ハッピークラシー――「幸せ」願望に支配される日常 エドガー・カバナス【読書メモ】
できるだけ物事をポジティブにとらえることで幸せになれる。
非常に世の中にいきわたっていること考え方、私自身、自明なものとして内面化していた。本書を読むとポジティブ心理学は、現場の研究者それぞれは科学とおもってやっているし、そこに嘘があるわけではないと思うが、結果として「幸せの追求」を「自己内の信仰の追求」に類するものになってしまっており、宗教的な一面を持っていると感じた。おそらく、「幸せの追求」が非常に自明で分かりやすすぎ批判的な考察がされにくいことが一つの原因ではなかろうかと思う。目からうろこが落ちる思いになった。
・個人が幸福であることが(暗黙的に)「善」や「政治」に紐づいている。
・(今の政治体制や環境を受け入れたうえで)個人責を前提にしている。
・ゴールの無い「自分の成長やよりよい自分の追求」を求めることで(やりすぎれば)神経症を引き起こす。
政治に紐づいた「ポジティブ心理学」は、フーコーでいうところの体制に従順となる価値の内面化となっており生権力の実現に思える。
このようなポジティブ心理学のような幸せ信仰に対するにあたり、私自身は哲学者リチャードローティのいう理想的な人間像であるリベラル・アイロニストのスタンスで受け止めたいと思う。リベラルアイロニストでは、あらゆる価値観は「たまたまもっている価値観」であると深く理解する人のことをいう。この視点では、自明に思えた「人の幸せの追求」や、「できるだけ物事の良い(ポジティブな)面を捉えたほうがよい」といったこと自体も、「たまたまもっている価値観」の一つであること理解するという姿勢である。
また、本書でいう「幸せ」を追求することは、あくまで個人の目標になっていることもあり、多くのケースで、仏教でいうところの「我執」が強まってしまうことが問題であると感じた。私の考えでは、ポジティブに物事をとらえる「前に」、幸せになるためには「我執」をなくす(減らす)ということが重要だと思う。それによって、ありのままの中から、ポジティブな面を観たり、ネガティブにとらえすぎることもないバランスの取れた物事のとらえ方ができる状態が生まれるのではないだろうか。
私は、これまでIT技術で、人の物事のとらえ方を変えるサービスを作りたいとかんがえてきたことから、この書籍の内容は非常に考えさせられた。