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本能寺の変1852 その一因 一、土佐の長宗我部 小146①~③ 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

その一因 一、土佐の長宗我部 小146①~③ 

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→【シリーズ】信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親  
見えてきたもの 目次 
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*加筆修正 

その一因 一、土佐の長宗我部

 【参照】その一因 一、土佐の長宗我部 小50①~⑥
 【参照】その一因 一、土佐の長宗我部 小79~80
 【参照】その一因 一、土佐の長宗我部 小82①~②
 【参照】その一因 一、土佐の長宗我部 小132①~③

その一因 一、土佐の長宗我部 第146話① 小146①

 長宗我部元親が石谷光政の女と婚姻した。       「土佐物語」
 永禄六年1563。
 元親、二十五歳の夏。
 元親には、理由があった。              「土佐物語」
 
元親は、上方とのパイプが必要だった。

その一因 一、土佐の長宗我部 第146話② 小146②

 石谷氏について。
 明智氏と同様に、土岐氏の一族である。
 「永禄六年諸役人附」
 ④外様結衆 石谷孫九郎頼辰(よりとき)     「永禄六年諸役人附」
 ⑤御小袖御番衆 石谷兵部大輔光政        「永禄六年諸役人附」
 
父子は、ともに、義輝の家臣だった。
 第15代将軍義昭には、仕えていない。

その一因 一、土佐の長宗我部 第146話③ 小146③

 斎藤氏について。
 
石谷頼辰と斎藤利三について。
 
石谷頼辰と斎藤利三は、血を分けた実の兄弟。
 兄の頼辰は、石谷光政の養子に入り、同氏の家督を引き継いだ。
 弟の利三は、斎藤氏に残り、その名跡を継ぐ。
 元親に嫁した光政の娘は、頼辰・利三兄弟にとって、義理の妹。
 元親は、利三の義弟になった。            「土佐物語」
 利三は、美濃斎藤氏に仕えていた。
 利三は、稲葉良通の娘を妻とした。
 利三は、信長の家臣になった。
 利三は、稲葉良通に属した。
 斎藤利三は、後に、光秀の家臣となる。        「土佐物語」
 このことが、光秀と元親を結びつけることになる。



 ⇒ 次へつづく


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 「本能寺の変」
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