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【自己紹介】白咲夢彩の壮絶な歴史について

私の歴史について

こんにちは、白咲夢彩(しらさきみあ)です。

今回は、私の歴史について綴っていく。

今までの記事を繋ぎ合わせながら、「私という人間がどんな道のりを生きてきたのか」わかりやすくまとめた記事にしようと思う。

私の人生はいろいろあった。もう、いろいろなんて「ひとこと」じゃ表せないくらいマジでいろいろあった。

この記事は結構長くなると思うけれど、興味がある人は最後まで見てほしい。

これでも結構勇気を出してここ数日と合わせて自分のこと記事にしています……(笑)

では、産まれた頃から遡って話していこう。

誕生・幼少期

産まれたのは岡山県。母の里帰り出産で。

しかし、母はそのまま産後うつになりほとんど母方の祖父母に面倒を見て貰うことになる。父は研究者でほとんど家におらず、私が産まれた瞬間なんかアメリカでステーキを食ってたとか。

もちろんふたりとも良い人なんだけれど、この頃から家庭はちょっと傾き始めてたと思う。

そんなこんなで私は超、やさぐれる。構ってほしさがやばくておかしな行動ばかりするようになる。

とにかく「変なことをするのが好き」だった。悪さやいたずらなど好きなだけした。弟が生まれても弟にいたずらをし続けた。

もう、この頃から「発達障害」は出ていたと思う。大人になってから気が付いたけれど、小さい頃を思い返せば、地べたに永遠に突っ伏して泣いてわめいて置いて帰られてそのまま寝ることが大きくなってもいっても続いた。

母は超、困っていたと思う。

小学校時代

小学校でも「変わった子」は継続される。とにかく勉強をせず遊びまくった。遊びまくったって言っても友人と遊ぶというよりは「変なこと」をした。

友達の靴をかくしたり、トイレにトイレットペーパーを散乱させたり、とにかく「絶対怒られるだろ」ってことを学校でも構ってほしさにやりまくった。

気が付けば高学年になっていじめられていた。

でも今思うと当たり前である。

だって、人の靴隠すようなことして、好かれるわけないじゃん!!

悪いことも悪いと認識せず、構ってほしさにたくさん色んな事をしてしまったもんだから、周りから人は離れて友達はいなくなった。決してゼロではなかったが、それでも寂しさを感じるようになった。

中学時代

中学校時代になると、とにかく部活と勉強をした。

以前書いた記事にもある様に「暗記」が得意なことによって、勉強の才能が開花。テストで満点を取るようになる。

しかし、勉強はかなりのめり込みすぎたと思う。朝から夜中、から朝までやっていた。飯も食わずに。そんなんだから、心と体を壊しやすくもなったんだと思う。

また、部活動は運動部に入りたくなかったのに、「運動部しか入らせない」学校だったので、ラケットが軽くて楽そうな「卓球部」に入る。2年生が在籍しておらず、人数も少なくて楽そうだと思ったのにここでかなりの新入部員が入る。

そして、私は何故か「しっかりしている」と見られてしまい、1年生の時に部長に任命されてしまう。先輩方は引退すればもう私たちだけだったので、勝手に気が付けば部長にさせられていた。

しかも、卓球部は関東大会を目指すような超ハードな部活で、朝から晩まで休日は卓球、平日も朝と夕方に卓球。夜はひたすら勉強するという日常になりさらに私は疲弊。顧問の先生には毎日怒られて涙を流すことばかりだった。

勉強はできたので進学校に合格するが、卒業するころにはかなり病んでいて、クラスメイトに酷いことばかりを言うようになる。もうこの頃からちょっと統合失調症の前兆は出ていたと思う。

高校時代

高校生になると入学初日から挫折する。

さっきの「暗記」の記事にも書いたように、高校の勉強のレベルが高すぎて暗記だけじゃやっていけなくなるのと、もうこの頃には統合失調症の自分が酷くなりすぎて「周りは常に敵」となった。

結局不登校になり、その年の冬に通信制高校に転校する。ただ、そもそもが進学校はかなりレベルの高い学校で、赤点多かったけれど点数は取れている教科もあったので、転校した時にはたくさん単位が貰えた。

しかし、通信制高校へ通うのは体力的にやっととなってしまう。ほとんどが寝たきりの日々になってしまったからだ。

レポートという課題を家でやって月2回学校へ登校すれば、卒業が目指せる学校だったので、問題はなかったけれどそれでも体が重くて辛かった。

もちろん、卒業できたし、先生達にも恵まれたと思う。楽しかった気持ちも残っているし。

ただ、この頃ショックだったのが卒業するころには母親はいなくなり、父親だけになってしまったこと。両親が離婚したのである。

母なりに頑張ってはいたんだろうけれど、上手くいかなくて毎日泣き叫ぶ私に耐えられなかったり、家事が上手くできなくて自信を無くしたのか、突然出て行ったきり帰ってこなくなった。

私はそこで「捨てられた」と思った。

でも母のことを全ては恨めず、ずっと好きでいる。

そして、大学へ行くことを夢見ていた自分には「もうなにもなくなった」と絶望もした。

一応この記事で過去の気持ちは書いているので良ければ見て欲しい。

高校卒業後

高校卒業後は、とにかく寝たきり。

進路も決めることができないし、何もできない状況だった。先のことを深く難しく考えすぎた結果、統合失調症だけでなく、軽くうつの症状も出てきてしまったからだ。

でも、私の父が一生懸命向き合ってくれたおかげでだいぶ回復する。父と海に行ったり、映画に行ったり、たくさんいろんなところへ行って「外は楽しい」ことを認識するようになる。

また、「野球」というワクワクするスポーツと出会ったことで、私の人生は大きく変わることになる。突然飛び出した外の世界の景色は今でも忘れることはない。

気が付けば働きたいと思えるようになった。

詳しくは私が執筆した上記の記事2つを見てみて欲しい。きっとその頃の私の心情がよく分かると思う。

リハビリ時代

私は「引きこもりは野球場で宝石を見た」の記事に書いた通り、友達と出会ったことから「働く」決意をする。

ただ、アルバイトができるようになるまではとても時間がかかった。まずは、リハビリとして体力を付ける為に「散歩」、エネルギーを蓄える為に「食事」、休むための「睡眠」を徹底した。

私は体力もなく、やせ細っていて、規則正しい生活を送ることが出来ていなかったからだ。

そして、そのリハビリの後はデイケアプログラムに通うようになる。

そこで私を大きく支えてくれる人たちに出会った。是非、以下の記事を見て欲しい。

デイケアプログラムでリハビリをし、人とある程度会話できるようになったり、関われるようになった後は、B型就労支援施設でしばらく働くためのトレーニングをした。

最初は上手く通えない日もあったけれど、次第に毎日通えるようになり、「アルバイトができる」までに到達する。

アルバイト時代

初めてのアルバイトを始めた私は、先ほどの「引きこもりは野球場で宝石を見た」にある通り、友達にも再会できるようになるし、野球場に通えるようにもなる。

お金を貰えるようになったからこそ、遊びに行けるようにもなったし、友達と全国の球場へ行けるようにもなった。全国の球場では色んな人と出会い、「私にも友達ができるんだ」と喜んだ。それが嬉しくて仕事をますます頑張れた。

アルバイトはというと始めは1日4時間からやっていた。主な仕事は郵便物の仕分け。ルール通りに仕分けるだけなので簡単だった。

また、慣れてきたら業務量に応じてPCでの入力作業も手伝うようになり、「私って案外パソコンできるかも?」と思えるようになって、「専門学校でいっぱい資格を取って正社員就職したいな!」と考えるようにもなる。

しかし、元気が出てきて周りに恵まれて調子に乗りすぎた私は、人を傷つけてしまうことをする。自分のしたことにものすごく責任を感じて落ち込む。

そこで少し友達が減って、元気がなくなった。

上記がこの頃に重なる記事。是非見て知って欲しい。

専門学校時代

専門学校に進学し、一人暮らしを始める。

この頃には統合失調症の病状が超よくなり、周りのことなんて全然気にすることはなかった。

それだけ周りの人に恵まれたし、アルバイト、デイケアや作業所でいろんな考え方のトレーニングに取り組んだのもあると思う。あと、一人暮らしが自由で楽しすぎてワクワクしすぎて……とにかく細かいことなんでどうでもよくなれた。

この頃には上記の記事のように、アルバイト時代と同様野球観戦に没頭する。

ここでも新たな出会いがたくさんあり、「人と触れ合う楽しさ」を学ぶ。しかし、友達を作りすぎて100人なんか超えた時、私は付き合いが多すぎていっぱいいっぱいになって混乱もする。

そして、友達が多くなればなるほど「友達って何か?」について考え出す。

また世の中には「否定してくる人もいる」ことを学ぶ。

そして、「大人になって気がついた「暗記だけ」で生きていた私の話」にあるように「暗記」で20個くらい一気に資格を取ってしまう。そして、金融系の資格が多いことから「銀行」に内定を貰う。

なんと、卒業式では全校生徒が何百人もいる中で「生徒優秀賞」みたいなのを受賞し、壇上で表彰があった。朝早くから準備し、リハーサルなどもして別枠で卒業式に挑んだので超緊張したのを覚えている。

アルバイトは「野球場」と「学童保育」をする。野球場ではチケットもぎりとか審判のタオルの洗濯とか、選手の更衣室の掃除とか簡単な仕事をして、学童保育では子供ととにかく遊んだ。

学生の学童保育の仕事はほとんどが子供相手に遊ぶことだった。それが超楽しかった。

上記は働きながら感じたことを記事にして書いてもいるので読んで欲しい。

また、この頃には「世の中は優しい人ばかり」という考え方になる。昔は人が怖くて被害妄想も多く辛かったが、「事実を見る」ようにしたり、「責められていない」ことを理解して前に進めるようになる。

そんな自分だったからか、専門学校の他学科の人と恋に落ち付き合うことになる。その人が今の旦那様だ。

専門学校では色んな人と触れ合えるようになり、いろんなことを勉強させていただいた。出会ったみんなに感謝感謝である。

新卒・転職時代

しかし、新社会人の生活は長くは続かなかった。

「大人になって気がついた「暗記だけ」で生きていた私の話」に書いてある様に、「応用」ができずすぐに苦戦することになる。

また、「統合失調症の私にも何も気にしない楽な時期があった」の記事にある様に正直すぎることでも問題が発生する。

あと、手取りの低さから転職を考えるようにもなる。

私にとって、新卒の頃は苦しいことだらけで上手くいかなかったが、案外転職活動が資格の多さからか上手くいく。

そして、転職し仕事に慣れて元気になった頃には、超アクティブになり、ハーフマラソンを完走するようにもなる。

ランニング通勤までするほど走ることに異常にハマる。

ただ、この頃、落ち着いた生活だったかというとそういう訳ではなく、異変が起き始める。そして、今の自分と会社に相違ができはじめていたことに気が付く。

「大人になって気がついた「暗記だけ」で生きていた私の話」にもあるが、自分の発達特性からどの仕事も長くは続かず、やっては辞めてを繰り返す。

繰り返しているうちに、本当のことを伝える勇気がどんどんなくなり、「嘘をついてまで辞める」ようになる。そして、ムキになって旅に出ることが増える。

また、旦那と同棲し始めてからは毎日対話することにより、「自分が発達障害なんじゃないか?」と気が付いてくる。

友人にも周りに振り回されて混乱した姿の自分を心配されて「自分で決める」ということを教えられる。

転職を繰り返しながらも、「働くコツ」を見に付けて「仕事をする上での空気作り」を大事にできるようになる。

この頃には何度も何度も仕事を辞めては始めるわけだが、結局得意なことを伸ばせばいいのでは?と考えて、「執筆」で生きるようになる。

結婚・フリーランス時代

こんな記事を書いて、私はフリーランス時代に突入をする。

最後に長く働いたシステム系の会社を辞めて、やりたいことをやる日々に没頭する。また、旦那とも結婚しゆったりとした生活に切り替わる。

しかし自分の発達特性と統合失調症から寝たきりの日々がぶり返す。

それでも、ありのままの生き方でいいやと受け入れて、今は楽しく生活をしている。今の毎日の暮らしはと言うと、こんな記事を書いているので是非見て欲しい。

また、10年間喧嘩ばかりしていた母親と向き合うことに成功する。母は認められたくてずっと頑張ってきたらしい。私もそんな母を認めてあげることにしたのだ。

上記の記事で母について綴っているので、良ければ見て欲しい。

大人になってからは自分は無理をして無理をして、「社会生活に一生懸命溶け込もう」としていたことに気が付いた。

だからこそ、これからは自分のことをもっと受け止めて理解してあげて、自分のペースで生きることを忘れないようにしようと思っている。

最後に

私の今の夢は「自分のエッセイ」を「紙の本」で出すことです。

こんな私の歴史を本にして下さる出版者様がいましたら、是非声を掛けて頂けたら嬉しいです。喜びます!!

もし、興味があればよろしくお願いいたします!!

▽大切に生きるをテーマに執筆中▽

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