#noteでよかったこと
つなぐnote、つながる世界。《だいすーけさん》
その日もわたしは密を避けて、ひとりで遅い昼休憩をとっていた。noteアプリをあけた瞬間、ポップアップが目に飛び込んできて、ドキッとする。
「あなたの記事が話題です!」
この通知は、いつ見ても本当にうれしい。似たようなポップアップの「特にスキを集めた記事です」も もちろんうれしいけれど、全然違う うれしさです。
それは「スキ」以上にコメントがうれしいのと、同じかもしれません。誰かがわたしの書
「はじめまして」じゃないけれど、笑顔で言うよ、「はじめまして」。
お店に会いに来てくれた人がいました。
「作品ができたので、届けに行っていいですか?」
写真家の斉藤千陽さん。そう、Muse杯でも一緒に運営スタッフとして活躍してくれた、あの千ちゃんです。千陽さんは、写真家として生きるために一度noteから離れることを決断しました。彼女の中にいろいろな想いがあったのだと思います。本当はここで会えなくなることは淋しかったけれど、千陽さんのことばに醸された凛とした美
たまにはお金の話もしようかな【エッセイ】
さきほど集計したところ7万5千円だった。
これは私がこの1年間にnote上の記事に金銭支援したお金の総額である。
「この文章は良い」と思えば大体迷わずサポートボタンを押している。
300円だとか500円だとかをサポートしていることが多いので、単純計算でこの1年間に180~190記事にちょっとした心づけをしたことになる。
小銭とはいえこうして集計するとバカにできない金額になってくるので驚きである
結局文章は世間に出したらもう読み手のものだけど、仲さんに解説してもらったからちょっと私も解説しちゃおうかしら
先日、 note &ツイッタ仲間の仲さんがこんな noteを書いてくれました。
すごい。記事の中身、まるまるクニnoteについて書いてあります。ココまで解説&分析できるほど読んでもらえるなんて、幸せです。
元のクニnoteはこちらです。
仲さんの今回のnoteの発端は、おそらくこのツイート。
上記のアイスキャンディー記事のシェアをしてくれたのですが、固いよねえ表現。事象と視点が入り混じる
君の心はその手に宿っている
それを探り、形にするまでにどれだけのものを抱え込んできたのだろう。
あるいは吐き出してきたのだろう。
遠ければ、それは憧れとして咲き誇り
近ければ、それは嫉妬として蝕まれる。
覚束ない声色と、少し震えた手。
決して綺羅びやかな光を纏っているわけではない。
傍から見ればあるいは輝かしいのかもしれない。
けれども僕には酷く弱々しいものに見える。
そしてその光が解き放たれないように、
他の光に飲み
わたしはわたしをこわしたい
話は学生時代に遡ります。
部活仲間と昼食をとっていたときのことです。
学生食堂の長テーブルで向かいあう先輩が棘を含んだ口調で言いました。
「マリナさんってさぁ、貴族みたいに食べるよね。」
彼女が常日頃から切り捨てるように他人を評する人であることは知っていました。よってそのトゲトゲしい言葉に傷つきはしなかったものの我が身を振り返って「ほんまにその通りやなぁ。」と私は深く頷いたのでした。
たしかに
言葉にならない感謝と、沢山の愛をこめて。 ♯noハン会2nd
2019年12月8日日曜日。noハン会2ndは、都内で開催された。今日で終了してから3日になる。ふとした時に、寂しさがわたしを襲う。その理由は明らかだ。
あの日、あの場所で、沢山の人と沢山の笑顔と奇跡に出会い、Twitterを開けば「♯noハン会」でこぼれ話があり、noteを開けば「♯noハン会2nd」でレポが書かれていて、それを目にするたびに、あれは夢ではなかったんだと実感する。そしてそこからの
おかえり/あとがき ~大好きなあなたへ~
私がここnoteへ自分のことばを綴り始めたのが、今年の6月のこと。
そのひとに出逢ったのは、ここへ来てまもなくのことだった。
広い広いnoteの世界で、そのひとの書いたものがたりが、ぽつりと浜辺に立つ灯台のように、私を呼ぶように、そこで明々と光っていた。
まだコメントを書くなんて思いつきもせず、ただただそのものがたりに衝撃を受けて、そしてなぜか強烈に感じるシンパシーに私は戸惑っていた。
ど
短編小説「ゆなさん」 あとがき
前回掲載した作品『ゆなさん』をお読みいただきました皆さま、本当にありがとうございました。
また現在、体調面からコメントやり取りを控えているのですが、それにも関わらずお言葉を寄せてくださった方々にも、心より御礼申し上げます。
ふだん作品のあとがきは書かないのですが(単に面倒臭がりなだけなんですが)、この作品については少しだけ書かせていただきます。
この作品を書きはじめた時、主人公の女性
わたしたちがしていることは 全て"ハンドメイド"に帰結されるのか 【不器用な寂寥と暈し染め】
人生は消耗される、常に。
ここで生きているわたしはここからまた、先へ落ちる。腐った果物を手で握りつぶした感触を、あなたならどう表現するだろうか。自分の部屋に現れた小さな虫を、殺さずに窓から逃がすその行為に酔ってはいないだろうか。生活で試されているわたしたちが、大衆の目に直接的に触れることなどない。ただそれでも根底にある濃い黒を溶かすのに必死なのである。
約束した覚えはない。
ただ、後ろから崖が
呼吸する、そして100日目のわたしは
手に入れたかった。
自分の持っていないものがほしかった。周りの人が持っているものがただただ羨ましい。ひとりが持っていれば、それはみんなが持っているものになって。わたしだけが持っている何かはいつまでも見つからない。
痛みは時間でなくなっているわけではない。
擦りむいた傷も、削れた心も、それを治しているのはいつだって自分自身の力だった。それなのに、自分の努力を自分で褒めるのはそう簡単なことではない
100日連続更新しました
今日、noteの連続更新100日目を迎えました。
散らかりがちな頭の中にある思考や感情を、書き出してすっきりさせようという目的で書き始めました。誰に何も言わず、ひっそりと静かに。
今まで、どんなブログサービスを使っても3日坊主で終わっていたのに、なんで続いているのか? 今日はその理由を考えてみます。
noteには、書くことが楽しみになる仕組みがたくさんあります。連続更新をすると褒めてもら
ごく普通の会社員が365日noteを書き続けたらどうなったか
noteの毎日更新を始めてから、今日でとうとう365日です。シンプルに、うれしい!
でもね、厳密に言えば、始めのころは24時間以内に更新していたわけではありませんでした。最初の2か月くらいは、自分が起きてるあいだに1投稿できればOKというルールでやってました(今は24時間以内に書いてます。なぜならnoteからの〇日連続更新おめでとうメッセージが嬉しいから)。
1度だけですが、起きてるうちの投稿