▪️価値原点:前進価値と最終価値

価値原点は、強く自己を拘束するものであるから、価値原点のあるところに、事故の存在を強く意識する。
本来、価値原点は自己自身である。
その為に、価値原点を自己外に設定する場合、その対象をなるべく明確で、安定した存在に置く場合が多い。

例えば、国家とか思想とか神、時として、自己に向けられることもある。神とか思想は象徴的なものであり、抽象的なものであるから、 それを信じた当人にとっては、普遍的なものである。
何ものかを信じるという事は、人間を強くする。
判断に迷いが生じないからである。

しかし、価値原点とは判断における基準であるから、その対象に対して、絶対の信頼を自己は持たなければならない 。
場合によっては、自己の存在を否定する事も含む。

確かに、自己の価値基準を構成するにしても、外的対象に依存している。しかし、価値を構成する為の資料であって、価値自体ではない。自己の最終的判断は、常に、自己の側になければならない 地獄も極楽も、結局は、自分しだい。
故に、価値原点は、自己内部に見出すべきである。

なるほど、自己の独立を守ろうとしても、自己の存在を危険に晒す(さらす)事があるかもしれない。しかし、それはあくまでも結果論である。それによりもむしろ、恐ろしいのは、主体性の喪失である。価値原点を置いた対象は、当人にとっては、自分以上の存在なのであるから。その対象に対しては、自分以上の待遇を以って接する 。

その対象に対する攻撃は、自分に対する攻撃以上の憎悪を以って迎えられる。又、その対象を奪おうとすれば、その人間が、自分の存在をかけて対立してくるであろう事を覚悟しなければならないであろう。そうでありながら、その対象と自己が一体化することはできない。これは、矛盾である。

そこから生まれるのは、無謀な信頼であり、盲目的な服従である 盲信や服従は、このようにして生まれる。それでありながら、盲信や服従の原因は、当人にはわからない。
理由のいかんを問わず、それは認識上の問題であり、感覚上の問題だからである。当人は、なぜ、その対象を信じているのかを知らない。それだけに恐ろしい。
自分が自分でなくなってしまうのである 。

我執や自我は、、盲信、服従、支配、差別を見出す原因である。我執や自我が、本当の自己のあり方を見失わせてしまうからである。自分で、自己の真の欲求、姿を知らないというのは、人間にとって最大の悲劇だ 。

自己が真の自己の欲求や姿を知るためには、自我や我執を捨てなければならない。自我や我執を捨て、赤裸々に自己本来の姿に立ち戻っていく事によって、自己の在りようは、自然に浮かび上がってくるのである。

捨て去った状態の自己こそが、「真我」なのだ。
真我が必要な感情と避ける感情を明確にすることで、「現れてくる」。そして、人生そのものの最終形の感情、未来において置くことが、人生の 醍醐味なのだ。

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