#noteでよかったこと
だいたいのことは、良いようにも悪いようにも取れる
あっうん偉そうだね。意識高そうだね綺麗事っぽいね!!!
自分でも字面を見てそう思った。
しかし、ときにはそんなありきたりな、ありふれた、使い古された、あざといことを再確認してしまったりするものなのだ。
仕方ない。世界は普遍で出来ている。
(関係ないけど、「ありきたり」が「在り来り」と変換されるのを見て始めて「これ古文だったのか」と気づいた)
そして、せめてうまい例えを出そうと考えてまた
書いていたら苦しくて書けなくなった。
そんな日もあるな。
ときどき心が燃えすぎて、愛さえ重すぎて、悲しくなって書けない。
悲しくない解決方法がこの世にある保証もなし、大団円はひとの希望的観測に過ぎない、そういうめでたくない頭が常に頚椎を圧迫している類の人間としては、いろいろと、直視するのが重すぎる。
あー、クリスチャンのくせに救いを信じてないのな、とか、だからこそ祈るしか最後はないわけじゃん、とか、いろいろぐるぐるするけどな。
自分軸を、しかも、ひとつじゃなく。
滅法疑り深い性分なので、大体の関係性には「if」の予防線を張り安全ネットをめぐらし機動隊を配備している。
エピソードとしては惜しげもなくペラペラと話すが、私は私の「いま」を掴ませることを相手に開示することはほとんどないといってよい。
話すのは基本的には、過去のこと。過去になった物語についてだ。
イニシアチブはどこまでも自分で取りたいという思いが強いので、大抵のことにはなにかしらのクッションを
どうしてこんなに気楽なんだろう。
顔を知らない者同士だからなのか。
文章を見せ合う前提の者同士だからなのか。
互いにそれ以上踏み込んでくることもないからか。
んああ、なんか疲れとるんやろうか。
それとも私のバイアスが強いのか。
あざとい文章がきらいだ。
文の好みは音楽よりもハッキリしてる。
ドヤってない文章なんて探すのも難しいのかもしれないけど(私も含め)、少なくとも好きなものばかり並べさせてもらっている、私のタイムライン。
たくさん読みたい、たくさん書きたい、だから。私のスタンス
こんにちは、haLunaです。
noteをはじめてすこし経った。
進水式的な気持ちもなしにもんやり始めたのだけど、思いがけず見ず知らずの方が読んでいってくださっている気配が見えて、なかなかのモチベーションにつながっている。なんでもっと早くに始めなかったんだろう。
というわけで、今日は唐突に、noteとの関わり方を改めて考えてみたのでシェアしてみる。
フォロワー獲得のためにフォローするという
「私は美人」という記事を書いた人と「私はブス」と書いた人のプロフ画像を見て感じたこと
人の見た目、ルッキズムについて、「自分は美人です」という前提で書かれた記事と「自分はブスです」という前提で書かれた記事とを、たまたまつづけて読んだ。
内容はどちらも、とてもよくまとまっていて、大切なことがきちんと述べられている良記事だった。
ところで、あまりに美人だ不美人だというものだから、思わずプロフ画像を確認してみたところ、私から見るとどちらもそう変わらなくて、友達にいて違和感がない程度のか
自分を押し留めるものでなく、動かすものを書きたい
数年前、数万円で購入した「あいふぉーん」と、数日前に数千円で買ったタブレット+数千円で買ったカバーについていたBluetoothキーボードとで、それぞれ、書き心地を試している。
WordPressとnote両方で試してみているが、今のところスマホ、タブレットともにnoteはたいへん挙動がよいと感じる。
地味に一番助かっているのは改行かもしれない。
noteや、WordPress新エディタのよう