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時間を超えた〈内面〉の風景

書評:『林忠彦写真集 東海道』(集英社)

写真派か絵画派と聞かれれば、私ははっきりと絵画派である。そして、ビジュアル派か活字派かと聞かれれば、はっきりと活字派である。そんな私は、写真であれ絵画であれ、ビジュアル作品を鑑賞する際には、作者に関する情報や作品意図、来歴などといった周辺情報は一切排除して、ただ虚心に作品に向き合うべきだと考えている。
要は、何様の作品であろうと、どんな意図や苦労が込められた作品であろうと、作品という結果がすべてであり、作品評価は、外部情報に左右されるべきではないと考える。

これは、しごく当たり前のことのように思われるかも知れないが、しかし、そうではない。例えば、この写真集を評価する際、作者(写真家・撮影者)は、太宰治や坂口安吾のビジュアルイメージを決定した「あの写真」を撮った「あの有名写真家」林忠彦であるという情報や、この作品集に収められた作品は「東海道」をテーマとしており、「消えゆく江戸の風景をすこしでも遺したい」という意図から撮影されたものだ、といった情報を、本作品集収録写真の1枚1枚を鑑賞する者は、ほとんど無自覚に前提として受け入れ、そのフィルターを通して、作品を評価してしまっているのだ。

もちろん、知ってしまった情報を、頭の中から完全に排除することは出来ないのだけれど、できるかぎりそうした情報に引っぱられないで、作品そのものに向き合いたい、向き合わねばならぬというのが、私の作品評価の基本的スタンスである。
そして、その上で私の評価を語るならば「とても素晴らしい写真もあれば、意外につまらない写真もある」ということにでもなろうか。とは言え、全体としてもなかなか面白い作品集で、ずっと頭の中に残りつづけるであろういくつかの作品に出会えただけでも、この写真集を購った価値は十分にあったと思う。

私が、惹かれた写真に感じた、その魅力とは何か。それは、たぶん「昔、どこかで見た、薄暗くも懐かしい空間」に引き入れられるような感覚だ、と言ってもいいだろう。これは私が文学作品にも求める、ひとつの魅力である。
私には、昔から「ここではないどこかへ」という希求がある。これは虚構作品を読む者には多かれ少なかれ存在する欲求なのだろうが、私にはそうした傾向がはっきりとあった。なればこそ、実際に面白い作品に出会える頻度が左程でもないのに、それでも「幻想文学」というジャンルには愛着を感じ続けてきた。「どこかへ連れていってくれるかも知れない」という期待を寄せやすい、文学ジャンルだったからである。

そうした観点から、写真集『東海道』の中で私の惹かれた作品に共通する魅力の正体について考えてみると、前述の通りそれは「昔、どこかで見た、薄暗くも懐かしい空間」に引き入れられるような感覚、だったのである。

しかし、この写真集を、もっと若い頃に鑑賞していたら、きっと同じ作品に同じような魅力を感じ得なかったのではないだろうか。これは、それなりに齢を重ねて、「過去」がある種の「ここではないどこか」的なものになってしまった今だからこそ、「過去を希求する作品」に惹かれたのではないかと思うのだ。

作者(撮影者)の林は「江戸の風景をとどめたい」と思ったのかも知れないが、私がそのいくつかの作品から感じた「過去」は、もっと新しい「昭和」の時代、私の子供時代だったように思う。もはや、私にとっては「昭和」は過去であるばかりではなく、「ここ(現実)ではない、どこか」になっているのである。かつて、そこにいたようで、しかしいなかったかも知れない、そこはそんな「場所」なのだ。そして、できればもう一度、そこに立ってみたい「場所」なのである。

しかし、本書に付された「撮影記」を読むと、本書に収められた作品は、かなり技巧的に「作られた」ものだというのがよくわかる。写真に詳しくない私は、絵画とは違って、写真は「一瞬の風景を切り採る」といったもののように思いこんでいるところがあって、「作り込む」というのは写真創作法としては邪道のように思えるのだが、無論、写真をやっている人には、そうした認識が、写真に対する、門外漢の「信仰」の一種にすぎない、というのは明らかなのだろう。写真とて、いろいろな機材を使うのだから、目の前にあるものを「そのまま」切り採るのではない。そもそも「切り採る」という作業自体が、人工的なものなのだから、写真作品もまた「創作」なのである。

では、私が写真集『東海道』のいくつかの写真に感じた魅力が何だったのかというのも、やはりそれは「たまたま趣味に合った風景だった」ということではなく、林が「過去としての江戸」を意識し、それを構成しようとした「意志の反映」だったと見るべきであろう。
林は、フレームに入ってくる余計なものを排除して、出来るかぎりそのフレームの中で「江戸」を「再現」しようとした。その結果、江戸には興味のない私でも、林の意志という「タイムマシーン」によって「過去の風景」を見せられたのではないだろうか。つまり、小説が描く「風景」と同じで、写真が映す風景もまた「現実の風景」ではなく「写真家の頭の中にある風景」なのである。それは、写真ではあれ「フィクション」なのだ。私たちは、現にそこには無いものを、写真という「フレーム」の中で見せられているのであり、そこに描かれたものは「写真家の頭の中の風景」に他ならない。要は、どこまで「現実の風景」の中から「写真家の意図する(内面の)風景」を引き出せるか、切り出せるか。それが写真というものなのではないかと気づかされた。

したがって、本書の「東海道」とは、あくまでも素材であって、ここに収められているのは「林忠彦の内面」に他ならない。凡庸な結論ではあれ、写真もまた「作者の内面」を表現した「作品」なのである。

初出:2019年10月1日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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