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【小説】初華 死刑を求刑された少女 ~第四章~ (7)

(7)


「華永、もう終わろう。おれたち」


 ある日の夕食後、夫が呟くように切り出した。
 下げようとした皿がテーブルの上で大きな音を立て、食べ残しの煮込みハンバーグが皿からこぼれ落ちた。幸い、皿は割れていなかった。
 娘の初華に今の音が聞こえなかっただろうかと暗い階段に視線を向けた。


「何を馬鹿な事を言っているの」


 私は、くだらなそうにため息を洩らすと残飯を片付け、皿を下げた。
この時の私の姓は花苑(はなその)。夫の名は一(はじめ)だった。
 初華の名は、夫婦からとったものだった。


「わかっているだろう。おれが普通じゃないってことは。怖いんだよ。おれは、おれ自身が」


 夫の一は、包帯が巻かれた右手を苦悶の表情で見つめていた。
 思った以上に傷がふかく、軽い物をつかむことはできても、手先や指先を繊細に動かすことは難しいかもしれないと医者に告げられていた。


 夫の右手に深手を負わせたのは、娘の初華だった。
 一週間前のことだった。その頃の私は、アパレルメーカーの社長ではなく、会計士として事務所に勤務していた。連日のように暑い日が続き、仕事が終わってもまっすぐに帰宅というわけにもいかず、蒸し風呂のような暑さの中を買い出しに行かなければならないことにうんざりしていた。しかし、これも自分の務めだと言い聞かせて買い物を終えた私は、食材の詰まった買い物袋を片手に帰路に就いた。暑くて苛立たしいのに加えて、蝉の鳴き声が癪に障った。
 帰宅すると、門扉の前で白髪交じりの中年女性が首を伸ばして家を覗き見ようとしているのがわかった。訝った私は、女性に近づいて声をかけた。


「あの、うちに何か御用でしょうか」


 すると、女性はとび跳ねるようにして振りむいた。


「あ、あなた、花苑一さんの奥様よね?」


「ええ、そうですけど」


 誰だろうか。昼間は仕事で家を空けていて、近所づきあいもあまりなかった。しかし、見覚えのある顔だった。


「あ、わたし隣の杉浦ですけど」


 ああそうだ。お隣の杉浦さんだった。2か月に一度の班清掃でお世話になっているのを思い出した。私はあまり参加していなかったが、夫がよく代わりに参加してくれていた。杉浦さんは夫の一と見知った仲のようだった。


「はあ。それで、杉浦さん。うちに何か御用でも?」


 すると、杉浦さんははっとした表情で私と家を見比べると、ドラマのような「ちょっと、ねえ奥さん!」という感じで手をぱたぱたと振って早口で捲し立てた。


「あの、さっきね、お宅からすっごい悲鳴が聞こえたの! キャーって! あ、違うかな。あ――ッ! って感じ? とにかく悲鳴が聴こえたの! お宅、娘さんいましたわよね?」


「ええ。娘の初華がいますけど」


「そうそう! 初華ちゃんね。 あの子、可愛いわよねぇ。頭も良さそうだし。奥様もお綺麗だし、将来は絶対美人になるわね! うちの孫娘も可愛いけれど、お宅には負けるわねぇ」 


 額をハンカチでおさえながら杉浦さんはしゃべり続ける。なかなか話が進まない人だ。
 初華の悲鳴?
 胸騒ぎと苛々した気持ちが綯い交ぜになった私は、杉浦さんに話の続きをうながした。


「それで、杉浦さん、悲鳴が聞こえたと言われましたけど」


 杉浦さんは「ああそうそう!」と言って手を叩くとさらに早口になった。


「何かあったのかと思って! 初華ちゃん、今一人でお留守番しているのかしら。あんな悲鳴を聞いたら、気になっちゃって。警察を呼んだ方がいいのかしらと思ったんだけど、勘違いだったらご迷惑だし、でも気になるからどうしようか悩んでいたら、お宅さんが帰ってこられて」


 この時間であれば初華が帰宅しているのはわかっていた。それにしても、悲鳴が聞こえたというのは一体どういうことなのだろうか。杉浦さんに会釈をして門扉を潜ると、杉浦さんの心配そうな声が背中に飛んできた。


「何かあったら警察にね! あ、救急車かしら!」


 玄関を開けると、ひんやりとした空気にほっと息をついた。リビングのエアコンがついているのか、玄関にまで涼しい風が届いていた。しかし、すぐにはっとして靴を脱ぐと三和土に上がった。


「初華? いるの?」


 キッチンのテーブルに買い物袋とバックを置いて娘の名を呼んだ。
 風呂場の方から水の音が聞こえたのでシャワーでも浴びているのかと思った私は、風呂場へと向かった。


「初華?」


 洗面所を覗くと、そこにいたのは洗面台に向かって背中を丸めている夫の一だった。
「あなた?」と、私が声をかけると、びくんと肩を震わせて夫が肩越しに振り返った。


「あ、ああ。おかえり。帰っていたのか。ただいまの声が聞こえなかったから気がつかなかったよ」


「ええ、ちょっと。あなた、何してるの?」


 夫は腕を水に曝しているようだった。


「いや、何でもないんだ」


 そう言って笑みを浮かべる一だったが、何か様子がおかしい。
 私は夫に近づいて洗面台を覗き込んだ。すると、洗面台が血で真っ赤に染まっていた。
 夫の手を見ると、右手の人差し指の間から手首までが痛々しいほどに裂けて大量の血があふれ出ていた。


「ちょっと、あなた大怪我してるじゃない!」


「いや、本当に大したことじゃないから」


「そんな訳ないじゃない!」


 怪我の状態を見る限り、家でどうにかなるとは思えなかった。すぐに救急車を呼んだ。
 けたたましいサイレンの音を響かせながら救急車が自宅の前に止まると、何事かと近所の人が集まってきて、その中にはさきほどの杉浦さんの姿もあった。
 あまりにも出血がひどく、体を動かすと血流がめぐって余計に出血するということから、夫は担架に乗せられた。私は救急隊員に付き添うように言われたが、夫の一が「大丈夫です」と言ってそれを断った。


「初華が部屋にいる。おれのことはいいから、初華のそばにいてやってくれ」


 夫がそう言い残すと救急車のバックドアが閉められ、救急車は走り去っていった。
 そういえば、初華のことをすっかり忘れていた。
 夫の酷い怪我を見た私は、初華が悲鳴をあげたこともあって、泥棒にでも入られたのかと夫に尋ねたが、包丁を使っていたらあやまって自分の手を切ってしまったと話していた。
 夫の一は手先が不器用なところはあったが、どうやれば自分であんな大怪我を負わせることができるのだろうかと首を傾げた。自分で意図的に切ったか、もしくは誰かに切りつけられでもしなければ、あんな傷にはならないと思ったからだ。とすると、いったい誰が?
 家には夫の一と娘の初華しかいなかった。そういえば、夫からアルコールの匂いがした。早く仕事が終わって、昼間から飲んでいたのだろうか。それで酔った状態で酒の肴をつくろうと、キッチンに立って怪我をしたのだろうか。まさか酒に酔っての自傷行為、なんてことはないとは思うのだけれど。
 夫のこともだが、初華のことが気になった。呼び止める杉浦さんに愛想笑いを返して家に入った。


「初華、いるの?」


 部屋のドアをノックして娘の名を呼ぶと、中で人が動く気配がした。娘が部屋にいるのは間違いなかった。


「初華、いるのならちゃんと返事をしなさい。呼びかけに対して返事を返さないのは失礼だと何度も教えたはずよ。初華、いるの?」


 わずかな間をおいて「はい」と小さな声で返ってきた。私は安堵のため息をついた。
「入るわよ」と言ってドアを開けたが、初華の姿はなかった。いや、よく見るとベッドの縁に背を預けて床に手足を投げ出すように初華は座り込んでいた。沈みかけている西日は壁を薄赤く照らすだけで、部屋の中は真っ暗だった。部屋の明かりどころか、この暑さの中エアコンもついていなかった。


「こんな真っ暗な部屋でなにをしているの。明かりもつけないで」


 そう言って私は明かりのスイッチに手を伸ばした。


「明かりはつけないで!」


 初華の鋭い声に私の手が止まった。娘がこんな大きな声を出したことにも驚いたが、それよりも反抗的な態度が鼻についた。


「なんなの、その言いぐさは。親に向かって。それにこんな暗い中にいたら目を悪くするでしょう?」


「大きな声を出したのはごめんなさい。でも、明かりはつけないで。蟲がいるから」


 蟲? 何を言っているのかわからなかった。私は構わず明かりをつけた。
 部屋が明るくなったのを確認してから初華に視線を戻すと、左手をベッドと床の隙間に差し込んだのが見えた。


「初華、床に座ると汚れるからやめなさい。だらしのない子ね」


「……ごめんなさい」


 立ち上がった初華は、尻を払ってベッドに腰かけた。


「お父さん、手に大怪我をしてさっき救急車で病院へ運ばれていったわ。あやまって自分で手を切ったと言っていたけれど、初華、なぜお父さんがあんな大怪我をしたのか知らない?」


 初華は下を向いて目を泳がせていた。すると「蟲」と、またつぶやいた。
そういえばさっきも「蟲」がどうとか言っていた。
 初華は床を見つめたまま、ぶつぶつと独り言のように話し始めた。


「怖い蟲に襲われる夢を見て、眼が覚めたら夢と同じ蟲がいたの。お母さん。黒い蟲。ゴキブリじゃないよ。蜘蛛でもない。それよりもっと大きな蟲。それがわたしの脚を登ってきたの。すごい勢いで。くるぶし、ふくらはぎ、膝、毛の生えた五本の脚を動かして。そして最後は太腿で「ピタ」って止まったの。わたし、お祈りしたんだよ? どっかへ行けって。あっちへ行けって。毛虫、大嫌いだったし。そうしたら、お祈りが通じたのか、蟲がどこかへ行きそうになったんだけど、また登り始めたの。さっきよりも凄い勢いで。そうしたら、今度はその蟲がおしりに噛み付いたの。わたしのおしりに。わたし、怖くて大声をあげたの。噛み付かれたけど、痛くなかったの。でもすごく気持ちが悪かった。気持ち悪いから、潰さなきゃって思ったの。毛虫、よく踏みつぶしていたし。害虫だからね。でもね、その黒い蟲は踏みつぶすには大きすぎたの。だからね、武器を探したの。悪い蟲をやっつける武器。でも、小説で読んだみたいな大きな剣はなかったから。でもどこの家にもある小さな剣は、わたしの家にもあったし、どこにあるか知っていたから、取りに逃げたの。でも、黒い蟲も走って追いかけてきたの。小さな剣をみつけたわたしは、それを思いっきり振り下ろしたの。そしたらね、その蟲つぶれたんだよ。ぐちゃって。ギャって断末魔の声を上げて。スカっとしたなぁ。あれね、お父さんじゃないよ。だって蟲だもん。蟲は殺さなきゃ。害虫だからね」


 そこまで話し終えた初華の顔は、笑っていた。さめざめと涙を流しながら。
 肩を大きく上下に揺らして、嗚咽を洩らしていると思っていたそれは、押し殺した笑い声だった。
 初華の様子に背筋がぞくりとした私は、さっき初華がベッドの下に何かを隠したのを思い出して覗き込んだ。隙間から差し込む部屋の明かりをそれは鈍く反射させていた。
 そして、またぽつりぽつりと初華は語りはじめたが、その内容は聞くに堪えられないものばかりで、信じられなかった。
 ショックが大きいどころではなかった。なにかが音を立てて崩れ落ちた気がした。


 まさか、夫の一が実の娘に手を出していたなんて。そんなおぞましいことは、どこか遠い異国の話のように思っていた。優しく、大らかで真面目な夫。冗談を言って、家族を笑わせることを心から楽しんでいるような人だった。その夫に、初華が包丁で切りつけたという事にも衝撃を受けた。
 初華は夫によく懐いていて、夫も初華を甘やかす傾向が強かった。私が初華に厳しい反面、夫が初華に甘いため、今思えばそれが家庭内のバランスを保っていたようにも思う。
 ベッドの下に隠してあった包丁を見つけた私は、初華を激しく叱責し、頬を二度張った。そのときは、夫がそんなことをするはずがないという怒りと、娘が包丁で人を切りつけて傷を負わせたというショックでパニックに陥っていた。
 私の家族がおかしくなってしまったと嘆いた。しかし、私自身もおかしくなっているということを、その時の私は気付いていなかった。今だからこそわかるのだが、当時の私は気付いていなかったのではなく、認めたくなかったのだと思う。
 夫の一は、私の知らないところで何度か初華に手を出していたようだった。日常的にやたらと初華の身体に触れているのは父娘のスキンシップだとしても度が過ぎるのではないかと思ってはいたが、今思えばそれは今回の事件が起きる伏線だった。初華もきゃっきゃと声を弾ませていたが、ときどき眉間に皺を寄せていることがあった。そこで気付くべきだった。
 やがて、夫の性的虐待が強いストレスとなって初華の心に澱のように蓄積していき、あの事件が起きた。当然だが、娘が夫にしたことで警察に届け出ることなどできなかった。それは夫が娘にしたことについても同じだった。家庭内で起きたことだから、家庭内に閉じ込めた。こんなことを世間に知られてはまずいと思ったからだ。
 私は夫の一に嫌悪感も露わに問い詰めた。自分がどれだけ異常な行いをしてきたのか、実の娘で性的欲求を満たすなど、身の毛もよだつほどおぞましいと夫を罵った。夫は弁解もせず、ただじっと俯いていた。
 ある日、夫の一はメンタルクリニックでカウンセリングを受けたいと相談してきたが、私はそんなことはやめてくれと言って許さなかった。初華に対しても同様だった。家族が精神の病にかかり、病院に通っているなどと誰にも知られたくなかった。私自身でなんとかしようと思っていた。もうこれ以上の「失敗」は許されないと思った。


「華永、おれは怖いんだよ。自分自身の欲求が制御できないことがあるんだ」


 夫との営みは、初華が生まれてからはほとんどなかった。身体を求められることは幾度となくあったが、私は応じなかった。もしかしたら夫は初華のために二人目をとも思ったが、なんのことはない。一はただセックスがしたかっただけなのだ。
 夫の一は、欲求不満を解消するために風俗や出会い系サイトを利用していたようだった。仕事で営業に回っている時ですら、欲情したら出会い系やデリバリーヘルスで欲を満たしていたのだという。男である以上、性に対して強い欲求を持つことは当たり前だという事は私も理解はしているが、夫の話を聞いていると、怒りを通り越して情けない気持ちになった。そして、未成年の少女に欲情するというあやまちを犯した。しかも相手は小学生だった。
 老若様々な年齢の成人女性との性を貪り、飽きてきた一の興味は、幼い少女へと向けられた。しかし、不幸中の幸いというべきか、見知らぬ少女に手を出すという最悪な事態だけは避けられた。
 だが、実の娘に手を出したという禁忌を犯した事実に変わりはない。一に襲われた当時の初華は、発育の良い小学5年生だった。


「養育費は、毎月ちゃんと支払うから。もう、風俗通いも、酒もやめる。だから初華も一度病院に診せてやってくれ。通院費も、おれが払うから」


「本当にすまなかった。初華のことを頼む」そう言って、一は小さなボストンバックだけを持って家を出て行った。
 何とか離婚だけは思いとどまって欲しいと説得したが、一が振り向くことはなかった。
 その説得も、世間に離婚したことを知られたくないという、ひどく自分勝手で利己的なものだった。


 一は、家を出るときに約束した通り、毎月初華の養育費を支払ってくれている。それは今も続いていた。しかし、私は一が出ていく間際に言った言葉に従わなかった。
 それがあとに続く「失敗」の始まりだった。まるで一度倒れたドミノがゴールに辿り着くまで延々と倒れていくように。
 あの頃から私はどうかしていた。私の母と同じように実の娘に嫉妬していたなんて。しかも私のほうが悪質なのだから手に負えない。
 夫の一を娘に「とられた」のも娘に嫉妬した理由であると誰に言えようか。身体を求められても応じなかったくせに、そっぽを向かれるのは許せない。あまりの自分勝手さに呆れるばかりだった。
 初華はますます美しく成長し、自慢の娘になっていった。その一方で、娘に対する私の嫉妬は強くなっていくばかりだった。いつしか娘ではなく、同じ「女」として初華のことをみていた。自慢の娘に成長してほしいと願っておきながら「独占欲」が強く、「支配下」に置くことで自分の「欲」を満たすために娘を利用した私は、初華の肉体で「欲」を満たそうとした一といったいどこが違うのだろうか。私は、私の母親以上に醜い母親だった。


初華 死刑を求刑された少女 ~第四章~ (8)に続く


~第四章~ (7)の登場人物


阿久津華永(あくつはなえ)
初華の実母。プライドが高く、自信家。自分にも、他人にも厳しい。完璧主義者で失敗することを恐れている。

阿久津孝彦(あくつたかひこ)
初華の義理の父親。華永の再婚相手。元はと言えば自分のせいで初華が殺人を犯してしまったのではないかと苦悩している。

花苑一(はなそのはじめ)
初華の実父。実の娘と肉体関係を結び、それにより華永と離婚することになる。

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