見出し画像

本能寺の変1582 その一因 一、土佐の長宗我部 第147話② 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

その一因 一、土佐の長宗我部 第147話② 

はじめに ←目次 ←その一因 目次 ←一、土佐の長宗我部 ← 
重要 ◎目次 重要 ◎目次小 
重要Point ◎目次 重要Point 通し ◎目次 
テーマ別 目次 テーマ別 通し ◎目次 
→【シリーズ】信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 
見えてきたもの 目次 
*◎=重要ヶ所 P=重要Point ✓=チェック済
*加筆修正 

その一因 一、土佐の長宗我部 第147話②

 【参照】◎第147話②

 【参照】一、土佐の長宗我部
 【参照】その一因 一、土佐の長宗我部 小50①~⑥
 【参照】その一因 一、土佐の長宗我部 小79~80
 【参照】その一因 一、土佐の長宗我部 小82①~②
 【参照】その一因 一、土佐の長宗我部 小132①~③
 【参照】その一因 一、土佐の長宗我部 小146①~③
 【参照】その一因 一、土佐の長宗我部 第147話①

しかし、ここで、状況が変わった。
本願寺が降伏した。
 
天正八年1580。
 これによって、信長に、大きな余裕が生まれた。

  【参照】その一因 一、土佐の長宗我部 第50話②

信長は、四国へ目を向けた。
 元親の拡大政策を抑制。
 すなわち、介入。

信長は、元親に、停戦を命じた。

  【参照】その一因 一、土佐の長宗我部 第50話③
  【参照】その一因 一、土佐の長宗我部 第50話④

信長は、初めから、そのつもりだった。
 
これが戦国時代の常識である。
 状況が変われば、方針も変わる。
 当然のことである。
 ただ、本願寺の降伏が思いの外、早かっただけのこと。

光秀も、これに同じ。
 光秀は、信長の心の内を見通していた。
 それ故、抜擢され、今現在がある。
 すべては、想定の内。
 したがって、信長の方針変更に異論はない。

問題は、元親のこと。
 
難題である。
 直ぐに、とはいくまい。
 承服させるためには、時間がかかるだろう。 

 なれど、当分、戦はない。
 中国への出陣は、まだ、先のこと。

 おそらく、そう、思っていたのではないだろうか。
 この時、光秀には、元親を説得するための時間が十分にあった。

光秀は、元親が承諾すると思っていた。
 
この戦国乱世。
 しかも、元親ほどの人物。
 相手は、織田信長。
 今を時めく天下人。
 本願寺を屈服させた男。
 それに、逆らう者の末路。
 ・・・・・。
 元親に、道理のわからぬ筈がない。
 それが、最善の策。

 光秀が、その様に考えたとしても、おかしくはなかろう。

元親は、こうなることを覚悟していた。
 
元親とて、信長と同じ戦国武将。
 何れは、そうなると思っていた。

 しかし、その時期を読み違えた。
 思いの外、早かった。
 「一生の不覚」 
 是非も無し、である。

元親は、これに反発した。
 阿波の制圧は、目前にあった。

 家臣らの手前も、ある。
 彼らには、これまで、大きな犠牲を強いてきた。
 それ故、おいそれとは、行かぬのである。

元親は、出来るだけ時間を引き延ばそうとした。
 先のことなど、誰にもわからない。
 なれど、応ずれば、全てが終わる。
 二度とない好機。
 手の届くところまで来ていた。
 元親は、諦めきれずにいた。

光秀の説得交渉が始まった。
土佐は、僻遠の地。

 往還・交信等には、かなりの時間を要した。 
 緊迫感等も、その分、希釈されていく。

 なお、天正八年1580と思われる羽柴秀吉宛長宗我部元親書状(「吉田
 文書」)によれば、この時は、書状の到着に、片道だけでも、二ヶ月近く
 かかったようである。
 これについては、後述する。

交渉は、暗礁に乗り上げた。
 
これが、天正九年1581の秋以降 ~ 。

  【参照】その一因 一、土佐の長宗我部 第50話⑤

そして、天正十年1582へ。
一月、光秀は、石谷頼辰を土佐へ派した。
 
結局、これが最後の使者となる。
 光秀は、「吉報」を待った。

二月、信忠、甲斐へ出陣。
三月、信長、同。
〃  光秀、同。
〃  武田滅亡。
四月、信長、安土に帰陣。
〃  光秀、同。

五月、事態急変。
〃 七日 四国出陣命令。
〃 十七日 中国出陣命令。

五月二十九日、
石谷頼辰、未だ帰らず。
 無情なり。
 時は、刻々と流れて行く。
 焦れども、如何ともならず。

光秀は、極限状態に追い込まれていた。
「万事休す」

そこに、信長が、上洛した。

  五月廿九日、信長公、御上洛。
  ( 中略 )
  御小姓衆二、三十人召し列れられ、御上洛。
  直ちに、中国へ御発向なさるべきの間、御陣用意仕り侯て、
  御一左右次第、罷り立つべきの旨、御触れにて、
  今度は、御伴これなし。
                          (『信長公記』)

六月一日、中国出陣の日。



 ⇒ 次へつづく


NEW!!

目次 が更新されました。

 これで、全体像がよくわかる!!
 毎日更新!!
 原因・動機の究明は、この一歩から!!

重要 ◎目次 が更新されました。

 「本能寺の変」
 原因・動機は、この中にあり!!
 ご注目下さい!!

テーマ別 目次 が更新されました。

 視点を変えれば、見える景色も違ってくる!!

見えてきたもの 目次 が更新されました。

 これで、さらに、一歩、近づいた!!
 ご期待ください!!

この記事が参加している募集

#テレビドラマ感想文

21,318件

#日本史がすき

7,157件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?