【小説】初華 死刑を求刑された少女 ~第三章~ (7)
(7)
「願いまーす! 願いまぁーす!」
「ちょっと、やめてくださいよ皆川さん!」
皆川さんが空になったジョッキグラスを掲げて、店内に響き渡るような大声で叫ぶ。しかも刑務所用語で。これが酒呑み刑務官の「ノリ」ってやつか。
それにしてもこの1時間だけでもう7杯目だ。ハイペースすぎる。かなり酔っているようだけれど、顔はほんのり赤い程度でまだまだ飲むぞって勢いだ。こっちは生中1杯とチューハイを2、3杯飲んだだけで結構きているというのに。
「なんだよぅ。ここのオヤジは呼んでもちっともこねーなぁ。宮田ぁ! 報知器おせ!」
ただのたちの悪い酔っ払いだ。皆川さん、酔うと絡むタイプなんだな。もしかして、皆川さんが酔うとこうなるのがわかっていて二人きりにされたんじゃ。
「ていうか、宮田ぁ、あたしのことは彩花さんってよべって、いったはずだよなぁ」
「はいはい、わかりましたよ。彩花さん。て言うか、そんな大声出さなくても呼び鈴押せば店員さん来てくれますよ」
「馬鹿か! お前! 許可をもらうときは『願います』だろうが! あたしに話しかけるときは『交談願います』って言え! そして刑務官(オヤジ)には絶対服従! そう教わらなかったのかぁ。宮田ぁ、お前、何年刑務官やってんだぁ。そんなんじゃ仮釈はやれんぞぉ」
えらく失望した様子の彩花さんは大げさに首を振っていた。
「うお……タチわりぃ……。すみません、彩花さん。自分、刑務官の仕事を初めてまだ一年目なもので、今後も優秀な彩花さんにご指導いただければ大変助かります」
俺が下手のさらに下手にでると、彩花さんはがばりと顔を上げて「にへら」と笑った。
「へへっ、わかってんじゃねぇかあ宮田ぁ。うっぷ。でもタチわりぃって聞こえたような」
ぎくりとした。酔っ払っているから聴いてないと思ったのに。にへら顔がジト顔になりそうになって、慌てて言い訳をした。
「え? そうですか? 気のせいですよ。た……、かち割り氷食いたいなあって言ったんですよ! ちょっと飲み過ぎたせいか、その、暑くないですか?」
「あんだと?」と言ってジト目で彩花さんが睨んでくる。だ、誰か助けて。
「暑かったら脱げ! 宮田ぁ! あたしも脱ぐ!」
「だんっ」と立ち上がった彩花さんは、ニットの裾に両手を突っ込んで引き上げようとした。周りの酔っ払い客が、何事かと期待と好奇の入り混じった視線を俺たちに向けてくる。これはあかん。
「ああ、もう暑くない! 暑くないです! だから座りましょ! ね?」
立ったと同時に彩花さんの両肩に手を乗せて力づくで座らせた。周囲から余計なことしやがってと舌打ちが聞こえたが放っておいた。
さきほどの金髪男は、連れの女にレバーブローを食らわされていた。
笑顔で生ビールを持ってきてくれた店員のお姉さんに苦笑いしか返せない。
「ほら、彩花さん、ビールがきましたよ。乾杯しましょ。乾杯」
そう言って彩花さんに視線を向けると、俯いて肩を震わせていた。もしかして怒ったのだろうか。すると、右手を勢いよく上に挙げた。刑務官に用件があるときの挙手だ。
「? 彩花さん、どうしたんですか?」
「せ、先生……よ、用便ねがぃ、うっぷ」
彩花さんが左手で口を押えた瞬間に無理やり引きずってトイレに引っ張っていった。
なんて手のかかる人なんだ! 普段はあんなにやり手でクールなのに!
女子トイレに入る瞬間に派手な茶髪の主婦らしき女性客が「お大事にね」と微笑みながら彩花さんを抱える俺の脇をすり抜けていった。俺はまたしても苦笑いしか返せなかった。
そして、トイレに入ろうとして足がとまった。
……あの人、どこかで見たことがあるような気がする。
すれ違った主婦を目で追っていると、彩花さんが激しくタップした。
あーはいはい、わかってますよ!
済んだら戻ってきてくださいねと伝えてから彩花さんが帰ってきたのは、それから30分後だった。
「う……気持ちわる……。頭いったぁ……」
彩花さんは、白い顔でテーブルに額をくっつけていた。
「大丈夫ですか? かなりのハイペースでしたもんね」
冷たいテーブルがよほど気持ちいいのか、目を瞑ったまま彩花さんが顔を横に向けるとほっぺたが「むにぃ」っとつぶれた。
「お酒、あんまり強くないからセーブしなきゃと思ってるんだけどね。ついつい飲んじゃうの。今日は特に『イケメン』と二人きりだから、かな?」
顔を真横に向けたまま、彩花さんは視線だけを俺に向けてきた。青い顔をして何を言っているんだか。
「なに言ってんスか。もうすぐ30になるのに、あんまり勢いに任せて飲むとそのうち身体壊しますよ」
「なんだと、この」と彩花さんは凄んで顔をあげようとしたが、痛みに押さえつけられてテーブルに突っ伏した。舌打ちをしながらテーブルに顎を乗せた彩花さんは、据わった目で俺を見た。
「なんですか?」
俺が訝しんでそう言うと、彩花さんが顎をしゃくった。俺はまた無意識にシャツをまくって左腕をさすっていた。
「なに? あんた、昔はタトゥー入れてたの?」
あっと思ってシャツを戻したが遅かった。
「やっぱり、わかっちゃいます?」
「わかるわよ。だって、ほら」
そう言って、彩花さんは白いうなじを俺に見せた。髪をかき上げる仕草に俺は思わずドキリとした。うなじの一部だけ皮膚の色が違うのがわかった。うっすらとだが、タトゥーを消した跡が残っていた。よく見ると、蓮華のようにも見える。
「蓮華、ですか?」
「そうよ。よくわかったわね」
やっぱり蓮華か。花言葉は確か、『あなたと一緒なら苦痛がやわらぐ』『心が安らぐ』だった気がする。それにしても、彩花さんみたいな真面目そうな人でもタトゥーを入れていた時期があったんだな。
「最初は蓮の花にしようと思ったんだけどね。ちょっと縁起悪そうだったから」
……そうだろうな。
「若気の至りってヤツですか?」
「誰にだってありそうな、しょうもない話よ」
彩花さんは鼻で笑うと、テーブルに顎を乗せたまま話し始めた。
「昔、私が好きだった幼馴染の男の子がいたの。小、中、高、さらには大学も一緒でさ。その子も私のことが好きだったみたいなんだけど、なんだかお互いに素直になれなくてね。こんなの、よくある話じゃない?」
酔いが少し落ち着いてきたのか、彩花さんは身体を起こしてテーブルに肘をついた。
「でも近すぎる存在ってさ。かえって距離が遠いんだって、本当にそんなことあるんだって初めて知ったんだ。好きなのは本当だけど、『好き』っていまさら言ったところで何が変わるんだろうとか、気まずくなって今までの関係が壊れたらどうしようとか、どうでもいいことばかりが頭の中で堂々巡りしてさ。で、ある日、思いついたの」
彩花さんは、冷たい水が注がれたジョッキを掴むと喉を鳴らしながら飲み干した。
「今思えば、馬鹿なことをしたって後悔してるんだけど、大学生の時に蓮華のタトゥーを入れたの。あえて見つかりにくいうなじにね」
相槌を打ちながら彩花さんの話に耳を傾けていた俺は、グラスが空だったことに気づくと店員を呼んでウーロン茶を注文した。彩花さんも飲みものがなくなったので、二人ぶんのウーロン茶を注文した。
相変わらず「ウーロン茶ふたつ願います」と刑務所用語で注文する彩花さんに、店員さんはニコニコと楽しそうな笑顔で注文を受けていた。
まさか、刑務所用語を知ってるワケじゃないよな……。
ほどなくしてウーロン茶がテーブルに置かれると、彩花さんは続けた。
「もし、彼がこのタトゥーを見つけたら、その時は観念して告白しようって決めたの」
「観念って、まるで見つかって欲しくないみたいな言い方ですね」
彩花さんは、ちびちびとウーロン茶を舐めながら苦笑いをした。
「かもね。結局、自分に決断させるキッカケを作らないと駄目だった。それがなんでタトゥーだったのか、今じゃわからないけど単なる意気地なしだったのよ。見つかったら告白しようだなんて、まるで言い訳よね」
「それで? 彼とはどうなったんですか?」
俺が続きを促すと、彩花さんは力なく笑った。
「ここまで聞いたらわからない? 他の女とくっついちゃったわよ。今は結婚もして、二児のパパなんだって」
「それは……」
言葉が見つからなかった。
複雑な表情で見つめる俺を、彩花さんはけらけらと笑いとばした。
「もう終わったことなんだから気にしてないって。むしろ、悶々としていた毎日が終わってすっきりしたくらいなんだから」
話を聞いていて、ひとつ気になった点を俺は彩花さんに尋ねてみた。
「その幼馴染は彩花さんのタトゥーにずっと気がつかないままだったんですか?」
タトゥーを消した跡を見る限りでは、5センチはある。見えにくいうなじにタトゥーを入れたと彩花さんは言ったけれど、むしろばれやすい場所なんじゃないだろうか。当時の彩花さんの髪の長さがどれくらいなのかはわからないけど、仮にロングヘアーでうなじが隠れていたとしても、ずっと気が付かないなんて、あり得ない気がした。
彩花さんは目を伏せると指先でグラスをなぞった。
「さあ、どうなんだろうね。気づいていたけど、知らないふりをしたのか。それともタトゥーを入れてる女なんてあり得ないと思ったのか。そもそも私のことなんて好きでもなんでもなかったのか。他に好きな女の子がいるようには見えなかったんだけどなぁ」
俺は彩花さんを見つめたままウーロン茶を舐めた。
「結局さ~長いこと一緒にいたって、所詮は自分自身じゃない、赤の他人ってことなのかもね。相手のことは相手にしかわからない。好きだと思っていても、それは自分がそう思っているだけで相手には全然そんな気はなかったのかも知れない。好きと伝えたとしても、実は本心じゃないかも知れない。自分ひとりが舞い上がっちゃってさ。
向こうは馬鹿みたいと思っていたかも知れないじゃない? 実は俺には他に好きなひとがいるんですよ~ってさ。私も幼馴染のことが本当に好きだったのか、自分で自分がわからなくなっちゃった」
嘆息して頬杖をついた彩花さんは、ジョッキグラスを揺らして音を立てる氷を眺めていた。その様子を見ながら俺はぽつりと呟いた。
「――それは、家族も同じなんですかね」
「え?」っと彩花さんは眉宇を上げて俺を見た。
「家族といえど、結局は『自分自身』じゃないから、やっぱり家族であっても完全に相手の事を知るのは不可能なんでしょうか。それって他人と同じってことですよね」
グラスを弄る手を止めて、彩花さんは考え込むように俯いていた。
すると、ぐっと身を乗り出した彩花さんの顔が鼻先10センチくらいにまで近づいて俺はドキリとした。
「人間ってさ、馬鹿だから少なくとも言葉で、ちゃんと向き合って話しをしないと相手の事を知ることも理解することもできないのかもね。それは家族も他人も一緒なんじゃない?」
彩花さんの澄んだ瞳にじっと見つめられて居心地が悪くなった俺は視線を外した。
「そ、そうですね。俺も中村さんに『おまえは何度言ったらわかるんだ』っていつも言われていますし。あれ? でもそうなると言葉でも理解していないような」
彩花さんはぽかんとした様子で目を見開いてから、がくっと項垂れた。
どうしたのだろうか。
「あたしも昔から変わらない、馬鹿な女のままってことかもね。宮田のこと笑えないわ」
自嘲気味にため息をもらしながら彩花さんはウーロン茶を呷った。
「でもさ、家族って一番自分と近しい存在じゃない? 逆にそれが壁になって、言葉で伝えるのも難しくなるんじゃないかって、そう思うのよね。近すぎる人間ほど腹を割って話すことなんて、中々できないんじゃないかしら」
彩花さんはひとしきり話すと「ちょっと用便」と立ち上がってトイレへと消えていった。足取りもしっかりしているし、酔いの方は、もう大丈夫みたいだった。
それにしても、言葉にしないと伝わらない。か。近しい存在ほど腹を割って話すのが難しいというのは確かにそのとおりだと思う。
しかし、もし話をしたとしても、伝えるべき「言葉」のタイミングを逸してしまっていたら、その「言葉」も役に立たなくなるのではないだろうか。ましてや、伝える言葉の「選択」を間違えると、相手を深く傷つけることにもなりかねない。
今から思えば、俺の家族に足りなかったものは、俺も含めて「会話」や「話し合い」だった気がする。それが身に染みてわかったのは、少年鑑別所を出てからのある出来事だった。あの頃は、皆が皆不満を腹に溜め込んで身内同士で当たり散らしていた。自分の不幸を、相手のせいにしてばかりいた。
おふくろは、どんな気持ちで俺のことを見ていたのだろうか。
酔っ払った親父にぶたれ、不良息子は頼りにならず、学校へ行けと言っても従わず、それでも毎日家族のぶんの食事を作り、洗濯をし、家事をこなした。パートへ働きにも出ていた。そして最後は何も言わずに不満を抱えたまま、泣き腫らした顔で荷物をまとめて家を出ていった。
親父はどうだった? 俺が小学生のガキの頃に勤めていた会社ではバリバリ働いていた。毎年の夏休みでは海へキャンプ、山へのロッジ、そして避暑地のペンションへと毎年家族旅行に連れて行ってくれた。しかし、不況の煽りを受けて会社が倒産してからの親父は一変した。それから普段はあまり飲まない酒を次第に飲みまくるようになった。
そんな親父を最初はおふくろも好きにさせていたが、やがて家計が苦しくなってくると、親父に再就職をせっつくようになった。一層家族の関係がぎくしゃくした。しかし、家族の見ていないところで、親父は親父なりに必死だったのではなかったのだろうか。
おふくろに逃げられ、再就職した仕事もクビになって酒に溺れる親父を俺は情けない奴と嘲笑った。今思えば、それがどれほど親父の自尊心を深く傷つけたのだろうか。
俺は働いている親父の姿を知らない。働いている親父を見たことがない。親父が新しい職場でどんな扱い受けていたのかを知らないし、当時18歳の俺は親父になんの興味もなく、そんなことはどうでもいいとさえ思っていた。なぜ親父が酒に溺れるのか、毛筋ほども考えたことがなかった。
親父自身もあんな自分の姿は望んでいなかったのだと思う。新しい職場でやり直し、かつての自分を取り戻す。しかし、それも叶わなかった。挙句の果てには息子に馬鹿にされ、ビール瓶で殴られて入院するはめになった。そして、息子は傷害の容疑で逮捕されて少年鑑別所に入った。
しかし、親父は俺を訴えることはしなかった。ことの発端は自分にも原因があったと、親父は反省していた。すべてが終わって、また親父との二人暮らしが始まった。
俺は少年鑑別所のオヤジに紹介されたバイトを掛け持ちで始めた。親父は酒をやめた。以前のような荒れた親子関係ではなくなっていたが、お互いがどう接して良いのかわからず、家に居ても会話のない日々が続いた。
バイトが終わって家に帰ると、親父の姿がない日が度々あった。玄関を見ると、埃を被っていた革靴がなくなっていることに気が付いた。たぶん、就職活動をして会社の面接を受けに行っていたのだと思う。
ある日、バイトから帰ると、親父が居間で落胆した様子で項垂れていた。胡坐をかいた膝の近くには、いくつかの封書が転がっていた。俺はそっと背後から近づいて封書を覗き見ようとした。
「みし」という音に親父が振り向いた。
「……ただいま」
「おう」
俺は突っ立ったまま、親父にかけるべき言葉を探していた。
親父は視線を床に落とすと、身体を戻した。そして、自嘲の笑みを浮かべながらため息をついた。
「まったく、情けない話だよな。お前が呆れるのも、無理もない気がする」
封書に目をやると、〝見送らせていただきます〟〝益々のご活躍をお祈り申し上げております〟の感情のない文字が飛び込んだ。
52歳に届きそうな親父に手を差し伸べてくれる会社は、早々いなかった。しかし、親父も高望みし過ぎているのではないかという疑念が俺にはあった。
俺がガキの頃は、親父は大手建築会社の設計をやっていて、部長にまで昇り詰めた。そのときのプライドが未だに捨てきれていないのではないだろうか。選ばなければ、仕事はいくらでもあるはずだ。その気持ちがそのまま口から言葉となって飛び出した。
「親父さぁ、高望みし過ぎなんだって。別に何でもいいじゃん。仕事なんて。コンビニでも警備員でもさ」
今思えば、あまりにも軽はずみで無責任な言葉だった気がする。
親父は、床に視線を落としたままで黙っていた。そして「そうだな」と消えそうな声でぽつりと言った。
「俺もバイトをはじめてちょっとは収入もあるからさ。親父は少しのんびりしなよ」
俺が初めて親父にかけた、労いの言葉だった。親父はなにも言わず、頷きもせず、ただ床を見つめて黙っていた。肩を揺らして大きく息をはいた親父の背中が、ため息の分だけ空気が抜けて、しぼんでいく風船のように見えた。
ある日、バイトから帰宅すると、親父は居間で首を吊っていた。
床には、例の言葉が淡々と書かれた二通の封書が落ちていた。
壁際の座卓テーブルに、紙きれが一枚置いてあった。
A4サイズの紙なのに、隅っこに小さな文字で「すまない」とだけ書いてあった。
この小さな「すまない」という四文字に、どれほどの無念が詰まっていたのだろうか。
こんな隅に書かれた文字に、どれほど肩身の狭い想いが込められていたのだろうか。
情けない父親ですまない。
酒におぼれてばかりいてすまない。
家族に八つ当たりばかりしてすまない。
家族を幸せにすることができなくてすまない。
数えたらきりがない。
俺は、自責の念に駆られた。俺の不用意な言葉が、親父を殺したのではないか。俺の何気ない一言が、親父のひびの入った自尊心を粉々に打ち砕いたのではないか。あの時俺は、親父に伝えるべき「言葉の選択」を間違えたのではないか――と。
親父の葬儀に参列したのは、近所の人が数人と、親父と親しかったという友人が二人だけだった。親父の家族は、俺だけだった。おふくろは、戻ってこなかった。焼香の白い筋をぼんやりと見つめていた俺は、少年鑑別所のオヤジの言葉を思い出していた。
『人は死の間際で我が人生を振り返る。そこで初めて無駄な時間を過ごしたのか、そうでないかがわかるんだ』
……俺の親父は、どうだったのだろうか。
首を吊る瞬間に、親父は自分の人生を振り返ったのだろうか。
とてもじゃないが、どう転んでも、親父の生きてきた人生が『無駄ではなかった』とは考えづらい気がする。でも、それは親父が思うところだ。俺は親父自身じゃないから、親父がどう思ったのかはわからない。
戻ってこなかったおふくろを恨んだこともあったが、出て行った原因を作ったのは俺と親父だ。おふくろに怒りをぶつけるのは筋違いだった。すべては、自業自得だった。
「ところでさぁ、宮田」
トイレから戻った彩花さんの声に俺は顔を上げた。
「あんた、意外と花に詳しいじゃない。そんなメルヘンな趣味もあったの?」
彩花さんが悪戯っぽい笑顔を向けてきて照れくさくなった俺は、鼻を掻きながら答えた。
「それは――花屋でバイトしていたからですよ」
俺と彩花さんは「花華」をでた。平日の夜だというのに人通りは多い。
「これからカラオケにいこっか――って言いたいところだけど、明日仕事なんだよねぇ」
「はぁーあ」とため息を吐く彩花さんに俺は苦笑いした。
夜勤とはいっても、朝から出勤だ。あまり深夜まで遊び歩くと仕事に響く。
月が綺麗な夜空を見上げて、白い息を吐きながら彩花さんが言った。
「あの子、どうするんだろうね。これから」
初華ちゃんのことか。
「正直、どうするつもりなのかわからないですね。今のところ本人に反省している様子はないみたいですし、もし、仮に反省をしたとしても――」
口から出そうになった言葉を無理やり飲み込んだ。
まだ、そうと決まったわけじゃない。険しい顔でうつむく俺の隣を彩花さんは何も言わずに歩いてくれた。
「やっぱり、カラオケいこっか! カラオケ! 1時間くらいなら大丈夫でしょ」
明るくて元気な人だ。俺に気つかってくれたのだろうか。仕事中の彩花さんしか知らないから、きっと普段の生活もクールで厳しい人なのだと勝手に思っていた。
もっとも、彩花さんも俺のことをちょっと顔がいいだけのお調子者だと思っているのかも知れないが。やっぱり、人というのは少しの時間だけでは相手の全てはわからないものだ。そもそも、長年一緒に居る家族のことさえわからないんだ。他人のことがわかるはずもない。
「よっしゃ! いきますか! 1時間と言わず、2時間でも3時間でも!」
いつもの「軽いノリ」で彩花さんの方へ身体を向けた瞬間に、俺の手が彩花さんの手に重なるように触れた。
「あ」
ふたりの声が重なった。少し手が触れただけなのに、どうすれば良いのかわからないような、気まずい空気が漂った。
どうせ二人とも酔っ払っているから、思い切って手を握ってしまおうか。そう考えていたら、勢いよく肩をがしっと組まれて前のめりになった。
「言ったな、宮田! それなら声が枯れるまでとことん付き合ってもらうからね!」
彩花さんの笑顔に俺も笑みがこぼれた。
今はまだ、これくらいが「ちょうどいい」のかもな。
二人で肩を組み、懐かしいメロディを口ずさみながら、俺たちは夜の雑踏に紛れていった。
そういえば、思い出した。
さっき居酒屋でみた茶髪の中年女性は、初華ちゃんの裁判で見かけたのだった。
あの人、裁判員だったのか――。
~第三章~ (7)の登場人物
宮田宗一郎(みやたそういちろう)
Y拘置所の新人刑務官。お調子者でイケメン。女性刑務官の皆川が苦手。…のはずだったが、意識し始めている。
皆川彩花(みながわあやか)
女性刑務官。美人で、普段はクールだが、酒癖が悪い。宮田のことが気になっている(あくまで後輩として)。
宮田(父)
大手建設会社の部長だったが、会社が倒産してからは再就職がうまくいかず、酒に溺れる日々を過ごしていた。
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