だのではなく、普通は誰もがなんとも思わず通り過ぎていく場所に、黙然と存在しているような、当たり前と言えば当たり前だけれど、立ち止まって見てみると、いわく言い難い「雰囲気」を醸し出している、そんな「家」や「場所」や「空間」が、いい。

だから、「廃墟写真集」や「廃工場写真」に出てくるような、いかにも「趣き」のある場所も、実際に行ってみれば、それはそれで感ずるところもあって良いのだろうが、それを写真で見てまで楽しもうとは思わない。だから、そういうものは滅多に、いや、まず買わないのだ。

ではなぜ、本書を購ったのかといえば、多分どこかで紹介されていたのを読んで興味を惹かれ、「古本で手に入ったら、見てみてもいいかな」と思い、例によって「ブックオフ・オンライン」に登録しておいたところ、数年越しで手に入った。

本書に興味を持った理由は、ひとつには、ことさらに「廃墟」や「怪しい家」ばかりをねらったものではなく、写真家が、通りがかった際に「なんとなくピンと来た」家や場所を撮った、と話している点だ。そう「あとがき」に書いてある。
つまり、この写真集に興味を持った数年前の段階で、私は、その「あとがき」の内容を知っていたということだ。それが紹介されていたということなのだろう。もはや定かな記憶はないのだが、知っていたというのは間違いない。

こんな内容である。

『 家を撮りだして10年近くになる。何かおもしろいのかと言われてもすぐには答えが出てこない。ただ街を歩いていると土地の場と家の様相に感応されて、夢中でシャッターを押してしまう。対象の中心となるのは家なのですが、家を軸にして周りの環境が歪んでいるというか、異次元の領域に接触しているというか、何か変わった気配ー"気”のある家の場、土地の場に反応してしまう。家と言っても人間の体臭はするけれども、住んでいる人の顔が浮かんで来ない。ただ家が顔そのものとなって、一人歩きしている様がおもしろい。
 家と土地のコラボレーションによって発現する異界の“気”の場が、東京という場と今の時代の波動とから熟成してくるのを感じる。』

そう。肝心なのは、「家」だの「場所」だのの「見てくれ」ではなく、そこに存在している“気”のようなものであり、それをどの程度、写真に移すことに成功しているのかが、問題なのだ。
「廃墟」や「廃工場」が持っているような、いかにも「面白い」空間ではなく、じっとしている“気”にようなものを、いかに写真に定着させ得ているかが、問題なのである。

で、この写真家は、そのことに気づき、そこを重視して写真を撮ったようだから、私は「期待できるかも知れない」と、そう感じ、この写真集を、手に入るならば手に入れようと思った。
こうしたものは、金さえ出せばすぐにでも手に入るというような入手の仕方をしてはいけない。手に入る時は入るし、入らない時は縁がなかったのだと、そうした関係でなければいけないのだと、なんとなく、そう感じるところがあった。「心霊スポット」へわざわざ出かけていくような感覚ではなく、たまたま通りがかって、その風景に惹き寄せられるというような出会いが、この写真集にも似合っていると、そう思ったのである。

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それで、結果としてどうであったというと、すぐにピンとくる作品(写真)は、そう多くなかった。もちろん、これは良いと思うものもいくらかあって、それはそれで満足はさせられた。比較して言うのもなんだが、例えば『深田恭子写真集』なんかでも、表紙に使われている写真以外で、「これはいい」というものは、ほんの数枚しかないものだ。
写真集とは、そういうものだと思っているので、数枚でも、本当に「いい」と思ったものがあれば、それで一応の満足はできるのである。

だが、それほど「いい」とも思わなかった写真を、二度三度パラパラとめくっているうちに、この「見方」は、間違っているのではないかと思えてきた。
私は習慣的に、それらの写真を「絵」として見ていた。写っている家を「オブジェ」として面白いか否か、写真としての画面構成がどうだとかいったことで見ていたから、よほど趣味に合う「家」や「アングル」や「ライティング(光の具合)」なんかでないと、「いい」とは感じなかったのではないかと、そう気づいたのである。

肝心なのは、そうした、「写真作品を鑑賞する」というような「見方」ではなく、私自身が、その写真を撮ったときの写真家の立場に立って、その場にいるつもりで、「写真を見る」というよりは、写真を通して、その時のその場所へ「入っていく」つもりになると、比較的「当たり前」に見えていたものでも、その存在感が迫ってくるように感じられたのだ。

そうだ。これは「二次元」の写真として見るのではなく、三次元、いや「流れている時間」も含めた四次元の空間に立ちあうつもりで、「その場で」鑑賞するならば、比較的どうということのない写真であっても、たぶんその時、写真家が感じたであろう“気”のようなものが感じられるのだ。たぶん、感じられているのである。
もはやそれは、「作品」などではなく、「その場」なのだ。私は、その場に立ちあっているからこそ、私を包むように、その“気”が感じられて、いわく言い難い、胸の高まりめいたものを感じることもできたのだ。

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以下に、私が、すぐに「これ、いいな」と感じた写真を何枚か紹介した後、最後に、最初はどうとも思わなかったけれど、上のような気づきがあった後に、そのような「見方」で見てみると、その「空気」が感じられた作品を示しておこう。

もちろん、下に示した画像は、元の写真を再現しきれてなどいないのだが、それでも読者諸氏にも、ぜひ「試して」いただきたいと思う。







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(2024年10月9日)


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