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本能寺の変1582 重要 ◎第49話① 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

重要 ◎第49話① 

8光秀の苦悩 1守るべき者 3/3 

はじめに ←目次 ← 
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その一因 
見えてきたもの 目次 
*◎=重要ヶ所 P=重要Point ✓=チェック済 
 47 ◎ 48 ◎ 49 ◎ 
*以下は、重要ヶ所◎のみ抜粋したものです。 
*加筆修正 
【シリーズ】信長の甲斐侵攻 

天正九年1581、ここで、道が二つに分かれた。

以後、二人の距離は、少しづつ、離れていく。

 これすなわち、志向の相違
 光秀は、平穏・安寧を志向。
 信長は、天下統一から、「さらなる夢」へ。

  【参照】4光秀の苦悩 5分かれ道 16   17   18  

信長は、苛烈だった。

 竹生島参詣事件。
 信長は、女房衆を誅殺した。

  【参照】4光秀の苦悩 5分かれ道 16   17   18  

光秀は、風流の人。

 光秀、天橋立に遊ぶ。

 光秀は、戦国武将であり、風雅の道に通じていた。
 文武両道の人だった。

  【参照】4光秀の苦悩 5分かれ道 16   17   18 

実に、好対照な出来事であった。

 たまたま、偶然が重なっただけである。
 しかし、「陰」と「陽」。
 あまりにも、際立つ、その違い。

  【参照】4光秀の苦悩 5分かれ道 16   17   18

だが、やがて、このことが、「本能寺の変」へと繋がっていく。

 天正九年1581 → 天正十年1582
 志向の相違    → 「本能寺の変」 

 これについては、後述する。



 ⇒ 次へつづく


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目次 が更新されました。

 これで、全体像がよくわかる!!
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 原因・動機の究明は、この一歩から!!

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 「本能寺の変」
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