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【小説】初華 死刑を求刑された少女 ~第四章~ (8)

(8)


 ようやく頭痛が治まってきた。こめかみを押さえていた手をテーブルに置いたのと同時に玄関の扉が激しい音を立てた。何事かと訝しんで立ち上がろうとした私を夫が手でおさえた。


「俺が見てくるから」


 夫の孝彦が見にいってくれたものの、気になった私は立ちあがると玄関へと足を向けた。私が玄関に辿りつくのと孝彦が家の中に入るのは同時だった。孝彦の手には赤く潰れたものが握られていた。


「……トマト?」


「スペインのトマト祭りは今日だったか? そもそも、ここは日本だということがわかっていない人間がいるみたいだな」


「食べ物を粗末にするなんて。バチあたりね」


 そう言って私が力のない笑みを浮かべると、孝彦は「そうだな」と笑って潰れたトマトをゴミ箱に放り込んだ。


「また、こういうことが増えてきたわね」


「ああ。一時期収まりかけたけど、裁判の報道がきっかけで、また増えてきたみたいだ」


「この家も出ていくしかないのかな」と孝彦は呟いた。元夫がかつて住み、そして現夫と初華と住み続けてきた家。いまは娘の初華だけがいない。


 この家に良い想い出はたくさんあったが、すべて黒く塗りつぶされた。毎日のように無言電話やマスコミの電話が続き、世間から数多くの嫌がらせを散々受けてきた孝彦と私は完全に参ってしまっていた。親切にしてくれていた杉浦さんは、初華が逮捕される少し前に亡くなってしまっていた。確か、心筋梗塞だった。


「私たちが、一体何をしたって言うのかしら」


 思わず口からそんな言葉がこぼれ落ちた。


「初華のしてしまったことの一端は、親でもある私の責任よ。それは、わかってる」


 言った瞬間に『違う』と心の中で否定した。親でもある私の責任ではなく、すべては私の責任だ。それに気づいたときには、何もかもが手遅れだった。こんな状況のときですら、娘の責任の一端は親にもあるという物言いをする自分に腹が立った。しかし――


「親の責任として、どこまでも世間から責められて、追い詰められたとしても、それは仕方のないことなのかしら……」


「それは、違うと思いたいけど……」


 ふたりともそれ以上は言葉が続かなかった。しかし、どちらにせよ、ここにはもう長くはいられないだろうと思った。
 初華が逮捕されて、裁判までに1年半近くかかった。世間からどれだけ責められようと、冷笑を浴びせられようと、仕事を辞めて悲嘆に暮れるわけにもいかなかった。夫は事業に失敗してサラリーマンに戻ったばかりでもあったし、私も社長だからと言って裕福というわけでもなかった。生きていくためには働かなければならなかった。
 働いて、働いて、働いている間だけは、事件のことを忘れようと考えていた。しかし、仕事が終わって帰宅すると、否が応にも現実を目の当たりにさせられた。
 待ち受けているマスコミ、そして玄関前に散乱している大量のゴミ。それは郵便受けにも突っ込まれていた。そして、玄関のドアに何枚も貼られた〝人殺し一家〟の張り紙。〝出ていけ〟〝死んで詫びろ〟とも書かれていた。これがもし、被害者遺族のしわざであるのなら致し方ないことだと思った。批判も、中傷も甘んじて受け止めるしかないと考えていた。
 雑誌記者が「ご自宅のこの惨状を見てどう思われますか?」と尋ねてきたことがあった。いったいどんな答えを期待していたのだろうか。全身をズタズタに切り裂かれて山ほどの塩をぶちまけられた気分だった。


 ある日の出来事だった。その日はたまたま早く帰宅した。自宅の玄関前で、近所の住民がゴミ袋から取り出したゴミを投げ込んでいる姿を見たときには愕然とした。
 ゴミを投げ込んでいたのは、小柄な壮年の主婦だった。たしか、杉浦さんと同じように班清掃で一緒になったことがあったのを思い出した。額に汗を浮かべ、トングで道端に落ちているゴミを残さず拾いながら、『ゴミを拾ったり、掃除をするのは住民の義務だからね。ホント、ゴミを捨てる人の気持ちがわからないわね。もし、自分の家の前でゴミを捨てられたらどう思うのかしら? ねえ?』と笑顔で言っていた。
 その主婦が、今、私の目の前で鼻息を荒くして門扉の上からゴミを投げ込んでいる。
 主婦と目が合った。私が見ていることに気が付くと、そそくさとゴミ袋の口を縛り、私をギロっと強く睨んで足早に去っていった。人が、わからなくなった。
 憔悴した足取りで門扉をくぐり、投げ込まれたゴミを拾い集めていると、柱の陰から主婦がじーっとこっちを睨んでいた。人間というイキモノが、何を考えているのかますますわからなくなった。私は、この主婦に何か恨まれるようなことをしたのだろうか。
 マスコミが毎日のように取材に訪れることもあって、嫌がらせが酷いときはとても自宅に居れたものではなかったから、交代勤務で働いている夫の孝彦は安いビジネスホテルや、ネットカフェから会社に通うこともあった。以前の私であれば、そんなみっともないことは辞めてほしいと言っていたであろうが、そんな余裕はどこにもなかった。


「そういえば、手紙を出したよ」


 場の空気を換えるように明るい声で孝彦が言った。


「そう。ごめんなさいね。手紙、私ばかりが書いてしまって」


「いや、いいんだよ。きみは彼女の実の母親なんだから。初華だって、お母さんから手紙が届いたと知ればきっと喜ぶはずさ。それに、きみの方が達筆だし。俺の字はミミズがのたくったような感じだから、むしろきみが書いてくれて助かったよ」


 笑顔の孝彦とは対照的に、私の表情は沈んでいた。


「あの子、手紙を読んでどう思うかしら。私は意地を張りすぎていたわ。初華にも。あなたにも、それに元夫にも。そんな母親からいきなり手紙が届いても、あの子、気持ち悪いと思うだけなんじゃないかしら。母親が娘に嫉妬していたなんて、そんな馬鹿げた話、あると思う?」


「それは……どうなんだろうな」


 夫は腕を組んで唸った。
 昨日、初華の面会に行ったものの、娘はまともに取り合あってくれなかったと孝彦は話していた。そして、初華の「トラウマ」に触れた途端に、娘は態度を硬くした様子だった。
 やはり、初華の心には棘が深く刺さったままだった。その話を孝彦から聞いたとき、私は頭を抱えた。孝彦と初華が今の状況になってしまったのも私の責任だ。前夫と初華との間に何があったのかを孝彦には話していない。
 その初華は、一との「トラウマ」を記憶の底に封じ込めている。一との楽しい想い出も一緒に。娘の心のケアを怠り、忘れてしまったのならそれで構わないと私はそのままにして、一とのことは「なかった」ことにした。ここでも私は同じあやまちを繰り返していた。
 棘を抜くタイミングはいくらでもあったはずだった。棘を完全に抜くことは出来なくても、棘の痛みを和らげることはできたはずだ。裁判の前日の面会でもそれができたはずだった。しかし、不安に顔を俯かせる娘を目の前にしながら、それでもなお、自分可愛さと「体裁」を意識しすぎて娘を冷たく突き放す形となってしまった。
 正直、あの面会の時点でも初華に憤りを感じていたのは間違いなかった。だから、ほんの少し。ほんの少しだけ「お小言」を言って、あとは「母親」として娘に対してすまないことをしてきたと、そう伝えるつもりだった。しかし、そこでもプライドの高さが邪魔をした。娘の不遜な態度に、いつものような説教じみたことしかできなかった。そして、親として絶対に言ってはいけないことを娘に言ってしまった。

 ――初華。あなた、自分の命で償いをしなさい。

 思い出すだけでも血の気が引いた。
 娘は五人の人間を殺した殺人犯だ。それはそれはとても恐ろしいことで、当然、命を以て償うという考えに至るのも何らおかしなことではないと思っていた。しかし、自分という人間を知った今、すべての責任は私にあるとわかっていたにもかかわらず、実の娘に対して「自分の命で償え」と言ってしまった自分自身が恐ろしくなった。


「どうした? 顔色が悪いけど大丈夫か?」


 心配する夫に微笑みながらうなずいた。


「それにしても、なぜ自分の名前を書いて出さなかったんだ? なにも手紙にまで偽名を使って出すことはなかったろうに」


「それは……」


 本当は私も自分の名前を書いて出したかった。娘にはじめて宛てた手紙だ。できることならそうしたかった。


「それだと、あの子、手紙を受け取らないんじゃないかと思って」


「そんなことはないだろ。と、言いたいところだけど、受け取りを拒否する可能性はあるかもな。なんせ、きみの娘だから」


 穏やかな笑みを浮かべる夫に苦笑いしか返せなかった。
 夫の言うとおり、初華は手紙の受け取りを拒否するかもしれない。けれど、偽名ならばどうだろうか。少なくとも拘置所にいるあの子は、私よりも、もうひとりの私の方に信頼を寄せているのではないだろうか。私がそう思っているだけで、実際のところはどうなのか、わからないのだけれど。
 偽名を使うことを思いついたのは、あの子が実父である一の手を包丁で切ったときよりも、もっと小さい頃に読んでいた絵本がきっかけだった。


 ある孤児院を訪れた紳士がみなしごの少女を気に入り、彼女を狭い世界から救い出して大学に通わせた。大学の費用も払い、毎月のお小遣いも与えた。しかし、その見返りとして毎月紳士宛てに手紙を書くように伝え、そして将来は作家になるようにとも伝えた。少女はバラ色のような日々を手紙に書いて、毎月どころか毎週のように紳士に手紙を出した。


 私は毎月、娘の初華に現金の差し入れをした。
 初華の「あしながおじさん」として。そして、赤津猪鹿蔵として。初華が好きだった「あしながおじさん」の文庫本も購入して差し入れた。無駄遣いをしないようにと、差し入れるお金の金額は5000円と決めていた。毎月のお小遣いの半分だから、初華は困っていただろうか。


「それにしても、赤津猪鹿蔵だっけ? なんでそんなヘンテコな名前にしたんだ?」

 夫の孝彦が心底不思議そうな顔で問いかけてきた。しかし、それが当然の反応だろうと思った私は、夫に微笑みながらいった。


「私の好きなシンガーソングライターの名前なの。もうずっと昔に亡くなってしまっているのだけどね」


「華永が好きだった歌手……?」


 私というより、元夫の一が好きな歌手といった方が正しいのかもしれない。私は一に影響を受けただけだ。素晴らしい歌声と楽曲を残してくれたのだけれど、一がカラオケで唄うとすべて台無しになってしまうのは、今思い出しても笑みがこぼれ落ちそうになる。


「うん? そんな名前の歌手は聞いたこともないな。演歌歌手か?」


 首を傾げる夫に、私はふっと微笑んだ。
 窓の外を見ると、雨はあがって雲の隙間から太陽の光が降り注いでいた。
 初華と面会したとき、最後に言い残したあの言葉。
 咄嗟に出たひどい言葉ではあったけれど、あの後にこう続けるべきだったと私は後悔していた。

 ――初華。あなた、自分の命で償いをしなさい。私も一緒に償うから――

 翌日の娘の裁判に、私はとうとう出廷しなかった。
 私のせいであやまちを犯した娘の前で、どんな顔で傍聴席に座っていれば良いのかという想いもあったが、目の前で娘に「死刑」が求刑されるのをみて堪えられそうになかった。
 結局、私はまた「失敗」を繰り返した。
「失敗」を恐れ、娘からも、世間の目からも逃げた。
私は、母親失格だ。


初華 死刑を求刑された少女 ~第五章~ (1)に続く


~第四章~ (8)の登場人物


阿久津華永(あくつはなえ)
初華の実母。プライドが高く、自信家。自分にも、他人にも厳しい。完璧主義者で失敗することを恐れている。初華を追い詰め、人を殺したのは自分の責任だと気づき、自責と後悔を繰り返す日々を過ごしている。

阿久津孝彦(あくつたかひこ)
初華の義理の父親。華永の再婚相手。元はと言えば自分のせいで初華が殺人を犯してしまったのではないかと苦悩している。

赤津猪鹿蔵(あかついかぞう)
毎月、拘置所に収監されている初華に現金を差し入れている。その正体は……。

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