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わたし=思い、ではないはずなのに。

私どもは、自分の生命の事実というものにもとづかずに、はかない夢や思いによって生きている。
どこまでも思いが離れられない。
他人に関わる場合でも、常に自分の思いでしか関わらない。

              宮城顗


テレビがいよいよ駄目になりそうだ。

あ、別に、いつもウダウダ言っている、内容だとか報道のあり方、なんて話ではなく、わたしの部屋のテレビそのものが壊れかけている、という話。

すっかりテレビを観る時間が少なくなったが、やはりテレビで育ってきた世代。
テレビがないと落ち着かない。
インターネット放送とか、どうも受け入れられない。。。というかついていけない😅
Youtubeなんかも観ないことはないけれど、テレビのようには観れない。
流しっぱで、適当に観る、ということがYoutubeとかだとできない。
ちゃんと観ないと、ってなってしまうので疲れてしまう。

テレビは、適当に観ることも、しっかり観ることもその時の気分でできるように体ができているので、やはりテレビが必要なんだな、わたしには。。。

で、そのテレビが壊れかけている。
2年くらい前から、画面が焼けているのか、一部分が白くなってきていて、それがだんだん侵食してきて、1/4くらいが焼けてきている感じだ。
そして、とにかく画面が暗い。
昔の、藤田まことの頃の必殺シリーズを観ているような暗さ、どの番組でも。
ドラマなんかで、夜のシーンなんて、本当に夜。
東京都心部にもこんな暗闇になる場所があるんだな!なんて勘違いしそうなくらい真っ暗。

10数年前に、いまの部屋に引っ越し、その際に前のテレビをセッティングしてスイッチを入れた途端に、みごとに前のテレビが電源とともに「プシュ〜」と壊れた。

当時は家でテレビを観ることだけが楽しみだったわたしとしては焦った。
速攻で壊れたテレビを車に載せ、近くの家電量販店へ行き、新たなテレビを買って、持っていたテレビを引き取ってもらった。
それ以来頑張ってくれていたテレビくんもついにヤバい。
いつ、先代のようになるかがわからん。

で、いま、知り合いに頼んで新たなテレビを求める算段をしている。

頼む前に、ネットで、今出ているテレビで、どのあたりが一番わたしにとっていいのかを調べた。

ここで大事なのは、わたしにとってだ。

周りの十人が十人、これがいい!、と言ったとしても、わたしにとってよくなければそれでは駄目なのだ。

画質だ、音だ、大きさだ、値段だ、メーカーだ、なんだかんだ。

メーカーは有名なある一社でなければいい。
そこは、以前、あることで揉めて、喧嘩になったことがあるので、そのメーカーのものはどんなにいい製品であろうと買わないと決めている。

あとのことは、結局はネットで集めた情報で、自分で確かめたわけでもないので、いかにもわたしのこだわりみたく言ったとしても、所詮は口コミに惑わされているのだが、所詮はまどろんだ我執であったとしても、そこは主張するのだ。

で、その主張を、アレヤコレヤ細かく説明するのも面倒だし、理路整然と説明なんてできないし、伝わるわけもないし、適当に選んだ機種を「これを基準に探してんだよね」と先方に伝えて、探してもらっている。

そこには、これが基準だというヒントを出したのだし、オレの欲している丁度いいを「分かれよ」という脅迫とも取られる傲慢な命令が潜んでいるかのように捉えられたかも知れない😅

テレビひとつ探すのにもこれだ。

いつもわたしは、わたしの裁量、基準、価値観が最優先で生きている。

いく方向、選びを相手に譲っている場合も、「譲る」という決断を出すまでにわたしの裁量が働く。
それでないと譲れない。
譲らせられた場合は、基本、何もなかった風を装いながらも、そこを去る事を考える。

結局、いつもそんな感じで生きているようだ。

ともかく、いま、知り合いが出してきてくれた提案(テレビの候補)は気に入った。

彼は、わたしの「思い」を見事に読んでくれたようだ。

これに味を占めないようにしなければ。
さもないと、また、彼に無茶振りをしでかしてしまいそうなわたしがいるし😅

わたしにとって大切なのは、どうも、「わたし自身」ではなく、「わたしの思い」でしかないようだ。

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