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【小説】初華 死刑を求刑された少女 ~序章~

序章

 2026年1月15日 

 薄暗い部屋の透明なアクリル板の向こう側。険しい表情でわたしを見据える母の顎は、普段よりもやや上を向いていた。少しやつれた様子ではあったが、しっかりと化粧を施し、アイラインが引かれた目を細めて確実にわたしよりも「上」だとアピールすることを怠らない。
 ファッションモデルのように長い脚を交差させ、まるで演者のような仕草で腕を組む。いつもとなにも変わらない母のその姿を見て、却って安心した。泣かれて説教されてもうんざりするだけだ。そんなみっともない母の姿は見たくもない。もっとも、母が泣いている姿を、生まれてこのかた見たこともないが。

 ――初華(いちか)。あなた、自分の命で償いをしなさい。

 母が面会終了間際に残していった言葉だった。
「嫌いなものでも残さず全部食べなさい」と小さな子供に言い聞かせるようなあっさりとした口調で。いつもと同じように、わたしはうつむいて母の言葉に耳を傾けていた。
 驚いたのは、実の母に「死んで償え」と言われたのに、わたし自身はそれほどショックではなかったということだった。まるでいつものお小言、お説教をされたときと何も変わらない。


 ――常に高見を目指し、自分に厳しくありなさい。
 ――驕ることなく、精進し続けなさい。
 ――困っている人に救いの手を差し伸べ、助けてあげなさい。
 ――人に迷惑をかけないように心がけなさい。


 家訓のように母から言われてきた言葉だった。わたしはその言葉に従って常に努力してきた。勉強でも、スポーツでも、全てにおいて結果を出してきたし、人に救いの手を差し伸べてきた。みんなが嫌がってやりたがらないことも率先してやった。

 母が言う「困っている人に救いの手を差し伸べよ」の言葉の中に、わたし自身は含まれていなかったのだろうか。もっとも、今のわたしを救おうなどと、微塵も考えていないのは母の顔を見れば一目瞭然だった。
 どれだけ頑張っても、どれだけ「良い子に」しても、褒めることは絶対にしない母。
 今の世の中、そんな親子関係は珍しくもなんともない。ただ、この母の場合はわたしがどれだけ「努力」し、どれだけ「善い行い」を積み重ねようが、もし、何かのきっかけで人を憎んで、人を十人殺したとしても、百人殺したとしても、眉根ひとつ動かさず、いつもと同じように腕を組んでわたしを見下ろすだけではないだろうか。

――それがどうした。別にどうでもいい。やたらとプライドの高い母とその血を受け継いだ娘。それだけのことだ。くだらない。
 母にとっては、誤算であったに違いなかった。まさか品行方正な「はず」の娘があんなことをしでかすなんて、寝耳に水どころではなかったようだった。
 なぜわたしがこんなことをしたのか、理由を話しても母は理解することができなかった。別に理解を得ようとも思わなかった。口を衝いて出るのは、「たかだかそれしきのことで」という言葉だけ。これも今の家庭ではよくあることだった。親にとっては大したことがなくても子供にとっては命と同じくらい大切なモノ。大人になって利害関係のことしか頭にない母がとうの昔に失くしてしまった大切なモノ。もっとも、昔の母が今と変わらず孤高な存在であったのならば、理解できなくても仕方のないことなのだけれど。

 白い壁に囲まれたこの部屋は面会室よりも小さかった。
こんなに小さな部屋がこの世に存在するなんて、知らなかった。ただ「待つ」ためだけに存在する部屋。
 部屋の扉は施錠されていた。逃げるつもりはないし、逃げられないこともわかっているのに、逃げないように見張りが立っていた。
 こんな小さな部屋が他にあるだろうか。

 ……いや。ひとつだけあった。ここよりも、もっと小さくて狭い部屋。
 映画で見た、教会の懺悔室だ。あれを本当に部屋と呼ぶなら、だが。そう考えると、今わたしがいるこの部屋は、少しだけ広い懺悔室と言ってもいいのかもしれない。
 足を伸ばせば余裕で壁に届くくらい、狭い部屋。今までどれくらいの人間がこの狭い部屋に閉じ込められ、どんな想いで白い壁を見つめていたのだろうか。
 まるで教会の長椅子のような木製の椅子に座って、わたしはその時を待っていた。ふと壁の下に視線を向けると、壁の一部が黒ずんでいるのがわかった。ちょうど今座っているところから足を伸ばした位置。それは幾つもの足跡に見えた。怒り、哀しみ、諦め。様々な人の、様々な想いが、白い壁に黒い染みとなって刻み込まれているようだった。
 今のわたしの想いは、どうだろうか。怒り? 哀しみ? 諦め? どれもしっくりこない気がする。だが、「強いて」言うならば「怒り」だろうか。

「時間だ。出ろ」


 小さなドアが開くと、男が顔を覗かせて手招きをした。
 手錠に繋がれた手を前に組んだまま、ゆっくりと立ち上がる。
 前後を男に挟まれて、長い廊下を歩いた。実際は長くないのだけれど、そう感じた。
 男の歩幅にあわせないと、腰の紐がピンと張るのが不快だった。やがて廊下の奥に突き当たると、男がドアノブに手をかける。わたしは小さく息を吐いた。男がゆっくりとドアを開けると、真っ白な光に包まれて目を細めた。まるで長いトンネルを抜けて、飛び込んできた太陽の眩しさに眼を細めたときのように。


初華 死刑を求刑された少女 ~第一章~ (1)に続く


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