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本能寺の変1582 その一因 一、土佐の長宗我部 第146話① 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

その一因 一、土佐の長宗我部 第146話① 

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→【シリーズ】信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 
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その一因 一、土佐の長宗我部 第146話①

 【参照】◎第146話① 石谷光政の女

 【参照】一、土佐の長宗我部
 【参照】その一因 一、土佐の長宗我部 小50①~⑥
 【参照】その一因 一、土佐の長宗我部 小79~80
 【参照】その一因 一、土佐の長宗我部 小82①~②
 【参照】その一因 一、土佐の長宗我部 小132①~③

長宗我部元親が石谷光政の女と婚姻した。
 永禄六年1563。
 土佐。
 元親、二十五歳の夏。
 幕府奉公衆、石谷光政の娘を娶る。

  
元親、縁辺の事

  永禄六年、夏、
  元親、家老の面々を召し集めて、
  我、既に、廿五歳に及ぶなり、
  妻女を求めばやと思ふは、いかに、と、宣(のたま)へば、

  家老ども、承り、
  是れは、目出度き御思慮、御家門繁昌・下民安泰の候、
  何れをか迎へさせ給はんや、と、申しければ、 

  元親、美濃国、稲葉伊予守*が孫、斎藤豊後守政吉*が息女*を
  娶らばや、と、宣へば、

  家臣ども、驚きたる風情にて、暫く、閉口のところに、
  中島大和、謹んで申しけるは、
  遠国よりの御縁辺、深き御了簡にて候か、
  東国は、申すに及ばず、
  阿・讃・予(阿波・讃岐・伊予)の三国に、
  大名城主、数輩、御入(=居)り候、
  是れをこそ、御縁者になされ、
  自然(=万一)の時は、御方(=味方)に頼ませ給ひ候らふべし、
                          (「土佐物語」)

   *稲葉伊予守   稲葉良通(一鉄)。
   
*斎藤豊後守政吉 石谷頼辰・斎藤利三の父は、伊豆守利賢と
            される。
   *息女      元親の妻は、石谷光政の娘である。

元親には、理由があった。
 
元親の性格・志向・以後の展開等を考慮すれば、おそらく、上方との、
 パイプのようなものが必要だったのだろう。

  近国を閣(さしおか)れ、遠境御縁組は、了(さだめ)て、
  御容色の御事など、聞(きこ)し召し及ばせ給ひての上に候か。
  戦国の時節と申し、遠国とい(言)ひ、
  世上の人口をも、御思惟候へかし、と、申しければ、

  元親、打ち笑ひ、申すところ、理(ことわり)なり、
  さり乍(なが)ら、天神地祇にかけて、
  全く、彼の息女が容色の沙汰を聞き及びたるにあらず、
  色は、兎もあれ、角もあれ、

  祖父伊予守・父豊後守、武名、香ばしき士(さむらい)なれば、
  彼の腹に出生の子、父祖にあやかる事あらんと思ふ計(ばか)りなり、
  昔、和田の義盛、
  (中略)
  唯(ただ)、父祖の武名を慕ふなれば、
  遠国をも、強(こわ)に厭ふべきにあらず、と、宣へば、

  何れも、大きく感歎して、天晴(あっぱれ)、武将の器なり、
  と、上下、挙(こぞ)って称しける、
                          (「土佐物語」)



 ⇒ 次へつづく


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 「本能寺の変」
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