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【小説】初華 死刑を求刑された少女 ~第二章~ (8)

(8)

「リゾ・バンビーノ」を後にした私は、1時間ほど寄り道をしてからとあるレストランへと車を走らせていた。今日はもう仕事はない。というか、無理やり空けた。滝川美知子が眉間に皺を寄せて文句を言いたそうだったが、無視をした。


 阿久津孝彦は、家に帰ったらさっそく娘に手紙を書くと話していた。おそらく、彼が父親として娘へ宛てる初めての手紙となるのだろう。電子メールやSNSが盛んな今の世の中、こんな時でもなければ手紙を差し出すことはほとんどない。しかし、手紙でしか絶対に伝わらないものもある。
 留置場や拘置所に勾留されているあいだの通信手段は手紙しかなく、携帯でメールを送信したり、LINEでやりとりすることはできない。しかし、だからこそ被疑者やその家族にとって手紙の大切さが身に染みてわかるはずだ。
 以前、阿久津初華にも両親に手紙を出すよう提案したことがあったが、結局彼女が手紙を書くことはなかった。
 もう一度、両親に手紙を出すように提案をしてみようか。だが、彼女のことだから十中八九嫌がるだろう。とにかく、まずは父親である孝彦が彼女に手紙を出して、それを読んだ彼女がどう反応するか、様子を見る必要があった。

 信号のない横断歩道で、おさげ髪の女の子と、買い物袋を手にした母親らしき中年女性が道路の左右を見ながら立っていた。母親は娘の手を握っているが、娘は早く走り出したいという風にうずうずしているのが見てとれた。
バックミラーを確認すると、後続の車が何台かいたが、対向車はいなかった。
 私は横断歩道の手前で車を停車させると、母子に渡るようにジェスチャーをした。右手を真っ直ぐ上にあげて駆けだした女の子の手が離れてしまい、母親が「これ! 穂香!」と咎めると、慌てた様子で女の子を追いかけて手を握った。
 女の子と母親が道路を渡りきると、女の子はこっちに向かって毛糸の手袋に包まれた小さな手を振っていた。母親も振り向くようにしてお辞儀をしていた。
 微笑ましい母娘の姿に私は心が暖かくなった。妻の由香里と、幼いころの愛実を見ているようだった。愛実も周りに気を配ることができず、前だけしか見ない子だったから由香里によく注意されていた。
 2人が歩きだすのを見届けてから、車を発進させた。サイドミラーを覗くと、つないだ手を楽しそうにふっている母娘の姿が小さくなって、やがて夕日に溶けていった。早く愛実にあいたくなった私は、アクセルを踏んだ。


 信号が赤になって車を停めると、後部座席に顔を向けた。ピンク色の可愛いリボンに包まれた小さな赤い箱と、色とりどりのアレンジメントフラワーがシートに置かれている。花は愛実の誕生花であるプリムラと、青いカーネーションを小さなバスケットを器にしてデザインされたものだ。今ではすっかり行きつけになったフラワーショップで購入した。
 そのフラワーショップは家族で経営していて、娘が店長として店を切り盛りしていた。ひょんなことから彼女の父親について話をしたことがあったが、彼女は多くは語らなかった。『父は、ここにいません』『今はお勤めに』その二言だけだった。それ以上訊くことはできなかった。
 プリムラの花言葉は「青春の始まりと悲しみ」そして「青春の恋」だと教えてくれた。少々、儚いイメージのある花言葉だが、娘の愛実は「儚さ」とは真逆に位置する元気で明るい子だ。


 信号が青に変わってアクセルを踏んだ。今向かっているレストランというのは、大学時代のサークル仲間だった匠(たくみ)が経営している、こじんまりとした高級フランス料理店のことだ。
 法学部でともに弁護士を目指していたはずがなにをトチ狂ったのか、バイト代を継ぎ込んで食べに行った高級フランス料理の味に感動した匠は大学を中退し、食の文化へと人生の軌道を変えた。
 初めは近場のフレンチレストランでアルバイトとして匠は働き始めた。皿洗いや店内掃除の下働きからスタートし、働きながら食材の知識や調理法を学び、とにかく実戦形式でなんでも吸収していった。努力家でもあった彼はすぐに店のスタッフにも認められ、その店で三年間勤めた。そして、バイトで貯めた金で単身渡仏した。フランスのホテルで四年間修行をしたのちに日本へ帰国して、有名フレンチレストランで二年間働いた。


 そして、匠は自分の夢を実現させた。今では立派な店を構える、オーナー兼フレンチシェフだ。
 匠の高級フランス料理店「モンターニュ・オン・ヴル」はテーブルが六脚しかない完全予約制の小さな店だ。スタッフは匠を含めて3人。しかも一見様お断りで、どうしてもこの店でフレンチを楽しみたいのなら、来たことのある人間に連れて行ってもらう以外に方法はない。
 幸い、私は匠と大学のサークル仲間で親しかったこともあって、開店当時、特別に招待された。こんな小さな店で、しかも不景気な時代と逆行するような高級レストランでやっていけるのかと私は尋ねたが、匠は意にも介さなかった。
 そもそも一般人を客層としていないレストランだからこそのこだわりと高額な値段設定なのだと彼は豪語した。不景気と言っても、金を持て余している人間は幾らでもいる。そういう人たちに高級フレンチを楽しんでもらうために、一切の妥協はせず、食材、料理、調度品、サービスなど全てにおいてこだわり抜いた、最高のフレンチレストランにしたかったのだと熱く語っていた彼の目を今でも憶えている。


 私は当初の夢であった弁護士になることはできたが、果たして匠ほどの熱意と情熱があったのかと問われると首を捻らずにはいられなかった。匠の店には1年に一度くらいしか訪れることはなかったが、匠は会う度に増々エネルギッシュになっている気がした。  
 彼は夏になると店を閉め、2か月ほど世界を飛び回って高級食材を探す旅に出かけていると話していた。それに比べ、私はかつてのあるのかないのかよくわからなかった情熱はすっかり影を潜め、理想と現実のギャップに苦しんだ日々は、もはや遠い昔の話だ。今ではすべてを諦めて現実を受け入れ、代り映えのしない毎日を淡々と過ごしている。


 車の通りが多い市街地に入って、「モンターニュ・オン・ヴル」から一番近いコインパーキングに車を駐車した。匠の店は人通りの少ない狭い路地の一番奥に隠れ家のようにひっそりと佇んでいる。
 一応、店の名前は出ているが、外見だけでは、この店が高級フランス料理店だということは誰にもわからないだろう。もちろん、車を停める駐車スペースもない。だから近くのコインパーキングにいつも車を停めるのだが、近くと言ってもそこから匠の店まで歩いて15分は掛かる。まったくもって不便だ。「だからいいんじゃないか」と匠は言うが、私には到底理解できなかった。
 店の前に到着して時計を見ると、ちょうど18時になるところだった。
時間ぴったりだ。古びた木製のドアには「CLOSED」の木札が風で揺れていたが、それに構わずにドアを開けると、ドアベルの「チリンチリン」という音色が店内に響き渡った。すると、白髪混じりの立派な口髭を蓄えたオーナーが直接出迎えてくれた。長い髪をオールバックできっちり固め、後ろに引っ詰めている。


「ようこそお越しくださいました。ご予約されている、道重様ですね?」


 他人行儀な彼の態度に私は眉宇を上げた。もっとも、私は客なのだから接客されるのは当たり前なのだが、大学時代から匠のことを知っている身としては、彼にもてなされる事に相変わらず慣れることが出来なかった。私はいつもの調子で彼に話しかけた。


「すまないな、匠。1時間だけとはいえ、店を貸し切りにさせてもらって」


 相好を崩した匠は、いつもの朗らかな態度に戻ると、私の手を強く握ってきた。


「まったくだぜ、道重先生よ! まあ、年に一度の大切な日だからな。そんな日にいつも俺の店を選んでくれて嬉しいよ」


 匠は口を大きくあけて豪快に笑った。まったく、大学時代はコンビニ弁当か、カップメンしか食っていなかったこいつがフランス料理を作るなんて。世の中どうなるかわからないものだ。
 匠の店は外観こそみすぼらしいが、中に入るとまるで別世界だ。大抵のフレンチレストランは今時な感じで、いわゆる「モダンな雰囲気」というものが多い中、匠の店は一貫として「フランスの小さな宮廷」で、白を基調に金で彩られた壁や柱はロココ様式と呼ばれるものだった。「ロココ風」と言った方が正しいかもしれない。
 高い天井は、ロココ様式の再現度を高めるために2階をぶち抜いて吹き抜けにしたというのだから恐れ入る。その天井からは、無数のクリスタルを纏った豪奢なシャンデリアが吊るされていて、店内を眩いほどに照らしていた。そして、店内の至る所でいかにも高そうな調度品が光を放っている。
 匠の店には「メニュー」というものがない。完全なコース料理で、コースの内容を変更することもできない。すべて店に委ねるしかないのだが、それだけ料理に自信があるということでもあった。口に合わなかったら代金も取らないという徹底ぶりは口コミで話題となり、一年先まで予約で一杯だと言っていた。
 ちなみに、店内での撮影は禁止で、写真を撮ってSNSに上げるなどの行為をすると出入り禁止になる。あくまで純粋にフレンチを楽しんでもらいたいのが匠の願いであり、彼はまさしく〝匠〟の名に恥じることのないプロフェッショナルだった。


「さあ、旦那様。奥様とお嬢様があちらのテーブルで首を長くしてお待ちですよ」


 匠は恭しくお辞儀をすると、由香里と愛実が待っているテーブルへと私を案内した。
 娘がプレゼントを気に入ってくれるといいのだが――。


 やけに冷えるなと思い空を見上げると、細かい雪がちらついていた。匠の店を出た私は、車が行き交う道路脇の歩道を歩いていた。白銀のヘッドライトと赤いテールランプが交差しては消えていくのを横目に眺めながら、ある場所を目指して。


『来年のこの日に、また来るのか?』


 見送りのために店の外まで来てくれた匠は、寒さに震えながら私にそう訊いてきた。背中越しに振り向いた私は、暫くの間をおいてから『いや』と唇を震わせて匠に向き直った。眉尻を下げて私を見つめる匠の瞳は、どこか寂しげだった。


『もう来ない』


 そう告げると、匠は静かに目を閉じて『そうか』とだけ言って、それ以上は何も訊かなかった。


『大輔ならいつでも大歓迎だから、遠慮なくまた来いよ。予約もいらん』


 そう言って髭をいじりながら屈託なく笑う匠は、私の姿が見えなくなるまで見送ってくれていた。


 だんだんと雪が本降りになってきた。先日降り積もった雪が道路の脇に残っている。凍っているアスファルトに足を取られないように、つま先に重心をおきながら慎重に足を動かした。
 今歩いている歩道は広く舗装されて、沿道には街路樹が植えられていた。街路樹は植えられてからそれほど年月が経っておらず、若い木が多かった。今は冷たい風と雪の中で侘しい姿を寒そうに揺らしているが、春になれば薄桃色の小さな花が咲き乱れ、夏になれば目も覚めるような新緑の若葉で埋め尽くされるはずだ。
 もうすぐ目的地だと知らせてくれる丸形の郵便ポストが見えてきた。時代の移り変わりとともに姿を消している丸形のポストだが、この辺りではまだ割と多く見ることができる。それでも私が子供の時に比べたら、かなりの数が四角いポストに代わっていった。
 その丸形ポストを通り過ぎて、さらに150メートルほど歩く。いつの間にか車の通りも減っていた。私は足を止めて顔を上げた。少し、息が上がっていた。
 はっはっと、短い呼吸をするたびに口から白い煙が出ては冷たい夜の闇に溶けて消えていった。吐いた煙の向こうに視線を投げると、スポットライトのように照らされた「ある場所」は今もそこにもあった。
街灯の下には、比較的新しいガードレールが設置されていた。当時はなかったものだ。
 そして、ガードレールの傍には朽ちた花やジュースの缶が溶けた雪から顔を覗かせていた。誰かが供えたものなのだろう。降っている雪が微かに積もり、再び覆い隠そうとしていた。
 私は街灯の下に立ち、漆黒の空を見上げた。まるでここにしか光が存在しないかのように、辺りは静けさと暗闇に包まれている中、白銀の光に照らされた雪だけがしんしんと降り続いていた。


 3年前、ここで妻の由香里と娘の愛実は亡くなった。スーパーへ夕食の買い物に行った帰りだった。当時ガードレールもなく、低い垣根しかなかった歩道を歩いている2人に自動車が突っ込み、そして2人は殺された。原因はドライバーのアクセルとブレーキの踏み間違えだった。
 ブレーキがかかるはずの車が急加速してドライバーはパニックに陥り、前方の車との衝突を避けるためにハンドルをきった。そして、ブレーキと錯覚している足はさらにアクセルを踏み込み、歩道を歩いていた愛実をタイヤの下敷きにして、由香里を民家のブロック塀で圧し潰した。


 車を運転していたのは80代の老人だった。高齢者ドライバーによる事故は毎日のように起きているが、まさか私の家族が犠牲になるなどとは夢にも思っていなかった。連絡を受けて病院で2人の姿を確認したときは本当に由香里と愛実なのかと目を疑ったほどだった。それ程までに2人は無残な姿へと変わり果てていた。
 その日、2人は歩いてスーパーへと出かけていった。いつもは車を使って買い物に出かけているのだが、その日に限って妻の由香里が『最近、運動不足だからたまには歩いて買い物に行かないとね』と珍しいことを言ったのだ。
 近場のスーパーまで歩いて行こうとすると、徒歩で20分くらいは掛かる距離があった。歩きなので愛実を荷物持ちとして連れて行こうとしたが、嫌がった愛実は私の書斎で籠城を謀った。しかし、由香里の『好きなスイーツを買ってあげるから』の一言であっけなく陥落した愛実は、満面の笑みを浮かべて岩戸を開けたのだった。
 その時の私は2人のやり取りを気にも留めず、愛実に書斎を占拠されたためリビングで事務所から持ち帰った仕事を黙々とこなしていた。由香里と愛実の『行ってきます』の声に仕事に集中していた私は『ああ』と素っ気なく返事をしただけだった。それが2人と最期に交わした会話だった。
 もし、あの時『車に気をつけて行けよ』とひとこと言って送り出していれば、もしかしたら由香里と愛実は死なずに済んだのかもしれない。そして2時間後、由香里と愛実は物言わぬ冷たい骸になった。
 絶望感に苛まれた私は、その場に泣き崩れた。身体の震えが止まらず、目に映るすべての物が歪んで見えた。現実を受け入れることができなかった。

 これは夢だ。何かの間違いだ。本当は人違いではないのか。
 これは絶対に由香里と愛実じゃない。
 きっと由香里と愛実は死んだフリをしていて、この損傷も手の込んだ特殊メイクだ。
 きっとそうだ、去年のハロウィンの時もそうだったじゃないか。
 あの時は2人とも血まみれになってリビングに倒れていたから心底驚かされた。
 もう少しで救急車を呼ぶところだった。
 血だと思っていたものは実はシロップで、二人が『テッテレー』と言って同時に起き上がった時は驚きのあまり叫び声を上げて腰を抜かした。もちろんその後は長々と説教をしたが、それ以上に心から安堵もしていた。
今回も二人してふざけているのではないのか。
 そうだ。そうに決まっている。
 また『テッテレー』と言って、腰を抜かす俺を二人でけらけら笑うんだ。
きっとそうなんだ。笑いながら『大成功!』って言ってハイタッチするんだろ?
 そうなんだろ?
 頼むから、
 お願いだから、
 そうであって欲しい――。


――由香里と愛実を殺した奴を、同じ目に遭わせてやりたい。


 愛する妻と愛娘を失った哀しみは、すぐに激しい憎悪に変わった。くる日もくる日も、由香里と愛美を殺した奴を殺したい、タイヤでひき潰して壁ですり潰してやりたい。そんなことばかりを考えていた。
 だが、そんなことをしたところで、気休めになるはずもなく、2人が生き返る訳でもないことは十分にわかっていた。それに写真の中で笑う由香里と愛実を眺めているあいだだけは、激しい怒りも忘れることができた。私は怒りと哀しみと自責の念に振り回されて酒に溺れ、苦悩する日々が続いた。


 ある日、由香里と愛実を殺した老人の家族が私の家へ謝罪に訪れた。老人の息子とおそらくその嫁。そしてなぜか幼い女の子までもがいた。娘なのだろう。小学校低学年くらいだろうか。女の子は母親の足にしがみついて上目遣いで私を見つめていた。
 私は彼らを家にあげてリビングに通したが、もてなすつもりなど毛頭なかった。よくもおめおめと被害者遺族の家に訪れることが出来たものだと、その神経の図太さに感心させられた。しかも幼い娘まで引き連れて。怒鳴り散らされる両親を見て、娘がどう思うのか考えなかったのだろうか。
 私がソファーに腰を下ろすと、立っていた息子と嫁はがばりと床に両膝を着いた。驚いた娘は何が起こったのか、わからないという風に大きな瞳をぱちぱちさせて、両親を真似て同じように両膝を着いた。


『このたびは、私の父のせいで、道重さんの大切な奥様とお嬢さんがあのようなことになってしまい、本当に、本当に申し訳ありませんでしたッ!』


 そう言って、眼を真っ赤にした息子と嫁は両手を着いて深々と頭を下げ、額を床に押し当てた。幼い娘はきょろきょろと目を動かして、それに倣った。


『お、おじいちゃんのせいで、ほんとうにごめんなさい!』


 こんな幼い子供にまで頭を下げられては、こちらも毒気を抜かれるというものだ。しかし、それをわかっていてこの両親が娘にやらせているとしたら、あざといにも程がある。私は何も言わず、ただ虚ろな目で三人を見下ろしていた。
 土下座して謝られたところで、由香里と愛実はかえってこない。事前に連絡も寄越さず、いきなり私の家に来て一方的に謝罪されたところで、この勝手な行動は所詮、彼らの自己満足に過ぎない。とにかく一刻もはやく赦されたい。その一心で頭を下げているだけだ。そう思うと、怒りよりも虚しさが胸に広がっていった。


 ――暫くして、被害者遺族の燃え尽きることのない激しい怒りをぶつけられ、怨讐の言葉が雨あられのように降り注ぐことを覚悟して来た筈なのに、私が何の反応も示さないことを訝ったのか、息子が顔を上げて、震えながら恐る恐る私に目を向けた。
 娘も顔を上げて、どうして良いのかわからないという風に目を瞬かせながら、母親のズボンの袖を引っ張っていた。母親は顔を床に伏せたまま微動だにしない。
 私は先ほどと変わらず虚ろな眼差しで3人を見下ろしていた。そして、止まった時間が再びゆっくりと動き始めたかのように、私は唇を震わせ、酷くしわ枯れた声で言葉を吐きだした。人は、話す相手がいなくなると喉が塞がり、やがて声が出なくなるのだと初めて知った。

 ――結構です。お引き取りください。

 まるで訪問セールスを断るような、それは明らかな冷たい「拒絶」の言葉だった。
 謝罪は受け入れない。それが、私が下した結論であり、彼らへの返答だった。息子は藁にも縋る思いで私を見つめていたが、やがて取り付く島もないと悟ったのか、項垂れて『本当に……すみませんでしたッ……』と、声を振り絞るように言って立ち上がると、深々とお辞儀をしてリビングを出て行った。
 夫の気配に慌てて顔を上げた嫁は、出ていった夫と私をおろおろと見比べてから会釈をすると、娘の手を引いて夫の後を追った。娘は母親に手を引かれながら、じっと私を見つめていた。私はソファーに腰を下ろしたままで彼らを見送ることはしなかった。やがて、玄関の扉が閉まる音がリビングに響いた。

 静けさを取り戻したリビングに1人。こぶしを震わせ、怒りがこみ上げてきた私は、空き缶で埋め尽くされたローテーブルを力任せに思いきり蹴り上げた。テーブルがひっくり返り、空き缶が神社の本坪鈴のようにガラガラと音を立てて床に散らばった。あの家族にも責任はあるが、由香里と愛実を殺したのは彼らじゃない。私は、怒りのぶつけ処がなかった。


 あれから3年。愛実が生きていれば、今日で18歳になるはずだった。私はコートのポケットの中で潰さないように手のひらで包んでいた一輪の白いプリムラをそっと、ガードレールの下の雪に差した。まるでそこにだけ小さな花が咲いたようだった。もう3年なのか、まだ3年なのか。私は由香里と愛実の想い出を手放すことが出来ないまま、今を生き続けていた。


「また、来るよ」


 独り言ちて立ち上がると、コートの襟を立てて来た道をゆっくりと戻り始めた。
「家族ごっこ」に付き合ってくれた匠に、後で礼を言わないとな。


 ふと、彼女のことが脳裡をよぎった。道路の反対側に視線を向けると、看板も何もない四階建ての無機質な建物が、敷地内に一本だけある街灯に小さく照らされて闇の中に佇んでいた。壁に囲まれた小さな部屋の中で、いまごろ彼女はどうしているのだろうか。
 由香里と愛実を殺した老人を死ぬほど憎んでおきながら、いまは5人を殺害した少女の弁護人をしている。〝殺された側〟の人間の気持ちを誰よりも理解しているはずなのに、いまは〝殺した側〟の人間についている。
 それがプロの弁護士だと言えば聞こえはいいのだろうが、人としてみれば、まったく理解できない行動なのは間違いないだろう。
 なぜなら、殺された側の人間だった頃の私も、殺した側を弁護する人間がまったく理解できなかったからだ。同じ弁護士であったにもかかわらずだ。


「プロフェッショナル……か」


 プロフェッショナルの定義とはなんだ? 完璧な仕事をすることか? そうであるならば匠は紛れもないプロフェッショナルなのだろう。店を訪れるたびに彼は料理の腕を上げ、客を満足させるため、更なる高みを目指している。
 ならば、俺はどうなんだ?「プロの弁護士」として一体なにができる? 娘と似ているというだけで、凶悪犯罪者の弁護をするなど、果たしてこれが「プロの弁護士」と呼べるのだろうか。彼女に殺された人間だって、娘と歳が変わらない者ばかりだというのに。きっと被害者遺族だって、いまなお、辛い日々を過ごしているに違いないはずだ。かつての俺のように。それに……


「やめだ」


 いまさらこんなことを考えても、堂々巡りになるだけだ。いまは、自分の仕事のことだけに集中しよう。プロの弁護士として。


初華 死刑を求刑された少女 ~第三章~ (1)に続く

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