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【小説】初華 死刑を求刑された少女 ~第二章~ (7)

(7)


2026年 1月24日
判決日まであと10日

 喫煙席用の自動ドアを通ると、室内は煙草の煙で白んでいた。ヤニ汚れで黄色くなった空気洗浄機が、今にも壊れそうな音を立てながらガタガタと振動しているが、役割を果たしているのかどうかはわからない。
 おそらく昔は白色だった壁紙も煙草の煙に長年あてられて、まるでみかんを食べすぎた指のような汚い黄色で染まっていた。


「リゾ・バンビーノ」はリゾットがうりのイタリアンカフェだ。名前から小洒落たカフェを連想させるが、カフェというよりは古くからある喫茶店で、今では何処もかしこも禁煙が当たり前の中、この近辺では唯一分煙をしている喫茶店だ。
 ランチタイムはとっくに終わっていて、今は午後のティータイムを楽しむ老人の姿が多かった。席を確保するために待ち合わせの時間よりも15分ほど早く到着したのだが、その必要はなかったようだ。老人が多いと言っても、7席あるテーブルのうち、3つのテーブルが埋まっているだけだった。待ち合わせた相手がすぐに私の姿を確認できるように自動ドア正面の一番奥のテーブル席に座った。


 私の隣のテーブル席では、年金生活でのんびりと余生を過ごしていると思われる老夫婦が賑やかに会話をしているが、お互いに喋りたいことを喋っているだけで会話のキャッチボールができていなかった。向かいのテーブルに座っているベースボールキャップを被った老人は、スポーツ新聞を広げていた。指に挟まっている煙草は、火を点けてから吸われずにそのままになっているのか、3センチほどが灰になっていて、すこしの振動でも床に落ちそうになっていた。
 私は10年前に煙草をやめている。しかし、今日待ち合わせをしている人物が喫煙者なので「リゾ・バンビーノ」で待ち合わせることにした。スーツに煙草の匂いがついてしまうのが気になるが、仕方がない。腕時計を見ると、針は午後2時55分を指していた。


 ガラスの自動ドアに目を向けると、男が室内に入ろうとしているのが見えた。細身で背が高く、服装はグレーのダウンジャケットにベージュのチノパンだった。寝起きなのか、髪の毛がぼさぼさだった。ドア越しに視線を動かして私を探しているのがわかった。
 自動ドアが開くと同時に立ち上がった私は、男に会釈した。男も会釈をしながら速足で歩いてくると、私の向かいの椅子に座った。


「申し訳ありません、阿久津さん。今週のお仕事は夜勤なのですよね? それなのにお呼び立てしてしまって」


 事前に連絡をして待ち合わせしているとはいえ、こちらの都合で呼び出したことをまずは詫びた。


「いえ、大丈夫です。夜勤にはもう慣れましたから。それに夜勤の現場は人も少ないし、仕事しながら少しのあいだ居眠りもできますから」


 そう言って薄く笑う彼の顔には疲れが色濃く浮かんでいた。
 娘が起こした事件のせいで仕事に身が入るはずもない。当然、職場では噂になるだろうし、それが原因で寝不足にだってなっているだろう。本当は、仕事を続けられるかどうかも怪しいのかも知れない。


「昨日は娘さんの初華さんと面会されたんですよね? どうでしたか?」

あまり時間を取らせては悪いと思った私はさっそく本題に入った。


「お恥ずかしい話なのですが、いざ娘を前にすると何を話せばいいのか、わからなくなりましてね。励ますべきなのか、叱るべきなのか。話したいことはいろいろあったはずなんですが……」


 そう言ってコーヒーに視線を落とした彼の表情は冴えなかった。


「娘の初華が人を五人も殺しただなんて、未だに信じられなくて。全然現実感がないんです。だけどそれは紛れもない事実で、娘を目の前にして頭が混乱したというか。娘に対して怒りというよりは、一体どうしてこんなことになってしまったのかと。そればかり考えていました」


 家庭裁判所での審判以外で、彼が娘と対面で言葉を交わしたのは昨日が初めてだった。阿久津初華が拘留されてから、あまりにも時間が経ちすぎていた。
 それに公判前日の母親との面会があれでは、彼女も両親に対して不審な気持ちを抱いたのではないだろうか。だが、彼女が起こした事件のことや、事件後の彼女の態度を考えると、なんとも難しいところではある。


「娘を突き放すようなやり方はやっぱりまずかったんじゃないかと。嫁も感情的になるところがありましたから。だけど、優しい声をかけるのも何か違う気がするし、娘が人を殺したという事実があまりにも重すぎてどう受け取ればいいのか、まったくわからないんです」


 夫人は2回目の公判の前日に面会に訪れたが、公判当日に姿を現すことはなかった。実の娘に対して冷酷な母親という印象ではあったが、それも致し方ないのかもしれない。どんな理由であれ、人を五人も殺した娘の情状証人として証言台に立てるはずがないという気持ちもわからなくもない。被害者遺族の神経を逆撫でする可能性もある。もし、私が殺された側の遺族だったとしたら――。
 証言台に立ったのは、実の母親ではなく、血の繋がっていない義理の父親だった。


「被害者の遺族の方々に、お会いして謝罪するべきでしょうか……」


 彼の言葉に私はゆっくりとした口調で、即答した。


「以前にも申し上げましたが、今はやめておいた方がいいでしょう」


 しかし、と続けそうになった彼を手で制した。


「被害者の遺族が直接の謝罪を求めてきたのであればいざしらず、加害者の親族が一方的に謝罪を申し入れるというのは傲慢とも取られかねません。相手が何か言ってくるまでそっとしておくべきでしょう。殺された側の人間の心中を察してあげてください。それにこれだけ大きな事件となると、迂闊な行動が原因でトラブルに発展する可能性もあります」


 私がそう告げると、彼は肩を落とした。少しきつく言い過ぎただろうか。


「初華に『あのこと』についてまだ怒っているのかと尋ねたんです。今思えば、面会でそれを訊いたのが間違いだったのかもしれません」


 ――あのこと。父親である彼が娘の身体に触れたことか。


「道重先生、私は初華に対してそんなに許されないことをしたのでしょうか? そりゃあ、私は初華と血は繋がっていませんし、年頃の娘ともなれば、父親を煩わしく思うのかもしれません。もしかしたら、変な気を起こしたと娘は勘違いしたのかも知れません。それからというもの、明らかな拒絶と言いますか、いっさい口をきいてくれませんし、顔を見るのも嫌なのか、完全に私のことを避けているんです」


 何とも歯痒いという表情をしながら、彼は苦しそうに言葉をつむいだ。


「そうですよね。それは私もわかります。ですが、こればかりは娘の初華さんが思う事ですから、何とも言えない部分ではあると思います」


私がそう告げると彼はがっくりと項垂れ、膝を握りしめて肩を震わせていた。
 反抗期の娘――か。同じ娘を持つ身としては、彼に同情する気持ちが強い。
 愛実も、私を毛嫌いしている時期があった。反抗期はいつまでも続かないとは思うが、彼の場合は娘と血が繋がっていない要因が強いようにも思える。それに初華自身、なにか「トラウマ」を抱えているのではないだろうか。
 母親の離婚に原因がありそうだが、肝心の母親がそれについて話をしたがらなかった。いや、話しているにはいるが、亭主が浮気をしたのが原因で離婚したと言っているだけだ。それ以上は何も語ろうとしなかった。しかし、それが真実なのかどうかも疑わしい。娘の初華に尋ねても、母親と同じ返答をするだけだった。


 今の彼は娘に対する不安と焦りで頭が一杯なのだろう。死刑を求刑された娘になんと声を掛けたら良いのか、どう接すれば良いのか、毎日苦しんでいる。本当に気の毒なことだ。


「何とかしてあげたいと、励ましてやろうとしただけじゃないか……!」


 悔しそうにつぶやいた彼は、ズボンのポケットに手を伸ばそうとして私の方を見た。
「どうぞ」と頷くと、彼がポケットから取り出したのはソフトケースの煙草だった。
 まだ開封したばかりなのか、ケースの上部を人差し指で叩いて煙草を咥えると、百円ライターで火を点けた。彼のやるせない感情が、吐き出された紫煙に混じって天井に露散した。


 阿久津孝彦の娘である阿久津初華は、私立聖フィリア女学院に入学後、親友の櫻木一桜のことで悩みを抱えていたという。中学校では毎年同じクラスだったのに、高校では別々のクラスになってしまったこと。友達を作ることができない彼女がクラスメイトにいじめられていないかと過剰に心配していること。
 母親である阿久津華永が仕事で家に居ることがあまりないことから、義理とはいえ、父親として悩んでいる娘を何とかしてやりたいと考えていた孝彦は、事業を畳んだあとで求職中なのもあって時間だけはあった。そこで、初華の悩みについて相談に乗ろうとした。
 母親の再婚相手である孝彦と初華の関係は、決して悪いものではなかった。話しかければ普通に応じるし、リビングで一緒にテレビを見て笑うこともあった。
 家の庭先で初華が後方倒立回転を初めて披露してくれた時には、身体のしなやかさと美しさに興奮して惜しみない賞賛の拍手を送った。彼女は『こんなの、別にどうってことない』とくだらなそうに言っていたらしいが、その赤くなった頬には明らかに賞賛に対する照れが隠されていた。


 櫻木一桜のことについて初華から話を訊いていた孝彦は、とある休日の昼食後、リビングのソファーでくつろいでいる初華の隣に何気なしに座った。横目に見ると初華の手にはスマホが握られていて、LINEを開いているのがわかった。指先はフリック入力キーボードに止まったままだった。
 LINEの相手はおそらく櫻木一桜だと孝彦は思った。
 どんな会話をしているのか、孝彦からはよく見えなかったが、短文でのやりとりが多いように感じられた。例えるなら『元気?』『うん。元気』といった感じのごくごく短い文章だ。会話が続かないのだろうか。初華はメッセージを打とうか悩んでいるようだった。


 とりあえず、会話の切り口として孝彦が昼食で作ったペペロンチーノの出来栄えについて初華にコメントを求めると、『少し塩気が多かった』と返ってきた。でも『ニンニクと唐辛子がたっぷりで美味しかった』と彼女は付け足した。『でも、これじゃデートに行けないかもね』と初華が言ったので、孝彦は冗談のつもりで今日は一桜ちゃんとデートなのかと尋ねると、彼女は一瞬何を言われたのかわからない表情をしてから慌てて否定した。『一桜はわたしの親友であって、そんな、ヘンな関係じゃないから!』と言う彼女の顔はほんのり赤かった。そこから、初華の「親友」への悩みについて話を切り出した。ある程度のことはこれまでの会話の中で把握していた。だから、初華の悩みについて孝彦の意見や、彼なりのアドバイスを彼女に伝えた。


 ――一桜ちゃんには、お前が知らないだけでクラスに友達がいるのかも知れない。


 ――たまたま、誰も一桜ちゃんに話しかけていないところを見ただけかもしれない。


 ――お前が気に病むほど、一桜ちゃんにとって深刻なことじゃないのかも知れない。


 孝彦がそう言っても、スマホを見つめる初華の顔が晴れることはなかった。
 腕を組んで暫く考えていた孝彦は「ある事」をひらめいた。そして、この「一言」が彼女の運命を決めた。


 ――そんなに心配なら、一桜ちゃんをお前の新体操部に誘ってみたらどうだ?


 孝彦がそう言った瞬間、初華は弾けたように顔を上げた。そして、瞳を輝かせながら声を弾ませた。


 ――それだよ! 一桜をわたしの新体操部に入部させればいいんだ!


 暗雲が晴れたかのような彼女の満面の笑顔は、孝彦も自然と笑顔にさせた。


 ――どうしてこんなことに気付かなかったんだろう。
 ――部活動でなら一桜と一緒にいられる。
 興奮する初華の表情はまるで夢を見ているかのようにうっとりとしていて、これからの一桜との「楽しいクラブ活動」に想いを馳せて弾む声は喜びに満ち溢れているようだった。本当に初華は一桜ちゃんのことが好きなんだなと、孝彦は微笑ましい気持ちで娘の笑顔を眺めていた。
そして、軽いスキンシップのつもりで孝彦はショートデニムからすらりと伸びる初華の膝に手を添えた。


 ――よかったな。初華の悩みが解決できて。
 そう言った孝彦だったが、ふと不安が頭をよぎった。初華が櫻木一桜を新体操部に誘ったとしても、櫻木一桜がそれに応じるとは限らないと思ったからだ。それに彼女は絵を描くのが好きだと話で聞いているし、運動はあまり得意ではなさそうだった。そんな彼女が、しかも三年生になってから新体操部に入部してやっていけるのか――。
 そんな一抹の不安を憶えた孝彦が、初華にそのことを話そうと彼女の顔を見た瞬間だった。

 初華は笑っていた――。

 悩みが解決した初華の顔にはまさしく〝華〟のような笑顔が咲き誇っていた。数秒前までは。しかし、その〝華〟は咲いたまま凍てついていた。そして、日が沈んで夜になると、美しい花びらを閉じて眠る睡蓮のように、初華の顔から笑顔は消え失せて、無表情へと変わっていった。
 しかし、目は限界まで見開かれ、瞳は瞳孔が開ききってしまったかのように暗く、それはまるで底のない穴のようだった。初華の様子に異様な気配を感じた孝彦が声を掛けようとした刹那、膝に置かれた手がはじけ飛んだ。
初華が手を払いのけたのだ。まるで汚い蟲を払うかのように。全力で。一瞬の出来事と痛みに孝彦は目を白黒させた。払われた手が赤くなって痺れていた。がばっと初華が立ち上がると、傍に置いてあったスマートフォンがソファーの上を跳ねて側転しながら床に転がり落ちた。
 落ちたスマートフォンに目をくれることもなく、初華は大きな窓を暗い瞳で見据えたまま低い声でぼそりとつぶやいた。

 ――気持ち悪い。

 気持ち悪い? 今、そう言ったのか? 初華が? 俺に?
 孝彦は耳を疑った。もしかしたら聞き間違えかもしれない。しかし、確かに「気持ち悪い」と聞こえた。初華を見上げると、口の中で何かをぶつぶつと呟いていた。
 かすかに「……臭い」と言ったのが聞き取れた。その瞬間に初華は弾かれたように駆けだした。「だん! だん!」と激しく足を踏み鳴らしながらリビングを出ると、そのままの勢いで階段を駆け上って行った。そして、勢いよくドアが閉められる音が響き渡ると「あ――ッ!」というくぐもった絶叫が孝彦の耳に飛び込んできた。
 娘の激しい拒絶反応と、奇怪な叫び声に孝彦は彼女の部屋へ駆け出そうとしたができなかった。初華が呟いた言葉が楔となって踏み出そうとした孝彦の足を縛り付けたからだ。


 彼女は孝彦に気持ち悪いと言った。
 何が? ひとつしかない。「父親に触れられたことが」だ。
 しかし年頃の娘には別に珍しくもない反応だ。父親の入った後の風呂には入りたくない。父親の洗濯物と一緒くたにして洗ってほしくない。話しかけられたくない。触られたくない――。
 しかし、先ほどの初華の様子はそれとはまったく異なる感じがした。
生理的な拒絶。もしかしたら、触られたことに恐怖すら抱いたのかもしれない。彼女の反応はそれくらい過剰なものだった。もしかして、血の繋がっていない義理の父親が変な気を起こしたと嫌悪感を抱いたのだろうか。しかし、孝彦は誓ってそんなつもりはなかった。実際はどうなのか、初華本人に訊いてみないとわからない。しかし、その日から初華は孝彦のことを避けるようになり、会話もできなくなっていた。そして、親子の関係がぎくしゃくしたまま、娘は事件を起こして警察に逮捕された。

 孝彦の前に置かれたコーヒーは一度も口が付けられることはなく、既に冷めきっていた。五本目の煙草が灰皿の上でもみ消された。10分で5本は吸いすぎだ。


「今思えば私のせいなんです。私が初華に一桜ちゃんを新体操部に誘ってみたらどうだなんて言ってしまったばっかりに」


 気持ちはわかるが、いまさら嘆いても仕方がない。どちらにせよ、いずれこうなってしまう可能性だってあった。後悔を重ねて時間を巻き戻せるなら、私だってそうしたい。


「娘のあんな態度は初めてですよ。そりゃあ血の繋がった本当の親子ではないし、もしかして何か妙な思い違いをしたのかも知れませんけど、それにしたってあんな反応をされてしまうとさすがに」


 そう言って肩を落とした孝彦は、6本目の煙草を咥えた。娘が殺人を犯して死刑を求刑されている事もそうだが、まともに会話すらできないことのほうが今の彼には辛そうに見えた。


「阿久津さん。手紙を出してみませんか。娘さんに」


 煙草に火を点けようとしていた孝彦が「え」と驚きの声を上げた。


「手紙……ですか」


「そう。手紙です。言葉では相手に伝わりにくいことでも、手紙に書けば伝わることもあります。それに手紙であれば伝えたいことの考えが纏まるし、受け取った方は何度も読むことができます。書いてみませんか? 孝彦さんの気持ちを、手紙に」


 手紙を通して彼の気持ちが彼女に伝われば、彼女の心に何か変化が起こるかもしれない。そう孝彦に告げると、暗く沈んでいた彼の顔に光が差した。6本目の煙草は吸われることはなく、真っ二つに折られて灰の中に埋もれた。


初華 死刑を求刑された少女 ~第二章~ (8)に続く


~第二章~ (7)の登場人物


阿久津孝彦(あくつたかひこ)
初華の義理の父親。華永の再婚相手。

道重大輔(みちしげだいすけ)
初華の国選弁護人。

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