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【小説】初華 死刑を求刑された少女 ~第五章~ (7)

(7)


 わたしはテーブルの前で正座をしていた。ちなみに、ついさっきお昼を食べ終えたばかりだ。お腹がいっぱいだ。いつもなら食事のあとはお昼寝の時間なのだけれど、今はそんな気分になれなかった。
 テーブルの真ん中に置かれた茶封筒に視線を落として目を閉じる。もうかれこれ5回くらい同じ動きを繰り返していた。


 よし、次だ。次で手紙を読もう。深く深呼吸してからゆっくりと瞼を開けて封筒に視線を落とす。
 封筒の表には印刷された文字で阿久津初華様、そして裏には小さく赤津猪鹿蔵と書かれていた。今まで現金や文庫本を差し入れてくれたゾウさんから今度は手紙が届いた。
 それにしても、手紙が届いただけでなぜこんなに緊張するのだろうか。なんだか読むのがもったいないような、怖いような、そんな気すらしてきた。でも迷っていても仕方がないのでとにかく読もう。と、思ったけど封筒の口が閉じられたままでこれじゃ読めない。ハサミはないから、指で慎重に封を破いた。

 拝啓 阿久津初華様
 初めまして。赤津猪鹿蔵と申します。突然のお手紙失礼致します。さぞ驚かれていることでしょうね。何処の誰ともわからない人物から差し入れをされるなど、初華さんも当惑され、不審に思われたことではないでしょうか。
あなたは五人の尊い命を奪った恐ろしい殺人犯ではありますが、そうしてしまったことにも何か理由があるのではないかと、私は常々感じておりました。生まれついての殺人鬼などこの世に存在しません。きっとこれまでに身の上で何か不幸があったのが原因だろうと。しかし、理由はどうあれ、あなたが犯した罪であることに変わりはありません。罪を償って、立派に更生して欲しいと切に願っております。
 拘置所ではなにかと生活に不便があるとお聞きしました。しかし、差し入れる物にも制限があると伺いましたので現金を差し入れることにしました。お役に立てましたでしょうか? お金があればお菓子なども購入できるそうですね? 無駄遣いをして、お菓子ばかりを購入されていませんか? くれぐれも食べ過ぎに注意して、お体をご自愛くださいね。
 さて、長々と書いてしまいましたがもう少しだけお付き合いください。あなたも長い拘留生活で心苦しい思いをしておられるかと存じます。気晴らしに、ではありませんが、お手紙を書いてみませんか? 私も今手紙を書いていて感じたのですが、文章を書くというのは中々に頭を使い、また、それが楽しくもあります。私宛に手紙を書いて下されるのであれば、それはそれで大変嬉しい限りなのですが、もしよろしければお友達に手紙を書いてみませんか。あなたともっとも係わりが深かったお友達に。そして、そのお友達だったお友達にも。もしかしたら、おつらいお気持ちを思い出されるかもしれません。しかし、それをすべて手紙に書くことによって、初華さんのつらいお気持ちも、もしかしたら少しは和らぐかもしれません。書いた手紙は出さなくても結構です。ただ書くだけで良いのです。ぜひ試してみてください。
 最後になりますが、さきほど申し上げた通り、あなたの罪は断じて赦されるものではありません。だからこそ自分の罪を重く受け止め、深く反省し、そして罪を償ってまた社会へと復帰して頂きたいと心から願っております。
訳あって、あなたに私の姿をお見せすることができないのは大変心苦しいのですが、私は常にあなたの傍にいて、あなたを見守っています。

                         敬具 赤津猪鹿蔵

 ゾウさんの手紙を読み終わると、何か暖かいものがじんわりと心に染み込んでいくようだった。無機質な印刷文字なのに、血が通っているみたいだった。いつの間にか手のひらで顔を擦っていた。すごく優しい人みたいだ。文章から人の好さを感じられる、まさしく「紳士」だった。
 ゾウさんは手紙の中で「お友達に手紙を書いてみないか」と言っていた。手紙を書くなんて、まるで本当に「あしながおじさん」みたいだ。ただ、手紙を書く相手はゾウさんではなくて「お友達に」というところが、なんだか変わっているなと思った。
 深くかかわっていた友達となると、思いつくのは一桜しかいない。そして一桜の友達となると心尊を思い出した。それと、莉緒と日葵も一桜の友達ということになるのだろうか。友達というよりも、部活動の後輩のような気がする。でも、友達のように仲が良かったのは確かだった。


 また心が「もやもや」した。ゾウさんが言う「お友達」というのは全員死んでしまっている。死んだ人に手紙を書いて、意味があるのだろうか。わからないけど、もしかしたらゾウさんの言うように気晴らしになるのかも知れない。
 私物入れのバックから便箋とボールペンを取り出した。ここに来てから購入したものだけど、今まで一度も使っていなかった。文章を書くなんてすごく久しぶりな気がする。便箋の端っこで試し書きをしてからペンを立てたけど、そこで動きが止まった。
なんて書き始めたらいいんだろう。いざ書こうと思ったら、すぐには思い浮かばなかった。でも、一桜に手紙を出すわけじゃないから深く考えずに書こうと思った。そう思うと、鼻の奥がツンとした。

〈拝啓 櫻木一桜様 お元気ですか〉


 涙がこぼれ落ちそうになった。お元気ですかって、死んじゃってるのに……。
 洟を啜って続きを書いた。とにかく何でもいいから書いた。
初めて一桜と出会った日の事。一緒に遊んだこと。吊り橋で滝を見て感動したこと。受験勉強を一緒に頑張ったことや、記念の卒業旅行に行ったこと。そして、私立聖フィリア女学院に一緒に通うようになったこと――。


 さっきまで床を照らしていた日差しが今は壁を照らしていた。手紙は新体操部のことについて綴っていた。便箋は五枚目になっていた。けれど、新体操部のことになってからだんだん筆が重たくなってきた。書くのに夢中になっていて気が付かなかったけれど、いつの間にか便箋は、一桜に対する不満の文字で埋め尽くされていた。
 なぜ心尊たちとばかりと仲良くするの、もっとわたしと仲良くして、どうして絵ばかり描いているの、もっと真剣に新体操を好きになって欲しい、わたしが必死に先生に頭を下げたのだからと、そんなことばかりを書いていた。
 また「もやもや」が心に立ち込めてきた。ふと、ペンが止まった。一桜がいじめられていたことについて書こうとしたけれど、何も思い浮かばなかった。一桜は「いじめ」が原因で自殺したんじゃなかったんだっけ……?

『それは、一桜ちゃんが彼女たちにいじめられているところを見たのかい? それとも、一桜ちゃんが初華ちゃんに相談したのかな? 三人にいじめられているから助けてほしい。とか』

 一瞬、宮田くんの声が頭の中で響いたと思ったら、「もやもや」が積乱雲のように膨れ上がった。あのときはよくわからなかったから「わからない」と答えた。でも、今ならはっきりとわかる、気がする。
 違う、もともとわかっていたはずだった。一桜は「いじめ」なんかで自殺したわけじゃない。一桜は誰からもいじめられていなかった。じゃあ、なぜ死んだ?
 わたしは一桜に恋心を抱いていた。だから、余計に「独占欲」が強くなった。でも「ゆずったら」あきらめないといけないから絶対に「とられないように」していた。「とられないように」するには一桜にわたしのことをもっと好きになってもらう必要があった。新体操をもっと好きになってもらう必要があった。わたしは一桜の机に置かれたスケッチブックを冷たい眼で見下ろしていた。一桜がいつも肌身離さず胸に抱いていたスケッチブック。


 ――邪魔だな。これ。


 積乱雲になった「もやもや」の中に小さな影が滲んだと思った瞬間に、鋭い光がわたしの顔を掠めた。まるで野球のボールが顔面に当たる瞬間に条件反射で躱すようにうしろへ飛び退いた。背中が壁に当たった衝撃で息が詰まった。
 西日を顔に浴びたわたしは、咄嗟に窓を見た。すりガラス越しでも冬の太陽の光は眩しかった。あのときも、西日に目が眩んで周りが暗くなった。すごく暑かった。そして足には蟲が――。

 ――なんなの。あいつら。気持ち悪い。蟲だ。あいつラ、気持ち悪イ蟲ダ。蟲ハ潰サナキャ。害虫ダカラネ。

 まるで壊れた蓄音機のように音がゆっくりになると、最後は低い音になって掠れて消えた。窓を見つめていたら、突然太陽が爆発したかのような、凄まじい熱量をもった巨大なフラッシュを体一杯に浴びたわたしは、あまりの光の強さに目が潰れ、熱に焼かれて体が燃え上がってしまった。火事の業火で体を焼き尽くされた、心尊のように――。


 身体についた火を消すように、冷たい雨が肩に降り注いでいた。
それほど強くない雨。風も強くはないけれど、今は立ち入り禁止になっているだろうなと思いながらペダルを漕いでいた。
 峠道を傘さし運転しながらペダルを漕ぐ足に力を込める。傘さし運転が先生に見つかると翌日は生徒指導室行きだけれど、天気も悪いし、こんな場所に先生は来ない。
 きつい上り坂を登り切ればあとはいつもの下り坂だった。らくちんだけど油断してると通り過ぎてしまうし、雨でアスファルトが滑りやすくなっているから転ばないように後輪のブレーキを絞りながらゆっくり下った。
 傘をさしていて視界が悪くなっていたこともあって、通り過ぎたと気がついたのは滝の落ちる音が右側頭から聞こえてきた時だった。音の方に視線を向けると、藪の隙間から赤い傘がくるくる回っているのが見えた。
 自転車のスタンドを立ててから濡れた石段を下りると、途中で足を取られそうになった。さっきよりも少しだけ雨が強くなっていた。赤い傘は吊り橋の手前でくるくると回っていた。


 ――ごめん。一桜、待った?


 すると、くるくる回っていた傘がピタっと止まって微かに「うん」と聞こえた。一桜の小さな体は大きな赤い傘にすっぽり隠れてしまっていて足元しか見えなかった。


 ――ごめんね、それにしても一桜、歩いてここまで来たの? 結構、距離あると思うんだけど。大変だったんじゃない? それにこの雨だし。


 一桜の傘は止まったままだった。風が少し強くなってきた。


 ――滝、みたくて。また。いっちゃんと一緒に。


 滝? 滝を見るのは全然構わないのだけれどなぜこんな天気の悪い日に?
そう問いかけようとした瞬間に「いこ」と一桜が囁くと、また傘がくるくると回りだした。立ち入り禁止の札が掛っているポールの脇をすり抜けて、一桜はすたすたと歩いた。傘に隠れて一桜の姿は見えなかった。
 吊り橋のワイヤーに掴まってこわごわと「カニ歩き」をしている中学生の頃の一桜を思い出したけれど、今の一桜は普段歩くスピードよりも速い足どりで吊り橋の上を歩いていた。


 ――ちょ、一桜! そんなに早く歩いたら危ないよ!


 わたしは一桜に向かって声を上げた。すると、傘がピタっと止まってわずかに傾いた。傘のあいだから少しだけ、一桜の横顔が覗いて見えた。


 ――なに? いっちゃん怖いの? カワイイとこ、あるんだね。


 そう言った一桜の唇は歪んでいるように見えた。
 その態度にむっとしたわたしは、何も言わずに一桜の横に並んだ。
 並ぶ瞬間に一桜はさっと傘を戻した。また傘の「てっぺん」しか見えなくなった。


 ――やっぱり、ここの滝はすごいね。


 感嘆した声で一桜は言った。雨で水量が増した滝は、凄まじい轟音と水飛沫をあげながら下に落ちているために一桜の声がよく聞き取れない。


 ――一桜、もう帰ろう? 雨も風も強くなってきたしさ、危ないよ。また天気のいい日に来よう?


 一桜は何も言わずに滝を眺めていた。


 ――いっちゃんさ、新体操、好き?


 一桜の唐突な質問に目を瞬かせた。新体操? もちろん好きに決まっている。


 ――新体操? 好きだけど、なんで――。


 ――私は絵を描くのが好き。


 わたしの言葉を遮るように一桜は声を重ねた。それはもちろん知っている。一桜が何を言いたいのかわからなかった。


 ――新体操、楽しかったなあ。でも、やっぱり絵を描くほうが、私は好きだなあ。


 一桜の意図していることが読めずに黙っていると、「かえろっか」と踵を返して一桜は歩き出した。慌てて後を追ったわたしは背後から声を掛けた。


 ――一桜、絵を描くのもいいけどさ、もうちょっと新体操頑張ろうよ。絵なんていつでも描けるしさ。新体操って、ほら、今しかできないから――


 そう言った瞬間に白い塊がわたしの顔面にぶち当たって舞い散った。けれど痛みはなかった。そして、鋭い何かが雨粒を弾きながらわたしの鼻先を掠めて空をきった。咄嗟に身体を反らして足を滑らせたわたしは、したたかに尻もちをついた。


 ――アンタでしょ? これやったの。


 頭上から降ってくる聞いたこともないような一桜の低い声にわたしは慄いた。一桜の手にはカッターナイフが握られていた。
 足元には紙吹雪のように散らばった細切れが散乱して、ウサギの目がわたしを睨んでいた。


 ――アンタがやったんでしょ? て訊いてんだよ!


 ビクっと身体を震わせて一桜を見上げると、いつものような可愛い笑顔ではなく、酷く醜いものを見るような歪んだ顔でわたしを見下ろしていた。


 ――なんで、一桜がこれを……。


 わたしが声を震わせていると、一桜はカッターナイフを握りしめたまま両手を顔にあてた。


 ――あたしさ、これでもがんばったんだよ? 人付き合いニガテだけど転入したばかりだし上手にやんなきゃって。親友? うざったいなと思ってたけど別に四六時中一緒にいるわけじゃないし? 友達増えるのも、まあそれもいいかなって思ってた。でもさ、なんて言うのかな。ちょっと調子に乗りすぎなんじゃないの? あたしが可愛くうんうん言ってるからってさ。あたしはアンタの「おもちゃ」じゃないんだよ。


 顔を覆った指の隙間から血走った一桜の眼がわたしを見下ろしていた。すると、ふっと一桜の眼から力が抜けた。


 ――いっちゃん。うちね、私が小さいころから貧乏なの。お父さんもお母さんも頑張って働いてるんだけどね。だからペットも飼えないの。本当はウサギが欲しかったんだけど、私のわがままでお父さんとお母さんを困らせるわけにはいかないから。それに聖フィリア女学院の月賦を払うのも大変みたいなの。だから絵を描いていたの。絵にしておけば、ずっとそこに居てくれるし、死ぬこともないから。それなのに。
 そう言った一桜は身体を激しく震わせて目を剥いた。


 ――それなのにアンタが殺したんだよ! この子たちを! ビリビリに破いて! あんなに「親友」してやったのに! 馬鹿! 裏切者!


 一桜の凄まじい怨嗟の言葉を浴びせられて、わたしはガタガタと身体を震わせるしかなかった。一桜を見上げて、震える唇をなんとか動かした。


 ――ご、ごめん。でも、わ、わたしは一桜のためにと思って、だけど、なにもこんなことで……。


 ――もういいよ。今思えば、聖フィリア女学院に入学したのも失敗だったよ。だって、学校はちっとも楽しくないし、勉強は全然わからないし、月賦のことでお父さんとお母さんを困らせるだけなんだもの。本当は絵さえ描いていれば楽しいはずだったのに。


 天を仰いで呟いた一桜は膝を折った。
 一桜の顔がわたしの鼻に触れるくらい近づいてどきりとした。
 長くて黒い髪が雨粒を弾きながら散らばり、まるで黒い華が咲いたみたいでとても綺麗だった。
 一桜の顔はお人形さんのようにとても可愛かった。
 けれどお人形さんのようにとても冷たかった。
 ガラス玉のような大きな瞳が私の瞳のなかをじっと覗いていた。


 ――いっちゃんさ、本当に自分がクラスの人気者で、友達がたくさんいるとおもってた?


 一桜の言葉に、わたしは雨に濡れた目を見開いた。


 ――私にはいっちゃんがおともだちに愛想を振りまいてるのが滑稽に見えて仕方なかったよ。いっちゃん必死だったよね。好かれようとして。困ってる人を助けたりしてたっけ。いっちゃん気づいてた? いっちゃんが声をかける「おともだち」はいてもいっちゃんに声をかけてくれる「おともだち」はひとりもいなかったことに。
 わたしはおともだちが沢山いるクラスの人気者?
 笑っちゃうよね。そう思ってるのはいっちゃんだけだよ。みんなね、鬱陶しかったんだよ。なにかやろうとするたびにいっちゃんが近寄ってきて邪魔だって言ってた子もいるんだよ? でもさ、無下にするのも悪いから、みんな気をつかってたんだよ。優しいよね。いっちゃんさ、人に親切にするのはいいんだけどさ、いちいち押し付けがましいんだよ。


 まあ、そんなことはいいやと言って、一桜はわたしの頬にカッターナイフをあてた。ナイフの冷たい感触に心が凍り付いたわたしの様子を見て、一桜は満足そうに目を細めた。


 ――いっちゃんも、この子たちみたいにばらばらにするよ。それでおあいこ。いいよね?いっちゃん。私の親友でしょ? 一回くらい、私のお願い聞いてよ。いいでしょ? ねえ。


 無表情のままで一桜が告げると、カッターナイフを逆手で握りしめて大きく振りかぶった。それは刑事ドラマで人を殺すシーンそのままだった。ナイフが振り下ろされた瞬間に無意識にうしろへと腕を伸ばして身体を引きずると、ギリギリのタイミングでナイフを躱した。両脚の間に突き刺さったナイフを見た瞬間に、恐怖で全身の力が抜け落ちそうになった。
 一桜は凄まじい叫び声を上げながら、覆いかぶさってきてナイフをもう一度振り下ろしてきた。ナイフを握っている手首を咄嗟に掴んで抑え込もうとしたけれど、一桜のものとは思えない凄い力だった。わたしは膝を曲げ、一桜とわたしの体の間に差し込んだ。


 ――やめて! 一桜! お願いだから!


 ――だいじょうぶだよ。わたしはいっちゃんのたったひとりの「親友」なんだから。いっちゃんをばらばらにしたら、わたしもそっちにいくよ。


 一桜の血走った眼は瞳孔が開ききっていて、歪んだ口の端は白く泡立っていた。握った一桜の手首がじりじりと顔に近づいてきて刃先が瞳に触れそうになった瞬間、渾身の力を込めて差し込んだ足を一桜に向かって伸ばした。それと同時に、山からの吹きおろしが谷間を駆け抜けた。
 一桜の小さな体は木の葉のように舞って吊り橋を滑っていった。そして、体の半分が吊り橋から飛び出した瞬間にさらに強い山の風が吹き荒れた。

 まずい――!


 完全に橋から飛び出した一桜の身体をわたしは左腕一本で支えていた。
肘が擦り剝けて血が滴っていた。一桜は見た目どおり、軽かった。しかし、このままでは一分も持たないと思った。せめて両手で一桜を掴むことが出来ればと右腕を伸ばそうとした。


 ――い、いっちゃん……。


 わたしを見つめる一桜の瞳は恐怖に見開き、その顔は蒼白だった。


 ――どうして。


 そう呟いて瞳を震わせる一桜にわたしは笑顔を返した。


 ――どうしてって、一桜は、わたしの親友だから。


 苦痛に顔が歪んだ。濡れた手がじりじりと滑っていく。限界だ、このままじゃ、もう持たない。


 ――お願いだから、一桜、もう片方の腕を伸ばして……!


 そうは言ったものの、少しでも一桜が身体を捩った瞬間に掴んでいる腕がすっぽ抜けてしまいそうだった。絶対に離すまいと、握りつぶすくらいのつもりで手に力を込めた。
 一桜が腕を伸ばそうとしたそのとき、三度目の強い山風が一桜を襲った。まるでミノムシのように身体を揺らした一桜だったけれど、わたしは歯を食いしばった。
 そして、次の瞬間、わたしの耳にその声は届いた。


 ――て、すけて。


 それはか細い声なのに、滝の轟音や、吹き荒れる風の音を掻き分けてわたしの耳にはっきりと届いた。そして、次の瞬間、滝の音と風の音が完全に消えた。


 ――たすけて、みっちゃん――。


 わたしは、首を傾げた。
「みっちゃん」? 「みっちゃん」とは、誰の事だろうか。
 わたしは初華だから「いっちゃん」だ。
 心に沈んだ澱が、静かに泡立った。
 わたしを見つめる一桜の目は、飛び出さんばかりに限界まで開いていた。
 一桜の顔は、蒼白を通り越して「白」だった。
 一桜の瞳に映るわたしの顔は笑っていた。
 さめざめと涙を流しながら、声を殺して笑っていた。


 ――ゆずっちゃった……とられちゃった……また……。


 視界の隅でゆらゆらと揺れる白い手が、わたしを探し求めていた。
 一桜の口が、まるで餌を求める鯉のようにパクパク動いていた。
 一桜の声は、わたしの耳に届かなかった。


 ――いいもん……あたらしいおもちゃで遊ぶから……。


 一桜の口の動きが、まるでビデオの早送りのようにぺちゃくちゃと動いていた。そして必死に手を伸ばしながら、自分の腕とわたしの顔を交互に見比べて、壊れた人形のように顔をぐるぐると動かしていた。


 ――こんなおもちゃ。もういらない。


 まるでそれが自然なことのように、一桜の腕はわたしの手をするりと抜けた。
 一桜は、自分の腕を見つめていた。すごく不思議そうな顔をして、酷く緩慢な動きで。
 すべてがゆっくりになった。降り注ぐ雨の一粒一粒が暗く光っているのがわかった。
 滝の飛沫が、重力に逆らって空に登っていくように見えた。
 一桜はゆっくりと、二回瞬きをして、わたしを見た。そして、この世の者とは思えないような凄まじい形相でわたしを睨んだけれど、それも一瞬のことで、目玉が飛び出しそうなほどに目を見開き、凄く哀しそうな表情で、暗い穴に吸い込まれていって消えた。


初華 死刑を求刑された少女 ~第五章~ (8)に続く


~第五章~ (8)の登場人物


阿久津初華(あくついちか)
聖フィリア女学院の女生徒とその家族を殺害し、死刑を求刑された少女。Y拘置所に収監されている。中学校からの親友である櫻木一桜を新体操部に招き入れた。

櫻木一桜(さくらぎちはる)
他県から転校してきた少女。阿久津初華とは親友で、楠田心尊はクラスメイト。押しに弱く、人付き合いがあまり得意ではない。

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