【小説】初華 死刑を求刑された少女 ~第三章~ (5)
(5)
「遅いなぁ」
開始は19時って言っていなかったか? 時計を見ると、19時を10分過ぎたところだった。短くため息をついてから辺りを見回すと、店内は大きな声で会話に華を咲かせる者たちや「かんぱーい!」の声とジョッキグラスをぶつけあう音に包まれていた。
平日なのにもかかわらず「花華」は若者やサラリーマンでにぎわっていた。この居酒屋は焼き鳥が絶品で、〝食べレポ〟の評価も星4・3と高い。焼き鳥といえば「タレ派」か「塩派」に分かれるが、俺は断然「タレ派」だ。
『日勤が終わったら新年会やるぞ!』
唐突にそう言ったのは海老原さんだった。こういう仕事をしているとなかなか飲み会を開くことはできないが、海老原さんが宴会好きなのもあって、毎年半ば強制的に「新年会」は開かれるらしい。次の日が夜勤の人間が参加対象のようだが、俺の明日のシフトは夜勤だった。中村さんも夜勤だったはずだ。言い出しっぺの海老原さんも夜勤だから、集まるのは三人ということになる。
居酒屋の雰囲気は嫌いじゃない。酒も強くないが、飲むこと自体は好きだ。ビールは苦手だけれど。問題なのは、むさ苦しいおっさん二人と狭いテーブルを囲んで飲むことなんだよなぁ。
そりゃあ、親睦を深めるために飲み会は必要なのかもしれないが、何が悲しくて男同士顔を突き合わせて飲まねばならないのか。
まあ、自分で「男所帯のお堅い仕事」を選んだのだからこういう事態になっても諦めるしかないか。自分で選んだ道だ。後悔はない。いまのところは。
ふと、居酒屋ならではの賑やかな喧騒の中にそれらとは明らかに違った騒音が混ざっていることに気が付いた。ジョッキグラスが倒れる音。テーブルに何かが当たったような鈍い音。そして怒号。これも居酒屋ならでは、か。
音の方に視線を向けると、ふたりの男が立ち上がってお互いの額をくっつけながら胸倉を掴んでいた。何を言い争っているのかわからないけど、酔った勢いでの喧嘩といったところか。
一人は短い金髪頭で、耳に幾つものピアスの穴をあけていた。もう一人は目を覆うくらいの長い黒髪で、腕には派手なタトゥーが彫ってあった。彫り物をしているヤツというのは、本当に見せたがりなヤツが多い。
俺は無意識に自分の左腕をさすっていた。
男の連れらしきこれまた派手な女性二人が男たちを宥めていた。女たちは「すみません」という風に頭をぺこぺこさせながら周りに目を泳がせている。しばらく様子を見ていた赤ら顔の客たちは早々に興味が失せたのか、酒を飲みながらお喋りを再開した。
にらみ合っていた男たちも、女たちに宥め賺されながら渋々座ると、男の一人が「なんつってー!」と変顔をして場の空気を和ませた。今しがた喧嘩をしていた男たちは、熱い握手を交わしてグラスをぶつけあっていた。
18歳だった頃の俺も、周りからあんなふうに見られていたのだろうか。
騒々しいチンピラ。ガラの悪いろくでなし。耳にピアスをあけ、左腕には何だかよくわからないトライバルのタトゥーを彫り、黒髪なんてダサいと思って金に近い茶髪に染めていた。クソ楽しくもない学校にうんざりして悪い連中とつるんでは毎日ブラブラしていた。喧嘩をしてお巡りに補導されるなんてことは日常茶飯事で、粋がるだけのただのクソガキだった。
仕事のなくなった親父は、朝から晩まで何かを忘れるように酒を飲んでいた。酒に酔っては、俺やおふくろに手を上げる日々が続き、毎晩皿やら茶碗やらが割れる音が絶えなかった。そんな親父にうんざりした俺は、ダチとつるんでコンビニにたむろしたり、深夜のファミレスでドリンクバーをまわし飲みしながらダベって時間を潰していた。
酒浸りの親父に学校に行かない不良息子。ほとほと家族に愛想を尽かしたおふくろは、泣き腫らした顔で荷物をまとめて家出したきり、二度と帰ってくることはなかった。今もどこでなにをしているのかわからない。
おふくろがいなくなって、俺と親父の2人だけになった生活はすぐに破綻した。
発端は親父が再就職した職場をクビになったことだった。それから親父はろくに職探しもせずに日がな1日酒ばかり飲んでいた。親父のあまりにも情けない体たらくに俺が見下して小馬鹿にすると、まるで赤鬼のように顔を赤くして俺に掴みかかってきた。
「何だと? もういっぺん言ってみろ! お前みたいな親不孝のクソガキにおれの何がわかるってんだ!」
「俺が親不孝ならてめぇは家族全員を不幸にした最低親父だって言ってんだよ! だからおふくろにも逃げられるんだろうが!」
「んだとぉ! このクソガキぃ!」
お互いに罵り合い、掴み合った俺と親父は勢い余って床に倒れ、並んでいたビール瓶がそこらじゅうに散乱した。一瞬の隙を衝かれ、俺の腹に馬乗りになった親父が拳を打ち据えようとした瞬間、指にビール瓶が当たったのを感じた俺はそれを咄嗟に掴んだ。
俺の振った腕と親父の腕が交差した瞬間にビール瓶が親父の顔面をとらえ、勢いよく吹っ飛んだ親父は仰向けで大の字になったままピクリとも動かなくなった。
「おい……」と恐る恐る呼びかけても親父からなんの反応もなかった。
それからの記憶は途切れ途切れで、気が付いたら俺は少年鑑別所の薄暗く、狭い部屋の中にいた。
「おい、クソガキ」
背後から急に声をかけられて、体がビクンと跳ねた。
「聞こえねぇのか、お前のことだよ。こっちを向け」
苛立たしそうなその声に振り返ると、小さな四角い穴からまるで仁王像のような顔をした男が俺を睨んでいた。
「よう、調子はどうだ。殺人犯」
……殺人犯? 俺が? 頭が真っ白になった。
自分の両手を見つめていると、身体がガタガタと震えだした。
「まさか、ほ、本当に……」
青ざめた俺の顔を見て、男は鬼のような顔のまま豪快に笑った。
「惜しかったなあ。残念ながら、お前の親父さんは病院に入院中だ。意識もある」
それを聞いた瞬間、俺は安堵のため息をもらした。
「というか、取り調べでお前の親父さんの安否について刑事から話を聞いているはずだがな。ビビりまくって聞こえていなかったか? 今みたいによ」
そういえば、取り調べのときに刑事がそんなことを言っていた気がする。
「親父が生きているのがわかって安心したか?」
「……んなわけねぇし」
親父が生きていると知った途端にいつもの憎まれ口が口を衝いて出た。
「粋がるな。本当は内心ビビってたんだろう? 殺しちまったんじゃないかって。お前みたいなクソガキは何人も見てきたからな、こっちはお見通しなんだよ」
――んだこいつ。俺の事ナメてんのか。
俺はチンピラよろしく、オラつきながら男を睨み返した。スウェットに手を突っ込もうとしたが、ポケットが縫い付けられていた。
「おっさん、俺を舐めてるとあとで――」
俺が口をゆがめた瞬間だった。
「気を付けぃ!」
生きてきた今までの中で聞いたこともないような怒声に思わず俺は立ち竦んだ。いや、今のは本当に声なのか? 鼓膜がびりびりと震え、それはまるで落雷のように腹にどすんと響いた。
「喧嘩で相手の先手を取りたかったら大声を張ることだ。覚えておいて損はないぞ」
一転して穏やかな声で男はにやっと不敵に笑ったが、俺は心臓がバクバクしていた。一体、なんの話をしてるんだ?
竦んでいる俺を見た大男は、やれやれと首を振った。
「最近のガキは気を付けもまともにできんのか。学校の教育はどうなってやがる?」
馬鹿かこのオヤジ。そもそも俺は学校に通っていない。でも気を付けなんざ、小学校で習ってる。余裕だ。
「ナメんな。気を付けくらいできる」
そういうとオヤジは「ほう」と鼻で笑うと「じゃあやってみろ」と言った。
2回目でも「気を付け」の声に竦んだが、1回目ほどじゃなかった。俺は平静を装って気を付けをした。こんなもんは姿勢をよくして突っ立ってるだけだ。誰でもできる。
「なってねぇな」
オヤジの呆れた声にカチンときた俺は小窓を睨んだが、小窓はすでに閉まっていた。
開錠の音が聞こえるのと同時に勢いよくドアが開いた。顔どころか、体まで仁王像のような大男がずかずかと俺に迫ってきた。盛り上がった筋肉で制服がはちきれんばかりになっていて、威圧感も半端ない。あまりの迫力に俺は思わずたじろいだ。
「動くな。そのままだ」
オヤジは俺の真横に腕を組んで立つと、全身をしげしげとくまなく眺めた。
「まったくなってねぇ。いいか、背筋を伸ばせ。胸を張れ。腰を曲げるな。顎を上げるな。手はスウェットの横の縫い目にあわせろ。指は真っ直ぐだ。親指を曲げるな。踵をつけろ。つま先の間はこぶし二つぶんだ。重心は親指の付け根にのせろ」
こっぴどいダメ出しをされて「正しい」気を付けに修正された。
「どうだ? 気を付けってのはただ立っているだけじゃない。しっかりやると結構くるだろう?」
確かに、きついっちゃきつい。でもこれくらいならどうってことはない。
「そのまま動くな。ぴくりともだ。今からお前にとってもありがたい話をしてやる」
はあ? 何言ってんだこのオヤジ。こんなところを他の職員に見られたらまずいんじゃないのか?
訝しむ俺を無視してオヤジは手を後ろに組むと喋りだした。
「俺はお前みたいなガキを散々見てきたから、そいつらに話したことと同じことをお前にも話してやる。だからよく聞いておけ」
だから、とっとと話せっての。自分に酔ってんのかこのオヤジ。
「お前はしてはいけないことをしたから、今こうしてここにいる。全てはお前が選択した結果なんだ。犯した罪を反省するためにここに入れられたのは、お前自身もわかっているな?」
……説教か。どいつもこいつも。うんざりなんだよ。
オヤジは俺を中心に時計回りでゆっくりと歩きながら話を続けた。
「しかし、お前のようなヤツを育てた親や家庭環境に原因があるのも十分わかっている。その親の親に原因があることもな。お前のようにここに来る奴は大半が家庭に問題を抱えているやつらばかりだ」
だんだんと苦しくなってきた。立っているだけなのにこんなにしんどいなんて。
「だが!」律するような大声に緩んだ背筋が伸びた。まだ続くのかよ。
「罪を犯したのはお前だ。お前の親父やおふくろに問題があったとしても、二人だけを責める訳にもいかん。やったことの責任は、お前が取らなきゃいかんのだ」
俺は目を逸らしてため息を吐いた。結局それかよ。
「だが、お前はツイているな」
……俺がツイている? このオヤジの言っている意味がわからない。それよりも、なんだか頭がボーっとしてきた。
「犯罪をしたからお前はここに来たワケだが、それにもきっと何らかの意味がある。見えない力が働いて、お前をここに導いたと言ってもいい。お前が自ら選択した行動の結果だとしても、実は神様の偉大な力のお導きがあったんだよ」
馬鹿馬鹿しい。説教の次は説法か? まるで坊さんみたいなこと言いやがって。
……まあ、見た目はつるつる頭のスキンヘッドだが。
「くっだらねぇ」
俺はぼそりと言ったが、オヤジは無視して続けた。
「やり直せと言ってるんだよ。お前に。神様が。お前が生きてきた人生は本当のお前じゃないってな。だからこうやってお前に試練をお与えになったんだ。神様がお前に本当の人生を歩ませるためにな。しかも、こんな若いうちに。だから俺はツイてるなと言ったんだ。こいつはチャンスだぞ?」
このオヤジはどこぞの怪しい宗教の信者か? そんなカミサマが本当にいるなら、今すぐ俺に「本当の人生」を歩ませてくれよ。
ゆっくりと歩いていたオヤジが三回目に俺の正面にきた時、また雷が落ちた。
「休めぃ!」
休めの声が腹に響いた瞬間、俺は糸の切れた人形のようにその場にへたり込んだ。
「大丈夫か? ちっとばかしやりすぎたか」
オヤジは悪びれた様子もなく目を細めて笑った。
「これくらいで貧血気味になるとは、さてはもやしっ子だな。お前」
ひとしきり笑ったオヤジはしゃがみ込んで俺と目線を合わせた。しゃがんでも圧迫感は変わらないどころか、さらに増した気がする。相変わらず彫の深い仁王像のような顔だが、さっきとは打って変わった真剣な表情だった。
「おまえ、宮田といったか。下の名前は?」
「……宗一郎(そういちろう)」
「宗一郎? 完全に名前負けしているな。いい面構えはしているが」
うるせぇよ。
「聞け。宗一郎。増やしたくても絶対に増えないもの。何もしていなくても減っていくもの。それは一体何なのか、わかるか?」
今度はなぞなぞか? 勘弁してくれよ。頭に血が回らず何も考えられない。
「んなもん、わかんねぇよ。金か?」
オヤジは俺をじっと見据えたまま首を横に振った。
「違うぞ。金は稼げば手に入る。減っていくのは時間だ。宗一郎」
時間? このオヤジはいったい何が言いたいんだ?
「時間ほど皆に平等に与えられて、平等に減っていき、そして絶対に取り戻せないものはない。今こうしてるあいだにもどんどん時間は減っているんだ。時間が減るということは、命が減るということでもあるんだよ。わかるか? 宗一郎」
頭に血が巡ってきた俺は、ふんっと嘲笑いながらオヤジに言った。
「だったら、とっとと俺をここから出してくれよ。俺にとっちゃ、こんなとこに1分1秒でも長くいるのは時間の無駄なんだよ。時間は貴重なんだろ? だったら出してくれよ」
「残念ながらそれは無理な相談だ。しかし、ここから出られたら、お前が思うがままに時間を使えばいい。だが、今はお前が『無駄だと思っている時間』をこの狭い4畳の部屋で使うことが何よりも必要だ。だから今お前をここから出すわけにはいかん」
……なんだ? それは。まったくもってわからない。
「今は理解できんかもしれんが、すぐにわかる。それにな、宗一郎。本当に無駄な時間だったのかどうか、はっきりわかるのはいつなのか、知っているか?」
俺はどうでもいいという風に首を横に振った。
「それはな、宗一郎。死ぬときだよ。人は死の間際で我が人生を振り返る。そこで初めて無駄な時間を過ごしたのか、そうでないかがわかるんだ。もし後悔しているのなら、その人にとっては『無駄な時間』を過ごしたということになる。一概にそうとは言い切れないかもしれんが、少なくともその人が本当に歩みたかった人生ではなかったのは確かだろう。
まあ、今のおまえは18歳で青くさいだけのクソガキだから無駄だと思う時間を多少すり減らしたところで何も問題はあるまい? これから三30年、40年生きていく中でのほんの一瞬だ。来年の今頃には美しい思い出話になってるぜ」
俺はオヤジの言葉に聞き入っていた。オヤジの真剣な眼差しに釘付けになって目を逸らすことができない俺の様子を見て、オヤジはふっと笑うと立ち上がった。
「まあ、今はのんびりするこった。お前の親父さんもこの件について反省しているようだし、下されるのはせいぜい保護観察だろ」
そう告げるとオヤジはのそのそと歩いて扉の前で足を止めた。
「ここが最後の選択の場だと思え。宗一郎。何の選択なのかはわかっているよな? 時間はたっぷりある。邪魔をする人間もいない。じっくり自分自身と向き合ってみることだ。今までそんなことはしたことがなかったろ?」
……人の名前を気安く何度も。親父にだってそんなに何度も名前で呼ばれたことはなかった。それにしても自分と向き合う、か。確かにそんなことはしたことがないし、どういうことなのかいまいちピンとこない。
「焦るなよ。宗一郎。時間に身を委ねて、自分の心の声に従え。どうしても暇でしょうがないときは報知器で呼べ。本くらいならいくらでも読ませてやる。活字本だがな」
実際、毎日やることなくて暇だったから本の借り出しを頼んだらマジで字だけの本ばかりだった。だけど、そのおかげで小説が好きになった。オヤジのお薦めは時代小説だった。
オヤジの言うとおり、時間だけはいくらでもあった。昔のことを思い出したり、考えたりもした。人は何もすることがないと、起きてから寝るまでのあいだ、物思いに耽ることもできるのだと初めて知った。ましてや、狭い部屋に無理やり閉じ込められているのだから本を読むこと以外、ぼーっとしているしかない。
しかし、ぼーっとしているようでも脳は常に働き、何かを考えていた。そしてある日を境に、心に立ち込めていた霧のようなものが、すっと晴れた気がした。今まで見えなかったものが、見えるようになった気がした。
その時に初めて知った。これが「自分と向き合う」ということなのだと。
自分自身と向き合った結果、俺は選択した。オヤジと同じ道で生きていくと。その選択の結果が『無駄な時間』で終わるのか、そうでないかは、オヤジが言ったように死ぬ瞬間まできっとわからないのだろう。
この俺が得た感覚を、彼女もいつか得ることができるだろうか?
彼女に「選択」をする権利はまだ残っているのだろうか?
しかし、彼女の犯した罪の重さを考えると――。
俺は頭を抱えて唸った。
~第三章~ (5)の登場人物
宮田宗一郎(みやたそういちろう)
Y拘置所の新人刑務官。とある事件がきっかけで、刑務官の道を歩むことを決意する。
宮田(父)
宗一郎の父親。仕事をクビになり、酒浸りの日々を送っていた。
宮田(母)
宗一郎の母親。
オヤジ
宗一郎が収監された、少年鑑別所の職員。スキンヘッドがトレードマーク。
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