それは私という定点から狭い視界をもって世界を見たら理不尽まみれでしょう。ですが全ての摂理と事象を把握している方が見れば、そこには必然の摂理を見出すことでしょう。私にとらわれたまま人生を眺めれば、そこには不条理の荒野しか広がってないでしょう。
一口のご飯を我慢する、五分早起きする、修行とは我意を制して我執をなくそうとすること。それは神意にもかない捧げ物ともなる。功利的な考え方をしても、我意へのこだわりが薄まれば、客観的で冷静なものの見方もできるようになる。上記をまとめて「運気が上がる」とも言う。
憎しみとは我への固執であり、己の形を明確にしていく。許しとは我の融解であり、形を曖昧にしていく。我執か融和か。どちらでもよい。宇宙のあるがままとは、そんな心の働きも摂理として組み込まれている。憎しみも許しも、我の純度を高めて行くが、その結果起こすことは正反対のものとなる。
客観的に冷静に見れば、全て起きるべきことが起こるべくして起きていることが分かる。ところがこれが自分のこととなり、主観的に見れば、この世は理不尽の園のように思えてくる。我執とは人の悟性を誤らせるが、我に依らなければこの世に居場所がないように思えてくるのである。
七慢 (「慢」は慢心の意) 仏語。みずからをたのみ誇る煩悩を七種に分けたもの。自分より同等かまたは劣った者に対して誇る慢を初めとして、過慢、慢過慢、我慢、増上慢、下劣慢、邪慢の総称。 なお、我慢の意義は、のちに逆転して、自己主張を抑えることを「我慢する」というに至ったーコトバンク