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【読書感想文】ただしさに殺されないために~声なき者への社会論~御田寺圭(白饅頭)|⑧親ガチャ編|


「ただしさに殺されないために~声なき者への社会論~」。

私はこちらの本を、著者ご本人から、無料でプレゼントしていただいた。

「ただしさに殺されないために」、略して”ただころ”とは、連日のように事実それ以上陳列いけない案件を犯し、さらには白饅頭フォロー罪、白饅頭RT罪、白饅頭購読罪などを犯す罪人を世に放ち続ける、白饅頭尊師の著書である。

ちなみに私も、フォロー罪とRT罪、購読罪を犯している。

本書の帯には、このように書かれている。

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社会を引き裂く事件の背後に何があるのか。

ただしさと承認をめぐる闘争が日常と化したSNS時代に宿る<狂気>を解き明かす。

多様性の名のもとに排除し、自由、平等を謳って差別する

美しい社会の闇の底へー-


言葉を奪われた人びとの声なき叫びを記す30篇

本書は人のやさしさや愛情が社会に落とす暗い影の記録である。

私たちは、自分の中にある「悪」にまるで気づかなくても自覚的にならなくても生きていける。そんな平和で安全で快適な社会で暮らしている。自分たちが狭量で排他的な人間であることから、ずっと目を逸らしていける、配慮のゆきとどいた社会に生きている。

ひとりひとりが抱える心の傷と痛み
だれもが内に宿しているちいさな差別心…
世界が複雑であることへの葛藤を手放し
だれかを裁くわかりやすい物語に吞み込まれた
感情社会を否定する  

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まるで、「フェミニスト」や「リベラル」、「人権活動家」などが闊歩かっぽする「インターネット世論」に、中指を立てるかのような紹介文だ。

このような暗黒の書籍を読んでしまって、本当によいのだろうか。

世間の「ただしさ」に迎合してそれらしく振る舞っていた方が、楽に生きられるのではないだろうか。

そんな考えが頭をよぎる。

しかしだ。

「ただしさ」に迎合したとして、それが本当に世界を明るくするのだろうか。

私の考えは否だ。

よって私は、「ただころ読破罪」へと歩みを進めた  

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「ただころ」は、序章・終章を含む全7章、30節によって構成されている。

本来であれば全章について詳細に語っていきたいところであるが、有料の書籍であるからそういうわけにもいかない。

そこで、少しだけを抜き出して語っていきたいと思う。

(注)「引用箇所(出典あり)」以外の記述はすべて私見であり、御田寺圭氏の思想とは何ら関係がないことをここに明記しておく。

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2021年、ネットの一部で数年前から使われていた「親ガチャ」という、見るからに不穏な響きをたたえたワードがテレビで紹介され、あっという間に実社会に広まった。

ただしさに殺されないために~声なき者への社会論
第 4 章|平等なき社会|1|親ガチャより

「親ガチャ」とは、自分の両親や生まれた家庭環境は自分の意思では選べず、選択の余地のない両親や家庭環境による人生への重大な影響が、いうなれば完全な運任せであることを、景品のランダム排出システムの別称「ガチャ」になぞらえたスラングである。

ただしさに殺されないために~声なき者への社会論
第 4 章|平等なき社会|1|親ガチャより

本記事は紛れもなく ’’ただころ’’ シリーズのひとつであるが、今回は「読書感想文」というよりも、「國神貴哉の『親ガチャ』に対する考え方」といった内容になっていることを、ここで断っておく。

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私は、「親ガチャ」は確実に存在すると考えている。


私は、3歳下の妹に障害がある、いわゆる ’’特殊’’ な家庭に生まれた

そのことについては、「ガチャを外した」とは考えていない。

しかし、物心ついた頃からの父親の態度  いわゆる ’’モラハラ’’ や ’’精神的虐待’’ に該当すると思う  、家事育児に対する無関心  健常児家庭なら問題ないかもしれないが、障害児を育てる家庭ではそうもいかない  などにより、母親は長年うつ状態にあり、私も高校1年生で壊れてしまった。

おかげで高校を中退することになり、多くを奪われる結果となった。

自殺未遂もした。

首を吊った。

苦しかった。

家に帰るのが憂鬱だった。

受験期のころは、塾が早く閉まる日は、親に黙って友だちと遊びに行っていた。

家庭崩壊寸前だった。

あの時、私が壊れなければ、母か妹が壊れていたように思う。

そんな家庭で育った。

私は、「親ガチャを外した人間」だ。


もちろん、学校には通わせてもらっていたし、水泳、野球、そろばん、ピアノ、塾など、さまざまな習い事もさせてもらった。

決して裕福な家庭ではなかったが、最低限、活動ができる程度の野球道具も買ってもらっていた。

恵まれていた、と言われれば否定はできない。

が、私は「愛」が欲しかった。

母は、障害のある妹に時間を割いていた。

これは仕方のないことだ。

障害児を育てるには、健常児を育てる倍以上の労力がかかる。

そのおかげか、愛する妹はスクスクと育ってくれた。

心臓が悪く、いつ死ぬかわからないと言われていた妹が、今や17歳だ。

しかし、父親はどうだ。

「男の仕事は金を稼いでくることだ」と言われる。

その通りだ。

子どもが健常な家庭であれば、家庭内に男の仕事などほとんど存在しない。

「旦那元気で留守がいい」とはよく言ったものだ。

ただし、それは「健常児を育てる家庭」に限った話である。


障害者を育てる家庭では、わけが違う。

さらに、うちの父親は他人の気持ちをおもんぱかることがなく、壊れていく母を自分の都合で怒鳴りつけ、家事育児には無関心、私や妹にも無理難題を押しつけ、思い通りにいかなければ理不尽に怒鳴りつける毎日だった。

物心ついてからずっと。

金なんていらなかった。

たとえもっと貧乏な家庭であっても、習い事ができなくても、学校行事に参加する余裕がなくても、それでもいいから ’’愛’’ が欲しかった。

外で頑張ってきた子どもとして、’’安心して休める家’’ が欲しかった。


私には、「親の愛」の記憶がない。

そのおかげか、自分の「愛情」に関わる部分は歪んでいると感じる。

つらかった。

愛情が欲しかった。

支援が欲しかった。

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私は、「支援が必要なレベル」を、「親ガチャを外した状態」であると考えている。

私の場合は、自殺未遂をしている  命を失う可能性があった  ので、支援が必要だったのだと思う。

他にも、物理的な虐待や、社会生活を営むことが困難なほどの貧困など、支援を必要とする家庭はまだまだ存在する。

これを「親ガチャを外した状態」であると考えているのだ。

「欲しいものを買ってもらえない」とか、「私学に行かせてもらえない」などは、’’親ガチャを外した’’ ではない。


私も周囲に比べて買ってもらえるものが少なかった  野球の手袋などは自分で補修して使っていた  し、高校・大学は国公立のみと言われてきた。

その点については、「親ガチャを外した」などとは微塵も思っていない。

よくある話だ。

しかし、’’支援’’ を受けなければ命・精神が危ない子たちは、「親ガチャを外している」と思う。


この中で、もっとも「発見が難しい」のは、精神的な問題を抱える子たちだろう。

身体的虐待や貧困などとは異なり、’’外から見てわからない’’ のだから。

私もこのタイプだったわけだが、気づいて手を差し伸べてくれた大人はいなかった。

それもそのはずだ。

私が必死に隠していたのだから。

「世間体が悪くなる」、「お母さんに迷惑がかかる」、「軟弱者だと思われる」、「恥ずかしい」、「どうやって頼ればいいのかわからない」  

そのような考えから、「妹に障害があっても頑張っているお兄ちゃん」として生きていた。

小学生のころに一度、「理想の親の愛」をつづった詩を書いたことがあり、なにかの賞をいただいたか、なにかに掲載されたかしたことがある。

当時の私にとって、精一杯のSOSだった。

その詩は、多くの目に触れることとなった。

だれか気づいてくれないだろうか  

そう願った。

しかし、周囲の大人の反応は、「お父さんとお母さんに愛されていることがよくわかるね」だったのだ。


思えば、そのときに ’’支援’’ を諦めたのかもしれない。

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私のような子どもは、とにかく全力で ’’隠す’’ のである。

しかし、その一方で、SOSサインを出していることが往々にしてある。

なぜならば、「自分からは言いたくないし、隠していたいが、心の奥では、’’気づいて、踏み込んで助けてほしい’’ と願っている」からだ。


私は他の子どものこのサインに気づくのだが、多くの人間には気づくことができないらしい。

そこにはやはり、「経験してきたか否か」が存在するのだろう。

私は、自身の関わる子たちにそのようなサインを出す子がいたなら、なんとしてでも支えてやりたいと思う。

とはいえ、それを専門にする職に就こうとは思えない。

きっと自分が潰れてしまうからだ。

同じように考える同類も多くいることと思う。

ここが難しいところなんだな、この問題の。

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「親ガチャだ?親からすれば『子ガチャ』だ!」と主張する者がいる。

ふざけた主張だ。

親は、「ガチャを回している」のである。

’’子どもが欲しい’’ と男女の行為に及んだ者、不妊治療に励んだ者、「エッチキモチイ♪」と後先を考えなかった者、いずれにしても、「子を授かる可能性のある行為に及ぶ」というガチャを回している。


対して、子どもはガチャを回していないのだ。

「親 ’’ガチャ’’ 」という名称であるために、「親ガチャ=ガチャガチャ」と考えられやすいのだが、そうではない。

ガチャガチャは自分の意思で回しているのに対し、子どもは一度たりともガチャを回していないのだ。

どこの子どもが、「自分を産んでくれ」と頼んだだろうか。

親が勝手に子を望み、勝手にこの世に産み落とされたのである。


「親と子」には、ここに決定的な違いがある。

このように言うと、「だったら死ねばいい」と言う人間が現れる。

脳みそをママの子宮に置いてきてしまったのだろうか。

「そもそも存在しない」と、「生まれてから死ぬ」の違いがわからないのだろうか。

例えるならば、「スマホを持っていない、存在すら知らない子ども」と、「持っていたスマホを取り上げられた子ども」の違いといったところだろう。

スケールはまったく異なるが、これに近いものがある。

「命をこの世に産み落とす」という決断をした以上、「親」には、「子どもを最善の環境で育てる義務」があるのではないだろうか。

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「親ガチャ」は、明確に存在する。

しかし、大の大人が「親ガチャを外したから」と言って腐り続けることもまた、それは違うのではないかと思う。


成人18歳を迎えた者の人生は、すべてが自己責任である。

子どものうちは、ケツを拭いてくれる人間  親や先生など  が存在したかもしれない(といっても、彼らが拭いてくれるのは ’’社会的責任’’ についてであって、’’人生’’ についてではないのだが)。

親ガチャに恵まれた者、恵まれなかった者、社会的強者として生まれた者、弱者として生まれた者……

スタートラインに凹凸はあれど、すべての人間はそこから生きていくしかない。

親ガチャを外したことを悔み続け、恨み続け、呪い続けたとして、なにが変わるだろうか。

なにも変わらない。

ただ時間が過ぎていくだけだ。

他の者が懸命に努力をして前へ進む中、己だけが、「親への恨み」でできた沼に沈んでいくだけだ。


それでいいのか。

親がなんだ、周りがなんだ、環境がなんだ。

だれかが人生を変えてくれるのか。

白馬の王子様がキスをしてくれるのか。

否。

だれも貴様の人生を変えてくれなどしない。

人生を変えられるのは己のみだ。


不幸な幼少期を過ごしたかもしれない。

一生、消えない傷を負ったかもしれない。

それでも、割り切るしか、切り替えるしかないのである。

難しいことかもしれない。

いや、確実に難しいことだろう。

しかし、それが現実なのだ。

現実は非情だ。

他者への恨みつらみを吐き続けていても、だれも助けてはくれない。

前を向こう。

ボクたちには、自分の人生を生きる責任がある。


生きていこう、変えていこう、このクソッたれな世の中を。

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冒頭にも述べたが、"ただころ感想文"については、"ただころシリーズ"としていくつかの記事に分割して公開しようと思う。

読書感想文を書きながら"ただころ"を読み進めていたところ、半分ほどしか読んでいない段階で、文字数が10,000字を超えてしまったからだ。

ひとつ言えることは、「ただしさに殺されないために」は近年まれにみる良書である、といはことだ。

ページをめくる手が止まらない。

2,200円と、書籍としては若干値の張る代物だが、金額以上の価値は十二分にあるだろう。

ぜひ、1冊。可能であれば、ご家族やご友人にも1冊と、お手にとっていただきたいと思う。

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