【小説】初華 死刑を求刑された少女 ~第三章~ (2)
(2)
一桜が入部して2週間が過ぎたある日、わたしは体育教官室に呼ばれていた。
「阿久津。櫻木を入部させるときに私と交わした約束を覚えてる?」
「……はい。わたしが一桜の面倒を見るってことですよね」
豊嶋先生の鋭い眼差しに委縮したわたしが小さな声で答えると、先生は目を閉じてため息を洩らした。
「それもあるけれど、そうじゃないわ。あんた自身の練習も怠らないという約束のことよ」
椅子を軋ませた先生は、わたしの顔を覗き込んだ。
「あえてこの2週間はあんたの言葉を信じて何も言わなかったけれど、櫻木のことばかりを見ているあんたは、ちっとも自分の練習をしていないわね」
自分でもわかっていることを指摘されて、思わず身体がびくんと跳ねた。
「なぜ?」
『なぜ?』の声に責め立てる強張りがあった。先生の問いかけに無言で目を泳がせていると、先生はまたため息を洩らした。
椅子の「ギシッ」という軋む音がするたびに背中に嫌な汗をかいたわたしは、言葉をさがして口を開いたけれど、出てくるのは苦しい言い訳ばかりだった。
「でも、一桜の面倒はわたしが見なければいけない約束でしたし」
「つきっきりで見ろとは言っていないはずよ。あんたがこの調子だと、櫻木を部に置いておくことはできなくなるわ」
……それだけは駄目だ。一桜と一緒にいられなくなってしまう。なんとかしないと。
「自宅では、しっかり練習していますから」
咄嗟に口から出た言葉に先生は鋭く切り返した。
「そんな嘘を言ってもあんたのためにならないわよ。家でどれくらいの練習ができるというの」
「先生、嘘じゃないです。家の近くに公園があるんです。いつもはそこで……」
先生の視線が一段と鋭くなった。苦し紛れの嘘が通じるはずもない。観念したわたしは先生に正直に話した。
「……わたしが見ていないと、一桜がいじめられてしまうんです」
突拍子もない言葉に驚いた先生は、声を上げた。
「櫻木がいじめを受けているの? 誰に? いじめられているところを見たの?」
早口でまくし立てる豊嶋先生に、わたしは慌てて返した。
「いえ、実際に一桜がいじめを受けているわけではないんですけど、でもわたしがちゃんと見ていないと、一桜は内気な子ですし、どうなってしまうか……」
「何だ、違うのね。」
先生はホッと息をはいて腰を落ち着けた。
「櫻木がいじめを受けていないのなら問題はないでしょう。あんたも櫻木の面倒を見るのはほどほどにして、自分の練習に専念しなさい。8月にはインターハイを控えているんだから」
「そうですけど、わたしが一桜の面倒を見ると約束もしている、わけですし……」
最後の方は声がか細くなって尻切れトンボになった。
「櫻木が今やっているのは基礎体力づくりとストレッチでしょう? なにもあんたが四六時中面倒を見てやる必要はないわ。あんた以外の部員でも櫻木を見てやることはできるはずよ。その間にあんただって自分の練習ができるでしょう?」
「それは、確かにそうですけど……」
わたしの煮え切らない態度に苛々したのか、先生は腕を組んで語気を強めた。
「阿久津。一体何が不安なの。櫻木はいじめを受けていないのでしょう? それに櫻木も新体操部の部員になったからには、他の部員と一緒にやっていかなきゃいけないわ。あんたがつきっきりじゃ、櫻木も他の部員と交流することができないわよ?」
先生に言われてはっとした。確かにそれはそうだ。でも、一桜は基本的に誰とも接したがらないし、相手も一桜のことを無視するかもしれない。わたしが取り持ってあげないと。
「先生」
「なに?」
「わたし、ちょっとくらい練習しなくても大丈夫です。去年だってインターハイでベスト8だったし、今年だって上位には……」
耳をつんざくような激しい音が教官室に響き渡った。豊嶋先生が組んでいた足でスチールデスクを蹴ったのだ。おそらくそんなに強く蹴ったのではないだろうけど、ふたりしかいない静かな教官室では、より大きな音となって響いた。
「そんないい加減な気持ちで新体操を続けるつもりなら、いますぐ辞めなさい」
「そんな、わたしはいい加減なつもりじゃ――」
「黙りなさい」
問答無用とばかりに先生はぴしゃりと言って、反論を許さなかった。
「いい? 阿久津。確かにあんたの実力は本物だし、素晴らしいと思うわ。でもだからと言って練習を怠ってもいい理由にはならない。『ちょっと練習しなくても大丈夫』と舐めてかかっているのなら、いますぐ辞めなさい。それが嫌なら自分が誓った約束はきっちり守りなさい。それに、去年のインターハイで順位を落としたことを忘れたの?」
ちょっと待って、約束を守らなかったらどうしてわたしまで退部することになっているの。わたしが先生に問うと、「約束を守ればいいだけ」と一蹴された。2年生のときのインターハイがギリギリベスト8だったのは、確かにその通りなんだけど……。
「櫻木を部に残したいのなら、そしてあんたが新体操を続けたいのなら、自分が言ったことの責任は最後まで果たしなさい。私はそれを信じて、特別に櫻木の入部を許可したのだから」
先生の言葉にぐうの音も出なかった。
先生の言っていることは正しい。もともとわたしがお願いして、そして自分で約束したことだ。わたしが約束を守ると信用してくれたから、豊嶋先生は一桜の入部を許可してくれたのに、このままでは約束を破ることになる。だけど、わたしが目を離した隙に心尊のヤツが一桜に何かしそうで気が気じゃなかった。でも、そのことを先生に言うのは憚られた。
豊嶋先生はまだ言い足りない様子だったけれど、もうすぐ部活が始まる時間なのもあって、話はそこで終わった。一桜を見るのは一旦やめ、今日から自分の練習に専念するように厳しく言われた。
「寺塚、望月、ちょっとこっちに来て」
ストレッチをしていた2年生の寺塚莉緒と望月陽葵が豊嶋先生に呼ばれた。
莉緒は髪型がショートボブで、さばさばとした性格で明るく、男の子のような子だった。身体は細く引き締まっていて、バネもある。
その莉緒とは対照的に陽葵は、性格は大人しくて肌は色白、若干ふっくらとしていて、少し地味な子だった。肩くらいの長さの髪を縛ってひっつめている。2人とも心尊の中学校の後輩だ。わたしは準備運動をしながら、話をしている3人を見つめていた。
一桜はわたしと離れた場所で柔軟をしている。あれだけ硬かった体も2週間のあいだに少しずつほぐれて、今では両足のつま先を手で掴めるくらいになっていた。自分の体の変化に一桜自身も驚いている様子だった。
先生の話が終わったのか、莉緒と日葵は一桜の隣に座ると一緒に柔軟をはじめた。なにか話をしているようだけれど、ここから3人の会話は聞き取れなかった。もしかしてあのふたりが一桜を見るのだろうか。
わたしが一桜を見てやれない以上、誰かが見なければいけないのだけれど、よりにもよって心尊の後輩である莉緒と陽葵が一桜の練習を見るなんて……。
わたしの不安はさらに募っていった。
「莉緒と陽葵が一桜を見るように先生が指示を出したんですか?」
豊嶋先生に指導してもらっていたわたしは、休憩中に先生に尋ねてみた。他の部員が練習している様子を眺めながら豊嶋先生は答えた。
「そうよ。2人とも選手としてのレベルはまだまだだけど、櫻木みたいな初心者に基本を教えることはできるわ。ひいては、それが自分自身への基礎の復習になってより理解が深まる。だからあの2人に頼んだのよ」
なるほど。もっともな理由に聞こえなくもないけど、それでもわたしは気がかりだった。
「不安なの? ふたりとも楠田の後輩だから」
「それは……」
わたしが苦々しい表情で俯くと、豊嶋先生は苦笑した。
「あんたと楠田は中学の頃から犬猿の仲だったものねぇ。お互いを高め合う上でライバルは大切な存在なのだけれど。もっとも、阿久津にとっては少し物足りないライバルだったかもしれないわね。それにしても、ライバルだからってなにも喧嘩腰にならなくてもいいのにね。そうは思わない?」
確かにそのとおりだ。それは心尊のことを言っているのだろうか。それともわたし? たぶん、ふたりに対して言っているのだろう。
「阿久津。楠田があんたと仲が悪いからといって、あんたの友達である櫻木に嫌がらせをするほどあの子は幼稚じゃないわ。それにさっきも言ったけど、櫻木も他の部員とやっていかなくちゃいけない。櫻木は大人しい子ではあるけれど、弱い子には見えない。もう少し、櫻木のことも信用してあげたら?」
先生の言葉にこめかみが疼くのを感じて、沈んでいた澱が「ぽこん」と音を立てたのが聞こえた。
……信用? 一桜を信用する?
先生は、何を言っているのだろうか。
先生の言っている意味がよくわからない。
信用するもなにも、わたしと一桜は中学校からの親友だ。
お互いを信用していて当たり前だ。それは一桜だって同じだ。
赤の他人である先生に、わたしと一桜の一体何がわかると言うのだろうか。
わたしと先生では一桜について知っていることに天と地ほどの差がある。一桜にはわたしが必要だし、わたしには一桜が必要だ。だから一桜を守るのはわたしの役目だ。なぜならわたしは一桜の親友なのだから。
ほかの部員との交流?
そんなものは先生が心配する必要はないし、わたしがなんとかする。でも、あの3人は駄目だ。とくに心尊。あいつはわたしを目の仇にしているし、そのせいで一桜に迷惑がかかるかもしれない。
結局、先生は一桜のことをなにもわかっていないのだろう。先生はどういうつもりでわたしにこんな話をしたのかわからないが、正直言って迷惑だし、余計なお世話だった。
「大丈夫ですよ。先生。わたしは一桜を信用していますから。それは一桜も」
わたしが抑揚のない声でぼそりと言うと、先生の顔からは笑みが消え、それ以降は何も喋らずに部員たちを眺めていた。
先生の言葉に苛々したわたしは、練習に集中することで気持ちを落ち着かせようとしたけれど、一桜のことが頭にちらついて普段はミスをしないリボンのキャッチを3回も失敗した。当然のように先生からは激が飛び、それが一層わたしを苛立たせた。何が気に入らなかったのか、この日の先生は事あるごとにわたしに駄目だしをした。部活が終わり、練習がうまくいかなかったわたしは、憔悴した足取りで新体操部の部室へと戻った。
「あ、初華ママが戻ってきたよ。一桜」
部室のドアを開けるやいなや、開口一番、心尊が嘲るように言った。部室内には心尊と一桜、そして莉緒と陽葵がいた。
わたしは今まで練習をさぼっていたぶん、居残りで練習をさせられていた。時刻はもうすぐ午後の8時を回るところだった。他の部員たちはとっくに練習を終えて下校している。一桜はともかく、なぜこの3人がこの時間まで部室にいるのだろうか。
「さすがにママは言い過ぎですよ! 楠田先輩! 過保護だとは思いますけどね!」
何がおもしろいのか、今にも転げそうな勢いで莉緒がげらげらと笑う。その隣では陽葵が口元を手でおさえてくすくすと笑みをこぼしていた。わたしは心尊たちの挑発を無視してロッカーを開けると言い放った。
「なに? あんたたちこんな時間まで。さっさと帰ればいいのに」
「いや、あたしたちは帰りたかったんですけどね。櫻木先輩と一緒に」
「一桜先輩が『いっちゃんを待ってあげないと可哀そうだから』って仰ったので一緒に阿久津先輩のことを待っていたんです」
莉緒と陽葵の言葉に眉宇を上げて一桜を一瞥すると、ロッカーに視線を戻した。
「あ、そう。それはどうもありがとう。一桜もわたしのことなんか待っていないで、とっとと帰れば良かったのに」
言った瞬間に後悔して目を瞑ると、ロッカーの縁に額をつけた。ロッカーの扉に隠れて見えなかったけれど、一桜が息を呑んだのがわかった。
「ちょっと。せっかく待っていてくれたのに、そんな言い方は酷いんじゃない? それでも本当に一桜の親友なの?」
心尊が狐のような細い目で蔑むように睨んできた。なぜわたしと一桜が親友だということを心尊が知っているのか気になったけれど、心尊と同じクラスだと一桜が話していたのを思い出した。
一桜と同じクラスだからって、偉そうに……。
着替えが終わったわたしは、ロッカーの扉を叩きつけるように閉めた。
「おーコワ」と心尊が怯えるふりをしたけど、無視して一桜に笑顔を向けた。
「お待たせ、一桜。じゃあ帰ろっか」
冷たい態度をとったお詫びの気持ちも込めて、つとめて明るく一桜に言った。すると、わたしと一桜を遮るように心尊が目の前に立ち塞がって、狐目を細めて「にやにや」していた。こいつ一体なんなの?
「残念。親友の一桜は今日はあんたと一緒に帰りたくないってさ。だよね? 一桜」
狐目をさらに細くして心尊が一桜に微笑みかける。
「え、そんなこと……」
「櫻木先輩、一緒に帰りましょーよ! あ、お腹空いたから帰りにモグバーガーで何か食べていきません?」
「莉緒ったら、昨日もモグバーガーに行ったばかりじゃない」
「いいわねぇ。それじゃ、一桜の入部祝いもかねてモグバーガーに行きましょうか。まだしていなかったもんね? 入部祝い。心配心しなくていいよ、一桜。今日はお祝いだから私が奢ってあげる」
「ええ~いいなぁ。楠田先輩、可愛い後輩にもぜひともお情けをいただきたく!」
「馬鹿言ってんじゃないわよ」
「それじゃ一桜先輩、行きましょう」
「ほらほら早く! 櫻木先輩って本当にちっちゃい! なんだか可愛いなあ」
「莉緒、先輩に向かってちっちゃいは失礼だよ~」
馴れなれしく下の名前で呼ぶ陽葵に手を引かれ、莉緒にぐいぐい背中を押されながら一桜は引きずられるようにして部室を出て行った。後ろ髪を引かれるような視線をわたしに向けながら。
その様子を横目で見ていた心尊は、勝ち誇ったような顔で「ふふん」と鼻を鳴らした。
「それじゃあ、あとはごゆっくり」
そういって心尊は癪に障る笑みを残して去っていった。
外から聞こえてくる3人の笑い声が、とてつもなく腹立たしかった。
「なんなの。あいつら……」
耳が痛くなるほどの静寂に包まれた部室の中で独り言ちた。肩にかけたバックを握りしめた手は白くなってぶるぶる震えていた。
わたしは心尊が閉めたドアをじっと睨みつけていた。どれくらいそうしていたのだろうか。壁掛け時計の長針が「カチ」と音をたてた瞬間に、掴んでいたバックを部室のドアに向かって思いきり投げつけた。撥ね返って床に転がったバックを力任せに踏んで、蹴り上げた。
あいつら、
あいつら!
あたしの一桜を……!
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