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【小説】初華 死刑を求刑された少女 ~第三章~ (1)

(1)

2026年 1月26日
判決日まであと8日


「やかんよーい」


 中村さんの声が廊下に響き渡る。いつも思うのだけど、わたし以外誰もいないのに、なぜわざわざ遠くから廊下全体に響き渡るくらいの大声で言うのだろうか。わたしの目の前で「やかんの準備して」って言えばそれで済むことなのに。規則というのは、いろいろ大変だなと思った。
 暖かいお茶をコップに注いで「ずずっ」と啜った。この歳でお茶の良さを知るなんて、まるでおばあちゃんにでもなったみたいだ。


「配食ー」


 今は昼食の時間だ。そして今日は日曜日だ。否が応にも期待が高まった。
中村さんが視察窓をあけると、つるぴかさんが大きなお椀を視察窓の台に置いた。そして、お椀に手を添えたまま、中村さんからは見えないようにつるぴかさんは「グッ」と親指を立てた。それを見たわたしは、ニヤっと不敵な笑みを浮かべて、小さく親指を立てて返した。
 今日のお昼のメニューは、コッペパンが2個、ピーナッツバター、ウィンナー、ポテトサラダ、ホットミルク、そして小豆たっぷりのおしるこだ。おしるこは事前に「小豆多めで」と、つるぴかさんにお願いしておいたのだ。監視の中、どうやってお願いしたのかは秘密だ。
 お椀の蓋を開けると湯気が立ち上り、ぎっしり詰まった粒あんの甘い香りが鼻をくすぐった。あ、白玉もいつもより2つも多い! これはつるぴかさんにグッジョブを贈らずにはいられない。


 自弁(自費で購入すること)のお菓子以外では、おしるこが唯一のスイーツだ。しかも、日曜日にしか出ない。それも隔週で。コッペパンにウィンナーにおしること洋食なのか和食なのかよくわからないメニューだけど、食べられるのなら、何も問題はない。このメニューは確実に糖分過多な気がするけど美味しいからやめられない、止まらない。
 コッペパンは、真ん中を半分に割って、間にピーナッツバターを挟んだ。最初はパンをちぎってはバターをつけて食べていたけれど手が汚れるし、今の方が断然食べやすい。
 おしるこを一滴残らず飲み干して思わず「ぷはぁ」と息をついた。至福のひとときであった。ごちそうさま。お茶を飲んで甘ったるくなった口をリセットする。


 一息ついて、食器を重ねて視察窓に置いた。さて、唯一の楽しみであるランチタイムも終わってしまった。今日は日曜日だから1日中ラジオが流れっぱなしだけど、今は通信販売の番組で聞いていてもちっとも面白くない。
そういえば、ここに来てからというものほとんど柔軟をしていなかったのを思い出した。流石に体は固くなってしまっているだろうか。
 邪魔な布団を壁においやって、直立の姿勢から左右の脚を前後に摺り足でゆっくり開いて前後開脚をした。余裕でできたけど、やっぱり股関節がちょっと固くなっているのがわかった。


「初華ちゃんなにそれすげぇ!」


 いきなりの大声にびっくりしたわたしは顔をあげた。ここの人たちは普通に声をかけるということが出来ないのだろうか。
 声の正体は宮田くんだった。前後に180度開いたわたしの両脚を見て興奮気味にすげぇすげぇと目を輝かせている。トレーニングをすればこれくらい誰でも出来るようになるんだけど。


「どうしたらそんなに柔らかくなるの? やっぱりお酢を飲みまくってるとか?」


 あるあるだ。しかも間違った知識の。お酢で身体は柔らかくはならない。疲労回復の促進効果はあるけれど。


「そうだよ。お酢を一日に1リットル飲むの。宮田くんもやってみたら?」


「本当に? それでそんなに身体が柔らかくなるなら飲んでみようかな」


 やはり宮田くんは馬鹿だ。愛すべき馬鹿なのかどうかは置いておいて。


「他にも新体操の技とか見せてよ」とねだってきたけど、こんな狭い部屋じゃ何もできない。邪魔だからどっか行って、中村さんに怒られるよと言ったら、宮田くんはわたしの食器を持って残念そうに廊下を歩いて行った。
 開脚をしたままの状態から体を後ろに反らした。ん、これはちょっとキツい。
 床と天井が逆さまに映る。窓の色が青い。今日は天気がいいみたいだ。
上体を起こして今度は前に倒す。ひざに顎をぴったりとつけ、両手でつま先を握った。こうしていると、私立聖フィリア女学院新体操部のことを思い出す。


「今日から、新体操部に新しい仲間が増えることになりました」


 部活動が始まる10分ほど前に、部長の「みんな集まって」の号令にわたしを含め、部員25名が整列していた。
 この時期に、しかも未経験の3年生が新体操部に入部すると知らされた部員たちは、怪訝な顔で見合わせたり、ひそひそと何かを囁き合っていた。当然の反応だった。
 聖フィリア女学院新体操部は全国レベルで、入部するためにはある条件をクリアする必要がある。とは言っても、別に超難関な条件をクリアしなければいけないというわけでもなくて、新体操の経験者であることが入部の必須条件だった。3月の全国高等学校新体操選抜大会や、8月のインターハイを目標にトレーニングや練習プログラムが組まれているため、初心者を基礎から教える時間も暇もないからだ。
 素晴らしい才能があるのなら話は別だけれど、とは言え、やはり何事も一朝一夕で成し得ることはできない。経験こそが大事になってくる。だからこそ、聖フィリア女学院新体操部は初心者の入部は受け付けない。それに、初心者が新体操に憧れて入部してみたもののまともな指導をしてもらえず、貴重な時間を無駄に過ごしてしまうことを考えたら、初心者は入部させない方がお互いのためだいうのが豊嶋先生の考えだった。先生の考え方にわたしも共感していた。一桜のことがある前までは。


 わたしは、「入部の条件」に背いて「わがまま」としか思えない要望を押し通した。
 押し通したと言っても、わたしなりの考えを先生や部長に説明をして、納得をしてもらった上でのつもりだ。そして、何度も頭を下げてお願いをして、それでも2人は渋々という感じではあったけれど、諒承してくれた。ただし、一桜を入部させる代わりにわたしが提示した3つの約束は、必ず守るようにと先生は釘を刺した。


 1つ目は、わたし自身の練習を怠らない事。
 2つ目は、一桜の面倒をしっかり見ること。
 3つ目は、一桜を入部させた責任を果たすこと。


 この3つが豊嶋先生と交わした約束だった。もし、3つの約束のうちどれか1つでも破ることがあれば、一桜を即刻退部にすると先生は警告した。わたしは必ず約束を守ると、先生に誓いを立てた。


「それでは、櫻木一桜さん。前に出て、自己紹介をお願い」


 白い半袖Tシャツに、黒のハーフパンツ姿の一桜は、おずおずと視線を泳がせながら歩み出ると部長の隣に並んだ。一桜はとても背が小さい。もしかしたら部内でも一番身長が低いかも知れない。
 長い黒髪をポニーテールにした一桜は、緊張した面持ちでわたしをちらりと見た。わたしは(がんばれ!)と声には出さずに、小さくガッツポーズをして一桜にエールを送った。頷いた一桜は、ふぅっと小さく息を吐いて顔を引き締めた。


「は、はじめまして。櫻木一桜です。新体操は初めてで、皆さんにはご迷惑をお掛けしてしまうかも知れませんが、一生懸命がんばりますので、その、よ、よろしくおねがいしましゅ!」と、精一杯声をだして腰を九十度に曲げた一桜は、その姿勢のままで固まった。


 がちがちに緊張していたのか、あいさつの最後で一桜は噛んだ。わたしは手で顔を押さえながら(あちゃー)と心の中で嘆いていた。すると、「……しゅ?」と誰かが噴き出すように呟いた声が、わたしの耳に届いた。


 誰? 今一桜のことを笑ったのは。
 むかっとして、笑った相手を見つけようと首を捻った瞬間、すぐ隣から「ぱん、ぱん、ぱん」と大きな拍手が起こった。仕方なくやっているといった感じで、明らかに歓迎していない拍手だった。


 拍手をしていたのは楠田心尊だった。ぱん、ぱん、ぱん、と叩く彼女の拍手に釣られるようにして、周囲からぱらぱらとリズムの悪い拍手が起こった。噛んだことが余程恥ずかしかったのか、一桜は顔を真っ赤にして手をもじもじとさせていた。やがて拍手が終わると、豊嶋先生が一桜の入部についてみんなに詳細を説明した。


「そういうことだから、異例のことではあるけれど、みんなも彼女に良くしてやってちょうだい」


 そう言って締めようとした先生に楠田心尊が声を上げた。


「先生が入部を認めたのなら文句はありませんけど、特例で初心者を入部させるなんて、そんないい加減な事で大丈夫なんですか? しかも3年生になってから? いくら容姿端麗で成績優秀な初華の願いであったとしても、たかだか部員の1人に過ぎない彼女にそんな勝手が許されるのはどうかと思いますけどね」


 文句がないと言っておきながら文句を言っている。わたしへの最大限の皮肉を込めながら。やっぱり心尊は一桜の入部を歓迎していない様子だった。
 わたしと心尊は、中学生時代から犬猿の仲だった。向こうが勝手にわたしをライバル視して敵対心を燃やしているようだけど、わたし自身は心尊のことなんて眼中にない。そもそも実力差だって有り過ぎる。正直、迷惑だった。


「楠田、それはさっき説明したでしょう。櫻木の入部やその後のことついては阿久津が責任を取る。それに、私は阿久津のことを信頼しているわ。だから櫻木の入部を許可した。以上よ」


 豊嶋先生の言葉に納得できない表情を浮かべていた心尊だったが、狐のように吊り上がった細い目をさらに細めて、嫌な笑みを浮かべた。


「へぇ。全部、初華が責任を取るんですか。それは、櫻木さんに何が起こったとしても?」


 心尊の不穏な発言に、豊嶋先生は訝しむ顔をした。


「楠田。それはいったいどういう意味?」


「……別に」と言葉を濁らせた心尊に先生はそれ以上追求することはせず、時間がもったいないとばかりに手を叩いて声を張った。
 自己紹介が終わったあとも、一桜は申し訳なさそうな顔で俯いていた。


「大丈夫だよ。一桜。心尊は性格悪くて最低な奴だけど、部内はいい子も多いから」


 そう言って励ましてみても、一桜の表情は冴えなかった。


「私みたいなのが突然入部しても、みんなの迷惑になるだけなんじゃないのかな……」


「そんなことないって……」


 しゅんとする一桜の肩に手を置いて慰めていると、心尊が近寄って来るのが横目にわかった。なんだよ、もう。あっちいけ、しっし。


「入部おめでとう。一桜。大変だろうけど頑張って。初華先生もね」


 偉そうに腕を組んだ心尊は目を細めて笑った。本当、嫌な奴。
 ていうか今、一桜って呼んだ?


「心配ご無用だよ。心尊。一桜の面倒はわたしがばっちり見るし、自分の練習もちゃんとやるから。心尊は自分のことだけに集中していればいいよ」


「あ、そう。それはありがたいわ。せいぜい頑張ってね。あとで練習不足でしたって、泣き言を言わないようにね。期待のエース」


「そんな言い訳はしないよ。どんな状況でもしっかりと結果を残すのが期待のエースだからね。そうでしょ? 心尊にはわかんないか。エースの経験なんてないだろうし」


 バチバチと火花を散らすわたしと心尊のあいだで一桜はおろおろしていた。


「ふんっ」と鼻を鳴らして心尊は去って行った。
 けっ! 胸糞悪い。唯一、心尊とは友達になれそうにない。
 心尊も新体操の実力者ではあるけれど、それでも「普通」のレベルだ。わたしをライバル視するのは別に構わないけど、ライバルというのは漫画やアニメのように険悪な仲でなければいけないのだろうか。正直そんなの困るし、疲れるだけだ。せっかく聖フィリア女学院に入学したのに、心尊も入学していたなんてショックだった。向こうはどう思っているのか知らないけど。心尊があんな態度じゃ、仲良くしたくてもできないし、別にどうでもいい。それよりもだ。


「一桜。心尊が一桜のこと名前で呼んでたけど?」

 心尊の背中を目で追っていた一桜がはっとしてわたしを見た。


「……楠田さんは私と同じクラスなんだよ」


「え、そうなの?」


 そうだったのか。でも一桜のクラスで心尊の姿を見た記憶が無い。そのくらい、わたしにとって心尊はどうでもいい存在なのかも知れない。


「大丈夫? クラスで心尊に変なことされてない?」


 わたしは小さい子供に話しかけるように一桜の顔を覗き込んだ。わたしと一桜ではがかなりの身長差がある。わたしの問いかけに小首を傾げる一桜の仕草がちょっと可愛かった。


「変なこと? ううん、大丈夫だよ。ありがとう、いっちゃん」


 心尊が一桜のクラスメイトだったのは意外だったけど、わたしは一桜とは中学校からの親友だ。付き合いの長さが違う。心尊が一桜とどの程度の仲なのかは興味もないけど、もし一桜に何かしたらわたしが絶対に許さない。一桜にちょっかいを出すかもしれないから、しっかり見張っておかないと。せっかく入部してくれたんだから、一桜にも部活を楽しんでもらいたいし、新体操を好きになって欲しい。きっと新体操を通して友達だって、できるはずだ。
 一桜が入部した初日からつきっきりで一桜の面倒を見た。とは言っても、わたしにできることはそんなにない。心尊や他の部員が一桜に悪さをしないように眼を光らせておくのが目的だった。
まずは基礎体力づくりと柔軟が最優先だった。一桜の身体がどれだけ柔らかいのか知りたくて前屈を見せてもらったんだけど、一桜の身体は背中に鉄棒でも入っているのかと思うくらいにがちがちに硬かった。


「うーん。一桜、それが限界?」


 一桜は顔を赤くしてうー、うー、と呻きながら両手を必死に伸ばしてつま先に触れようとしているけど、腰が全く曲がっていなかった。これは相当大変な道のりになりそうだ。一桜の背後に立ったわたしは、先に一桜に謝った。


「ごめんね。一桜」


 一桜が「何が?」と不思議そうな顔で見上げた瞬間に、一桜の背中に添えた両手に体重をのせてぐっと押した。


「ああぁぁ――っぃだだだだだ!」


 今まで聞いたことのないような悲鳴を上げた一桜に思わず噴き出してしまい、背中を押す手を緩めてしまった。


「ごめん、ごめん。ちょっと強くやりすぎたかな」


 笑いながら手を合わせて謝るわたしに一桜は「ひどいなーもー」とむくれた。猫がしっぽを踏まれたような叫び声に周りの部員が何事かと注目していた。心尊もこっちを見ながら「やれやれ」と呆れた顔で肩をすくめている。誰でも最初は身体が硬かったんだ。そんな馬鹿にしたような目で見るな。
そう思いながらも、一桜の悲鳴で噴き出した自分を心の中で恥じた。ほんとごめん。こんなことで一桜が新体操を嫌いになってしまったら元も子もない。焦らず、ゆっくり好きになってもらえばいい。


「じゃあ、もう一回。今度はさっきみたいに強くしないから」


「本当? またさっきみたいなのされたら、私、腰の曲がったおばあちゃんになっちゃうよ」


 笑いながら一桜は言った。


初華 死刑を求刑された少女 ~第三章~ (2)に続く

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