我執に囚われる

 自分のやっていることの意味だとか、結果が出るとか出ないとか、そういうことを考えて何かをやっていると、私の場合はだんだん息苦しくなって、全部を放り出したくなってしまう。
 欲望を自分の力に変える才能がないのだ。
 自分の欲望を正当化し、自分の理性を納得させる能力が欠けているのだ。

 目標を立ててもすぐに「本当にお前はそんなものを望んでいるのか?」という問いが頭に浮かんでくる。
 「できないかもしれない」とか「もっと楽な方法はないか」とか、そういう疑問なら、考えることによって消すことはできる。
 目標に向かって進むことができる。
 でも、その目標自体の価値を疑い始めたら、もう動けなくなる。

 優秀な指揮官が、言うことを聞かない兵士たちに言うことを聞かせるために色々用意して、鼓舞して、それで動かす、ということはできている。
 でもその指揮官自身が、自分が何のために闘わなくてはいけないのか疑問を抱いた瞬間に、その軍はバラバラになる。何もできなくなる。
 私の心の中で起こっているのは、そういうことなのだ。
 実際、私が戦うべき相手などいないし、叶えたい夢というものもない。

 私は、自分が満たされていることを知っている。
 でも、満たされているということ自体に、空虚さも感じている。
 何かが足りないわけではない。
 でも自分がこのまま何もせずに死んでいく、ということは受け入れがたい。
 だから何かがしたい。
 でもその「何か」を思い付きだとか、誰かが作ったレールの上での競争だとか、そういうのに定めてみても、私の体は言うことを聞かない。
「それに何の意味がある?」
 その問いに対して明確に答えられない場合や、考えた結果「大きな意味はない」と結論してしまった場合、結局私はその目標を棄却するしかなくなる。

 何が我執なのだろう。
 そもそも自分が何かを成し遂げたいと思うこと自体が、我執なのではないか。
 もう何もかもを諦めて、静かに生きることだけ考えることこそが、賢い生き方なのではなかろうか。

 実際、必死になっている人間はあまり美しくない。
 芸術の世界でそれが美しく描かれることはあるが、実際には、苦しそうで、視野狭窄で、独善的だ。
 その上プライドが高くて、気楽に生きている人間を見下す傾向さえある。
 あぁ、それは、昔の私のことだろう?
 他の人間がどうであるかは知らない。
 でも私は、何かに対して全力を尽くしても、空しくて、苦しいだけだったのだ。
 結局何かを成し遂げたと思ったって、その喜びは一瞬だけ。
 しかも、その喜びは他者と共有できるものではない。
 目の悪い人間は、嫉妬の目に気づかずいられるかもしれないけれど、周りの人間のことをよく見るしかない人間や、人の心について悩んでしまう人間にとって、成功の喜びは、ひとりきりの隠された喜びと比べて、優っている部分がほとんどない。
 私にとっての幸せな生活とは、私の感情が自由であることだ。泣きたいときに泣くことができて、笑いたいときに笑うことができることだ。
 同時に、私の理性も自由でなくてはならない。
 誰かが「これが正しいことだ」と言ったときに、疑いたいように疑うことのできること。
 考え、それを口に出すことが許されていること。
 私の信仰心も自由でなくてはならない。
 私が信じたいものを、好きなように信じていること。
 信じることが許されていること。

 あぁ。それだけで十分なのだ。
 すでに自由で幸福な人間が、なぜそれ以上の何かを求める必要があるのだろうか?
 なぜ、意味もなく自分の自由を捨ててまで、地位や名声を手に入れようとするのだろうか。
 あぁ。その気持ちが分かるからこそ、私の理性はそれを不思議がるのだ。
 感情……というより、この我執、欲望というのは、おかしなものだ。
 理性も信仰心も感情も望んでいないことを、一時的に望み、そのように体を動かそうとする。
 より優れた存在である必要などないのだと分かっているのに、より優れた存在になろうとしてしまう。
 期待していたように自分が動けないことが明らかになるたびに、私は自分に失望してしまう。
 私の理性は、そんなことあらかじめ分かっているし、私の信仰心は、そんなくだらないことには興味を持たない。
 ここにある幸せだって、なくなるわけではない。
 感情だって、それほど害されるわけではない。
 大して苦しくはないのだ。
 本当に苦しいことは、もっと苦しいことだから、自分が何かを失敗したり、人から馬鹿にされたくらいの苦しみは、大した苦しみではないのだ。
 恥ずかしくて、屈辱を感じることなんて、生きるか死ぬかということに比べたら、大したことではない。

 我執は私に「人生は有限だ」と言う。
 「生きるということは、行動することだ」と言う。
 「刻一刻とお前は、死んでいっているのだ。お前は自分の行動や思考を全て、意味のある方向に用いなくてはならない」と言う。

 理性は反対する。
 「人生は確かに有限だ。
 されど、人ひとりの人生になんの価値があろう?
 その人間が死んだあと、その人間を評価するのは、その時生きている人間であるが、現状もっとも価値があるとされている人生は、決してそのように駆け足で、義務感に囚われて生きた人生ではなかった。
 焦って生きた人間は皆、どこか滑稽であった。
 悠々自適に、自分のペースで生きた人間こそが、人類に最も大きな贈り物をした。
 と、同時に、目立ってはいなくても、誰かのために何かをした人間は、必死になっていようがいまいが価値のある人生であったと言えるし、それは君の言うように、時間はもったいないと焦ろうが焦るまいが変わらないことだ。
 人生の大半を遊びや、人との無益な関わりの中と過ごした人でも、人々から愛され、人々を愛し、与えられた役割をこなし、死ぬべき日に美しく死んだのならば、その人生は価値のある人生であると言える」

 私の人生は、どうしようもなくちっぽけだけど、私だけのものではない。
 私という肉体と精神の所有権自体は、私自身に宿っているけれど、私の運命や偶然、人との出会いも含めた人生というもの自体は、私ひとりのものではなく、その責任も、その行動の結果も、広く共有されたものだ。
 あぁ。我執とは、自分自身の所有物を増やそうという感情なのだ。支配しようという感情なのだ。
 自分自身の心と体を、我執というものは、支配しつくそうとする。
 支配されるくらい、弱い心と体であるならば、確かに支配されてしかるべきかもしれない。
 しかし私の心も体も、そう簡単に支配されるほど、奴隷的な愚かさは持ち合わせていない。
 私は、私が従いたいものに従うのであって、命令したがっている存在に従うのではない。
 私は私の我執には従いたくないのだ。
 一度それでひどい目に遭っているし、そもそもその我執通りに事が運んだ時でさえ、私の体も心も、不快でしかなかった。
 それでよかった、と思えなかった。
 残ったのは空しさだけだった。

 あぁ。人より優っているということが何であるというのだろう。
 人より多くを持っているということが何であるというのだろう。
 人より高いところに立っているということが何であるというのだろう。
 結局人は、自分の尻に座るしかない。自分の目で見て、自分の頭で想像して、自分の体で喜ぶしかない。
 それなのに、自分の体や心の外側に、快適に生きていくのに十分以上のものを集めて、いったいぜんたいどうしようと言うのだろう。

 自分が死んだ後に、その人生は美しかったと言ってもらいたい。
 実際、その人生は美しかった、と言えるような人生を送った人は、これまでにもたくさんいるし、想像もできる。
 歴史に残らなっか人たちの中にも、美しく生き、美しく死んでいった人たちがいる。
 記憶に残らなかったとしても、その生がなかったことにはならない。

 人生というのは、素晴らしいものでなくてはならない。
 そこにはできるだけ多くの喜びと悲しみが必要だ。
 もしかすると、欲望、諦め、怠惰、傲慢なども、あった方がいいのかもしれない。

 時にその人の欠点が、その人の長所を、徳を、本質を、明らかにすることもあるだろうと思う。

 私の愚かさを笑ってくれ!

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