【小説】初華 死刑を求刑された少女 ~第五章~ (8)
(8)
一桜が暗闇に落ちていって見えなくなった瞬間に、滝の轟音と風の唸る音がよみがえった。まるでミュートにしていたヘッドフォンが一気に最大ボリュームになったときのように。
吊橋の上で四肢を投げ出して鉛色の空を見つめていた。
土砂降りの雨と風に舞った滝の飛沫が全身を打ち据えていた。
谷間を流れる川は茶褐色の濁流になっていた。
轟音に交じって甲高い音に鼓膜が震えたのを感じたわたしは、音のした方へとゆるりと暗い目を向けて体を起こした。
瞼の隙間から流れ込んでくる雫を拭って目を凝らした。階段の近くの茂みの中で、ふたつの白い背中が土手を登っていくのが見えた。ひとりは転んだのか、体の半分が泥にまみれて茶色く汚れていた。
あの制服は、聖フィリア女学院の――。
足を滑らせながら、土手を登りきったふたりが慌てて自転車に跨がっているのが樫の木の間から見えた。傘もささずに自転車を発進させてすぐに止まると、ガードレールの上からひょっこり飛び出た顔がふたつ、こっちを覗き見た。わたしと目があったふたつの顔は、すぐにペダルに足を乗せて走り去った。わたしは暗い目でそれを見送った。そして一桜が落ちていった谷に視線を戻した。頭の中に霧がかかっているようだった。
あいつら、なんで此処に。もしかして、見られていた?
あのふたりに見られていた……見ていた……
見ていたのに、一桜が落ちそうになっているのを傍観していたのか? わたしが必死に助けようとしたのに、見ているだけだったのか? わたしから一桜を「奪い取って」おきながら一桜を助けようともしなかった。あの二人は見ているだけだった。
見て、それからどうするつもりだ?
あいつのところへ行くのか? 行ってどうするつもりだ?
わたしが一桜を殺した、とでも言うつもりなのか?
心臓がはじけたのかと思うくらいに激しく鼓動した。
わたしが一桜を殺した? 違う。あいつらがわたしから一桜を「とらなければ」はこんなことにはならなかった。あいつらが手を貸せば一桜は死なずに済んだ。
「ゆずらなければ」一桜は死ななかった。ゆずったわたしの責任だ。そしてあいつらの責任だ。けど、わたしはゆずるつもりはなかった。あいつらが無理やり「とった」からいけなかった。やっぱり、あいつらのせいだ。一桜を殺したのはわたしじゃない。あいつらのせいだ。わたしのせいなんかじゃ、絶対にない。
ぐちゃぐちゃする。なんだか頭の中がぐちゃぐちゃする。
ぐちゃぐちゃ。
……蟲……蟲……。
――見られた……見られたからには、潰さなきゃ。蟲は、潰さなきゃ。蟲は、害虫だからね……。
うわ言のようにぶつぶつ呟きながら立ち上がって歩き出した。一桜が落ちていった谷を見ることは、もうなかった。
雪のように散らばっていた無数の紙片は、まるで溶けてしまったかのように雨で洗い流されていた。
西日の暖かい光を顔に感じながら、わたしは泣いていた。
一桜が死んだのは、いじめが原因じゃなかった。
一桜を殺したのは、わたしだった。わたしが一桜を追い詰めて、殺した。そして心の奥底に無理やり閉じ込めた。心尊たちが一桜をいじめて自殺に追い込んだのだと、嘘の記憶で塗り固めた。わたしが一桜を殺したなんて、認めたくなかった。すべてを心尊や、莉緒や、陽葵のせいにして、三人を殺した。心尊の家族まで……。
声を殺して泣いた。わたしは一桜のことを何もわかっていなかった。心尊の方がよっぽど一桜のことを理解していた。きっと、莉緒や陽葵だって……。
陽葵は叫んでいた。血まみれになった莉緒の頭を抱きながら。
――お願いです! 絶対に言いませんから、誰にも、絶対に喋りませんから!
心尊は睨んでいた。燃え盛る炎の中で涙を流しながら。
――あんたのせいで一桜は死んだ! あんたのせいだ! この人殺し!
なぜ、あの三人は警察にも、学校にも何も言わなかったのだろうか。わたしが一桜を殺したことを。わたしの報復を恐れて? それとも、一桜のために? わからない。理由を知りたいけれど、みんなわたしが殺してしまった。ふと、心尊が豊嶋先生に言っていたことを思い出した。
『へぇ。全部、初華が責任を取るんですか。それは、櫻木……さんに何が起こったとしても?』
一桜の身に何が起こったとしても……
心尊は、こうなることがわかっていたのだろうか。
今までの事が走馬灯のように頭の中を駆け巡った。道重先生に取り調べでは絶対に嘘をつくなと言われたのに、木島さんに「一桜はいじめられて自殺した」と嘘をついていたこと、殺した三人に絶対に謝らないと裁判で暴れたこと、面会に来てくれたお父さんに最低な態度をとったこと、一桜のおじさんにも、そして宮田くんにも……。
――初華。あなた、自分の命で償いなさい。
お母さんの言葉が頭のなかで響くと同時に、わたしはボールペンを握っていた。西日の赤い光を反射させるペン先が、一桜のナイフを思い出させた。中学校の生物の授業で、眼の奥には脳みそがあることを知った。思いきり目を突き刺せば、きっと、死ぬことだって。
ペンを眼に近づけていった。手が、震えていた。
ペン先を見続けているのが怖くなったわたしは、瞼をぎゅっと閉じてから、震える腕に渾身の力を込めた。
両手で顔をおさえていた。握っていたボールペンは床に転がっていた。
わたしは畳に突っ伏して幼いころのように背中を丸めて泣いた。
わたしは、弱い人間だ。
一桜よりも、
心尊よりも、
莉緒よりも、
陽葵よりも
自分勝手で醜くて、どうしようもなく「よわっちぃ」人間だ。
人を6人も殺しておきながら、自分で自分を殺す勇気もない。
小さい子供のように腕で顔を隠して、怯えて、わんわん泣くことしかできない。
どうしようもなく、「よわっちぃ」人間だ。狂った、人間だ。
――お願いです。誰でもいいから、今すぐわたしを殺して――。
あれからどれくらいの時間が経ったのだろうか。
わたしは泣きながら眠ってしまっていた。顔を上げると、伸びた西日が、壁の隅を照らしていた。長い時間眠っていたような気がするのに、ほんの数分しか経っていないようだった。
乾いた目尻を指で擦った。気持ちは沈んだままだけれど、なんだかすっきりとした気分だった。床に転がったボールペンに視線を落とした。そうだ、手紙を書かなければいけない。一桜に手紙を。そして莉緒や陽葵。それに、心尊にも。
わたしはボールペンを握ると机に向かった。
書きかけの便箋に目をやると、チクリと胸が痛んだ。握りつぶそうとしたけれど、このまま書き綴ることにした。あのときのわたしの気持ち、そして今のわたしの気持ちもそのまま書くことにした。一桜に抱いた恋心、喜び、怒り、哀しみ、感謝、そして殺してしまったことへの謝罪。すべてを書いた。
心尊にも、莉緒にも、陽葵にも、わたしが抱いていた気持ちをすべて綴った。もちろん、謝罪の言葉も。こんなことをしても、きっと何にもならない。赦されるはずもないし、赦してもらおうとも考えていない。きっと、今のわたしには反省する権利すらないんだ。
「ん? 手紙か?」
顔を上げると、中村さんが視察窓から顔を覗かせていた。外を見ると、すっかり日も落ちて暗くなっていた。
「あれ、今何時?」
「時間は教えられんが、夕飯時だってことは確かだな」
つまり17時か。ちょうどお腹が鳴った。
「よっぽど夢中になってたんだな。けど、時間までにちゃんとやかんは視察窓に置いておいてくれよ?」
「うん、ごめんなさい」
やかんを置くとつるぴかさんがお茶を注いで返してくれた。
「判決まであと、4日後だな」
「うん」
「怖いか?」
いつものように不躾に尋ねてくる。中村さんらしいなと思った。
「……うん。怖い」
「……そうか」
果たして、中村さんが考えている「怖い」と、わたしが考えている「怖い」は同じなのかどうかはわからなかった。
怖い……怖い……。わたしはちゃんと「死ぬ」ことができるだろうか。
~第五章~ (8)の登場人物
阿久津初華(あくついちか)
聖フィリア女学院の女生徒三人とその家族を殺害し、未成年の少女が起こした事件で初めて死刑を求刑された少女。
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