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世の中に上位互換が溢れている、SNS時代の私達はどう生きれば良いのか

写真: レモンラーメン

「誰ひとり きみの代わりは いないけど 上位互換が 出回っている」

「誰ひとり きみの代わりは いないけど 上位互換が 出回っている」

宇野なずきさんが作ったこの短歌に、私はすごく惹かれる。

SNSでこころを病む理由は、上位互換に押しつぶされてしまうからではない

SNSをやっていると、こころがすさんでくる。

思いやり、優しさ、人道主義、利他主義、多文化共生、異文化理解、隣人愛…。

そういったものを忘れて、ただ議論に勝てるようにきつい言葉を使い、ただ目の前のひとに「すごい」と思われるように脚色した世界を話し、ただアカウントが凍結されない程度にとがったことを言ってインプレッションを稼ぐように、となってきている。

SNSというのは、上位互換が溢れていて病んでしまう場所ではある。ただ、それが主に人々が病む理由ではない気がしている。

SNSで怖いのは「埋もれてしまう恐怖」

私がSNSがひとをひとでなくしてしまうと感じているのは、埋もれてしまうという恐怖から、人々の行動が変わってしまうということだ。

SNSでは、とくにTwitterがインプレッションを収益化するようになってから、埋もれてしまうということが最悪の行為であるようになってきている。

情報社会になって、Twitterを見ていると、たくさんの項目が並んでいる。

情報の量は、情報社会になって格段に増えた

誰かがなにかを常に発信している時代になった。

今日、こんな美味しいものを食べた。

今日、彼氏とお出掛けした。

今日、愛する人と結婚した。

今日、日本を発って憧れの土地に留学する。

今日、就職した。

そういったどこかの誰かの日常が、絶えずタイムラインに流れてくる。

TwitterもInstagramもFacebookもTiktokも全部そうだ。

埋もれてしまうと、そのひとの存在はなかったことになる

とくに単によく知っているお友達と仲良くするためではなく、情報発信を目的としてSNSをしている場合、情報発信したものが埋もれるということは、社会的な死を意味する。

それだから、情報を多少過激なものにして、埋もれないように頑張ろうとする。それにSNSがすさんだ社会になる原因がある。

汚い言葉、きつい言葉、炎上するようなことをするひとは、埋もれることを誰より恐れている

汚い言葉、きつい言葉、炎上するようなことをするひとは、埋もれることを誰より恐れていると私は思う。

だからこそそんな過激な手段に出るのだろう。

「アメリカの大学が最適な環境である理由」といった投稿より、「日本の大学はオワコン! 優秀なひとは全員アメリカに行くべき」といった投稿のほうが良しとされる風潮がある。

前者は単にタイムラインの中で埋もれてしまうが、後者は炎上しやすいし、一部のコアなファンには刺さる投稿になっている。

「日本には良いところも悪いところもあると海外に行ってわかった」という投稿より、「日本は外国人がうらやむ地上の楽園」といった投稿、あるいは「日本は北朝鮮以下の自由しかない、1年後に破滅する国」といった投稿のほうが、埋もれなくて済む。

たとえ99人から「お前何言ってんの、アホか?」と嘲笑されても

そして、たとえ99人から「お前何言ってんの、アホか?」と嘲笑されても、たったひとりが「せやねん、日本ってほんま最高の国やわ」とか「日本なんてさっさと出たほうがええなあ」と刺さってくれれば、SNSでは埋もれなくて済む。

しかし、埋もれてしまわないために過激な言葉や主張をするというのがSNSマーケティングやSNSブランディングの常識になってしまうと、社会はひどくすさんだものになってしまう。

なぜなら、平和な環境ではなくなるからだ。

議論は相手を打ち負かし、自分の優位性を示すだけのものになる。

上位互換が溢れるSNS

そして、上位互換の話に戻そう。

SNSでは、自分より「優れている」ひとがたくさんいる。

たとえば、私が「負けたなあ」と思うひとや、「すごいなあ」と思うひとはたくさんいる。

たとえば、私よりも海外経験が豊かで、海外事情に詳しいひと。

たとえば、私よりもいろいろな国のことばや言語学のいろいろなことを知っているひと。

たとえば、自分のコンテンツで生計を立てることができているYouTuberなどのひと。

たとえば、起業して自分にしかできない事業をつくり、それを維持しているひと。

たとえば、自分のためではなく赤の他人のために頑張って国際協力やボランティアをしているひと。

SNSでは、自分が世界一にならないと埋もれてしまう

SNSで埋もれなくて済む方法は、たったひとつだ。

どんな小さなことでもいいから、自分が世界一になれる分野を見つけ、それを伸ばすことだ。 

世界一を、見つけよう

埋もれなくて済むのなら、汚い言葉や過激な言葉を使う必要もなくなる。SNSはもっとストレスフルから遠ざかる場所にあるものになる。

そうすると自然に、上位互換という存在に悩まされることもなくなるのだ。

「私はこの分野では世界一だ。だから、他人が別のものを持っていても私はこれを持っているからだいじょうぶだ 」と思えるようになる。

自己肯定感も高まる。

SNSでのストレスを感じたらとることができるもうひとつの手段

SNSでのストレスを感じたらとることができるもうひとつの手段がある。

それは、思い切ってすべてのSNSからアカウントを削除し、LINEくらいの日常的なものだけに使うようにして、SNSから引退宣言をすることだ。

勝負の舞台から引退することの大事さ

勝負に勝つ方法は、2つある。

勝負で頑張って世界一になることか、あるいはその勝負という舞台から降りてしまうことだ。

つまり、たとえば学歴コンプレックスを抱えているひとが学歴社会で良い思いをするには、日本で最高峰とされている東京大学あるいは世界で最高峰とされているハーバード大学などに入るか、自分が納得できるレベルの大学に頑張って入るということができるだろう。

ただ、あるいは「学歴なんて私は気にしない。その代わり、私はレベルがそれほど高くない大学でも英語とスペイン語を頑張って良い会社に行くという選択をする」ということだ。

私の大好きなジャージー牛乳プリンから学ぶ、世界一になる方法

ここからの記事は、SNSを続けるという選択をしたひとたちのためのものだ。

こんなときに、私は好きなプリンのことを考える。

スーパーマーケットで120円から150円くらいで売っている「ジャージー牛乳プリン」のことだ。

とってもおいしい。

頑張った日にたまのご褒美として買っている。

このプリンには、「牛乳プリン売り上げ日本一」と書いたシールが貼ってある。

これが、世界一になるための秘訣だ。

「プリン」ではなく「牛乳プリン」で勝負する

「プリン」という大きな土壌では、たとえばもっと安価な森永のプッチンプリンには負けてしまうかもしれない。もっと高級路線に走った抹茶プリンには負けてしまうかもしれない。

それでも、このプリンは「牛乳プリン」という土壌なら、日本一になれる。

そして、日本の市場で日本一になるということは、日本の市場しか手に届く範囲にない大多数の日本人にとって、世界一になることと同義だ。

「牛乳プリン」という土壌が成立する理由

そして、この「牛乳プリン」という土壌が成立する理由は、プリンというものがすでに世の中にあるからだ。

そうすると、たとえば「森永のプッチンプリンって美味しいなあ。でもちょっと甘すぎる気もするし、もっと美味しいものをたまには食べたいなあ」と、ジャージー牛乳プリンを買ってくれるかもしれない。

あるいは、「抹茶プリンは美味しいけど高いなあ。私はエンゲル係数が高めの食に全振りした暮らしがしたいけど、もうすこし安いものがいいなあ」と、ジャージー牛乳プリンを買ってくれるかもしれない。

「牛乳プリン」という土壌が成立する背景には、プリンと牛乳の存在が必要

プリンというものがこの世にあるからこそ、牛乳プリンというものが生まれる。

もっと言ってしまえば、「デザート」「牛乳」「甘いお菓子」「おやつ」「白い食べ物」といった概念も必要だ。

全く新しいことをするのが難しい理由

たとえば、目の前に見たことのない赤い実がなっているとして、それを食べようと思うことはほとんどないと思う。そもそも食べ物なのかすらわからない。甘いのか酸っぱいのか辛いのかさえわからない。毒が入っているかもしれない。食べたとしてものすごく不味いものかもしれない。

もしそれを食べるとすれば、「トマトに似ていて美味しそうだなあ」という好奇心からだろう。

目の前に赤い実がある。あなたはそれを食べるか?

ただ、たとえばその赤い実が「フルーツトマト」としてスーパーマーケットに売っていたらどうだろう?

フルーツもトマトも知っている言葉だろう。「ふーん、トマトの中でも甘くてみずみずしくて贅沢品のトマトなのかなあ」と顧客は想像して買ってくれるかもしれない。

だから、SNSでも同じように、誰もしたことがない全く新しい情報発信の分野というのは、難しい。

「世界一」になるということは、必ずしも世界ランキング1位になるということではない

SNSは、スポーツとは違う。

世界ランキング1位の卓球選手は、1人しかいない。そして仮にそのひとの名前を佐藤花子さんとすると、佐藤花子さんは誰がなんと言おうと世界ランキング1位の卓球選手であって、たとえば田中一郎さんは誰がなんと言おうと世界ランキング1位の卓球選手ではない。

目の前のフォロワーさんにとって世界一になる

ただ、SNSでの「世界」というのは、あくまで目の前にいるひとりのフォロワーさんにとってのものだ。

そのひとにとって世界一になればいい。

SNS社会で自己肯定感を高める方法は、必ずしもSNS上に載せなくてもいい

いま言った「世界一になる」ということは、必ずしもSNS上で発信しなければいけないものではない。

たとえば、「私は世界一息子を愛している」といったことを、自分の胸に秘めておくことだっていい。

そうすると、「私のそばにはいつも息子がいてくれるし、それはすごく幸せなことだ」と世界の隅々まで言って回る必要なんてない。ただ「私」が「私の息子」を愛していれば、それで「私」は世界一になれる。

そして愛情の深さは比べられるものではないから、たとえば「いいね」の数やフォロワーさんの数といった数字を気にする必要は全くない。

SNS社会で自己肯定感を高める方法は、あくまで主観的なものでいい

たとえば、日本語学の分野で世界一になりたいとして、自己肯定感を高めるために必要なのは、客観的なもの、たとえば学術論文の筆頭著者の数の多さや、国際学会での発表経験や。以下略と言った基準ではない。

これらは「客観的に」世界一になりたいとき、たとえばSNSを使うときには必要になるだろう。そして、実際にたとえば助教から准教授になろうとしているとき、公募に応募する場合にももちろん必要になるだろう。

ただ、「私は日本語学のことを世界一知っている」あるいは「私は日本語学のことを世界一を愛している」ということに関しては、それをあくまでもそれを自分自身の体内のみで自己肯定感を高めるために考える場合には、それはほんとうに主観的なものでいい。

「誰よりも日本語学について真剣に勉強してきた」といったような曖昧で一様に定義できない基準で全く構わない。

自分を世界一だと誇れる分野を見つけると、他人の持っているものをうらやまなくて済むようになる

「世界一」という評価は主観的で構わない。

そして、それを世界中に言って回る必要もない。

私はこのことを世界で一番愛してきた。

それについていつでも考えてきた。

それからいろいろなことを学んだ。

それについて考えることが好きだ。

それについて情熱を持っている。

それの良いところや面白いところを世界中に広めたいと考えている。

それを誰よりも誇りに思っている。

それを素敵だと思っていて毎回こころがときめく。

そういったものを見つけられた瞬間、そのものはあなたの中で「世界一」の輝きを見せるようになる。

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