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本能寺の変1852 その一因 一、土佐の長宗我部 小82①~② 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

その一因 一、土佐の長宗我部 小82①~② 

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→【シリーズ】信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親  
見えてきたもの 目次 
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*加筆修正 

その一因 一、土佐の長宗我部 第82話①  小82①

 長宗我部元親が生まれた。
 
天文八年1539。
 1530年代、最後の年。
  【参照】天正十年1582時の年齢比較。
      明智光秀   大永四年1524±四年の生れ  59±四歳  
      織田信長   天文三年1534生れ     49歳
      羽柴秀吉   天文六年1537生れ     46歳
      長宗我部元親 天文八年1539生れ     44歳
      徳川家康   天文十一年1543生れ    40歳

 元親、四十歳の時。
 天正六年1578。 
 元親は、信長に誼を通じた。

 天正八年1580。
 本願寺が、降伏した。
 信長は、四国問題に介入した。
 信長は、元親に、停戦を命じた。
 光秀の説得交渉が始まった。
 元親、これを承服せず。

 天正九年1581。
 交渉は、暗礁に乗り上げた。

 天正十年1582、正月。
 最後の使者。
 
光秀は、石谷頼辰を土佐へ派した。

 結局、元親は、受け容れた。
 これが、五月二十一日。

 頼辰、未だ、帰還せず。
 これが、五月二十九日。
 「万事休す」

 同日、信長が上洛した。
 これすなわち、信長の油断。

 光秀は、決断した。
 六月一日。
 中国出陣の日。
 光秀は、軍勢の一部を出発させた。

 六月二日未明 、「本能寺の変」。

 ここから、見えて来たもの
 以下、「本能寺の変」の一因となる 。

 ①光秀が斎藤利三を家臣としたこと。
 ②光秀が元親と関わり合いを持ったこと。
 ③元親が領土拡大主義者だったこと。
 ④元親が信長と誼を通じたこと。
 ⑤光秀が元親の取次になったこと。
 ⑥本願寺が降伏し、状況が変わったこと。
 ⑦信長が、四国問題に介入したこと。
 ⑧土佐が僻遠の地だったこと。
 ⑨交渉に時間がかかりすぎたこと。
 ⑩元親の承諾が、遅れたこと。
 ⑪頼辰の帰還が、間に合わなかったこと。

 光秀には、粛清の怖れがあった。
 
信長は、猜疑心が強い。
 光秀は、元親との交渉に失敗した。
 
光秀は、信長に「隙」を与えてしまった。
 その時は、「必ず」来る。
 光秀は、そう、思っていた。

 これが、当時の風潮である。
 
時は、戦国時代。
 光秀は、典型的な戦国武将。
 こちらもまた、猜疑心が強い。
 「隙」=「油断」=「死」
 そう考えるのが、「当然」とされた時代だった。

その一因 一、土佐の長宗我部 第82話②  小82②

 長宗我部氏の先祖について。              「元親記」
 長宗我部氏は、渡来人秦氏の流れを汲む一族とされる。  「元親記」
 長宗我部氏の家紋について。              「元親記」
 家紋は、鳩酢草(カタバミ)である。            「元親記」
 元親は、長宗我部氏の二十一代目という。        「元親記」
 幼少期の元親について。               「土佐物語」



 ⇒ 次へつづく


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 原因・動機の究明は、この一歩から!!

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 「本能寺の変」
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