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本能寺の変1582 その一因 一、土佐の長宗我部 第146話③ 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

その一因 一、土佐の長宗我部 第146話③ 

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→【シリーズ】信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 
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その一因 一、土佐の長宗我部 第146話③

 【参照】◎第146話③ 斎藤氏について

 【参照】一、土佐の長宗我部
 【参照】その一因 一、土佐の長宗我部 小50①~⑥
 【参照】その一因 一、土佐の長宗我部 小79~80
 【参照】その一因 一、土佐の長宗我部 小82①~②
 【参照】その一因 一、土佐の長宗我部 小132①~③
 【参照】その一因 一、土佐の長宗我部 第146話①
 【参照】その一因 一、土佐の長宗我部 第146話②

斎藤氏について。
 斎藤氏については、伊豆守利賢以前の血脈がよく分からない。
 利賢の妻(利三の母)は、蜷川氏の出と云う。
 蜷川氏は、幕府政所代の家である。

石谷頼辰と斎藤利三について。
 
石谷頼辰と斎藤利三は、血を分けた実の兄弟。
 ともに、生年不詳
 兄の頼辰は、石谷光政の養子に入り、同氏の家督を引き継いだ。
 光政の娘(姉の方)と婚姻したという。 
 弟の利三は、斎藤氏に残った。
 その名跡を継ぐ。

 となれば、元親に嫁した光政の娘(妹の方)は、頼辰・利三兄弟にとって、
 義理の妹ということになる。

元親は、利三の義弟になった。
 
したがって、元親は、頼辰・利三兄弟の義弟となり、石谷・斎藤・蜷川氏
 の親戚になった。 

  斯くて、吉田左衛門佐を使者として、濃州へ遣はしければ、
  豊後守も、伊予守も、大いに悦び、許諾あり、
  頓(やが)て、吉日を選び婚礼をなし給ふ、

利三は、美濃斎藤氏に仕えていた。
 
この辺りについては、よくわからない、
 稲葉良通との関係性から、おそらく、そうだと思う。

利三は、稲葉良通の娘を妻とした。
 
後に、生まれるのが、春日局である。

利三は、信長の家臣になった。
 
永禄十年1567。
 美濃斎藤氏の終焉。
 信長は、稲葉山城を奪取し、美濃を統一した。
 この頃だろう。
 利三は、新たな主君、織田信長に仕えた。

利三は、稲葉良通に属した。
 
利三の名は、『信長公記』に、三度、登場する。
 最初は、元亀元年1570。
 この頃は、稲葉良通の与力だったようである。
 しかし、何らかの理由により、これより離脱したらしい。
 そして、天正十年1582、「本能寺の変」。
 この部分に、二度、その名がある。

斎藤利三は、後に、光秀の家臣となる。
 
しかし、その時期については、よくわかっていない。
 天正六年1578、「信」の字、拝領。
 故に、それ以前ということになる。

  政吉、子、三人あり、
  長子は、石谷兵部少輔、
  其の次、斎藤内蔵助政治、後に、利三と改む、
  三は、女子、元親の北の方、是れなり、
                          (「土佐物語」)

 「土佐物語」は、江戸時代の前半頃に出来たとされる軍記物。
 史実との誤認ヶ所が多く、注意して、読むべきである。 
 以上、参考までに用いた。

このことが、光秀と元親を結びつけることになる。



 ⇒ 次へつづく


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 「本能寺の変」
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