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本能寺の変1852 その一因 一、土佐の長宗我部 小132①~③ 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

その一因 一、土佐の長宗我部 小132①~③ 

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→【シリーズ】信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親  
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その一因 一、土佐の長宗我部 第132話① 小132①

 土佐、長宗我部国親が亡くなった。           「元親記」
 永禄三年1560。
 元親、家督を継ぐ。                  「元親記」
 元親、この時、二十二歳。
 元親の、土佐統一は、ここから始まった。
 永禄三年1560~天正三年1575。
 そして、四国統一へと進展する。
 その過程の中で、光秀との絆が生れる。
 これが、天正六年1578のこと。
 以来、同十年1582までつづく。
 このことが、光秀を窮地へと追い込むことになり、
 六月二日未明、「本能寺の変」へ。

その一因 一、土佐の長宗我部 第132話② 小132②

 この元親を、二人の弟が支えた。            「元親記」
 当時、土佐は、八つの勢力に分裂していた。       「長元記」

 元親は、信長と、同じ、戦国武将。
 
同様の道を歩む。
 二人は、ともに、領土拡大主義者。
 「同じ穴の狢」
 同類である。

 やがて、対立。
 光秀の説得交渉が始まった。
 しかし、交渉は、遅々として進まず。
 暗礁に乗り上げた。

 石谷頼辰、未だ、帰らず。
 「万事休す」

 天正十年六月二日未明、「本能寺の変」へ。

その一因 一、土佐の長宗我部 第132話③ 小132③

 長宗我部元親は、重要人物の一人。
 「本能寺の変」、その一因となった。
 
 香宗我部親泰は、対織田外交の窓口だった。
 天正八年1580。 
 親泰は、元親の使者として、安土を訪ねた。 
 この時、親泰は、光秀に会った。

 天正九年1581。
 元親、承服せず。
 交渉が、難航していた。

 天正十年1582。
 正月 光秀は、石谷頼辰を土佐へ派した。
 二月 信忠、甲斐へ出陣。
 三月 信長、甲斐へ出陣。 
    光秀、同。
 四月 信長、帰陣。
    光秀、同。
    光秀は、苦悩していた。
    光秀の心は、重く沈んでいた。
 五月 事態急変。
    一、四国出陣命令。
    一、中国出陣命令。

    石谷頼辰、未だ、帰らず。

    「足蹴事件」
    

 同二十一日 元親、受諾する。
 同二十九日 石谷頼辰、終に、間に合わず。
 「万事休す」
 同日、信長、上洛。
 信長の油断。

 六月一日 中国出陣の日。
 光秀の決断。 

 同二日未明、「本能寺の変」。


【参照】一、土佐の長宗我部
【参照】その一因 一、土佐の長宗我部 小50①~⑥
【参照】その一因 一、土佐の長宗我部 小79~80
【参照】その一因 一、土佐の長宗我部 小82①~②



 ⇒ 次へつづく


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 「本能寺の変」
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