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「私は美人」という記事を書いた人と「私はブス」と書いた人のプロフ画像を見て感じたこと

人の見た目、ルッキズムについて、「自分は美人です」という前提で書かれた記事と「自分はブスです」という前提で書かれた記事とを、たまたまつづけて読んだ。
内容はどちらも、とてもよくまとまっていて、大切なことがきちんと述べられている良記事だった。

ところで、あまりに美人だ不美人だというものだから、思わずプロフ画像を確認してみたところ、私から見るとどちらもそう変わらなくて、友達にいて違和感がない程度のかわいらしい女性だったので「おや」と思ってしまった。

私は美醜の感覚があまりすぐれてないのかもしれない。と思うことがある。

絵に描かれた人物には美を感じる。
それは、描き手の「美」という抽象に対する印象こそが、モチーフを通して描かれているからかもしれない。
とにかく、生身の人間の顔の「ヨシアシ」というものが、よくわからない。

絶対的な美醜はごく一部にしか存在しなくて、人形のように整っている人を除けば、あとのほとんどはひろーく「中くらい」なんじゃないかと思う。本当にそう思う。
自分のパートナーの顔が整っているのかどうかさえ、本気でわからないのである。

私はむしろ、俗に「イケメン」と言われる人たちの顔が苦手だ。
引け目ではなく、ものすごくもやもやするの何これ……と改めて考えてみたら、どうやらうまく区別がつかなくて脳が戸惑っているらしい。
たしかに、イケメン? であろう人であればあるほど、何度教えられても覚えられない。
「イケている」という感覚は持てないので、私が苦手だ、ワカランと感じるということは、多分この人世間的にはイケメンといわれる人たちなんだな、と判断するくらいだ。

そういえば、昔聞いたことがある。
人間が美しいと感じる顔は、実はあらゆる人の顔を平均した顔なのだそうだ。
なるほど、美人の定義はバランスか、と妙に納得したものだ。すべてが大きすぎず小さすぎず、離れすぎずより過ぎず。左右対称に近く、膨れすぎず尖りすぎず。
体型や色味などは必ずしもそうではないだろうが、「顔の造形」に関してはそうだろうなという感じがする。

そうすると、美というのはまったく本能的な基準によって導き出された概念なのかもしれないと思う。

ルッキズムとはなにか

さて、ルッキズムという差別ほど扱いづらいテーマはないのではないかとも思う。最も根深く、また最も避けがたい。

なにしろ本能的なので、悪意も善意もそこにはなく、ただ抗いがたい「好き」や「嫌い」がそこにあるだけで、ある種、理性では如何ともし難い。
だからこそ、差別される側にとってはなお、過酷でもある。

本能かもしれないからこそ、見た目で判断される側もまた、見た目で値踏みしていたりするジレンマもある。
(いわゆる)イケメンから美人と扱いの差をつけられて傷ついたりするのに、(いわゆる)イケメンでない相手に対しては同じような態度を取っていたりするのも、珍しいことではないと思う。
そこにある美醜のヒエラルキーに、加害者被害者ともに与(くみ)している結果ではあるのだけど、本質的にはどうすることも出来ないものなのかもしれない。

「見た目ではなく中身で判断」?

かくいう私は、まあ間違いなく十人並の見た目だと思うし、とくに人前に立つ活動をしているので、ルッキズムに晒されているほうだとも思う。

また、上に書いたように、自分は「イケメンが苦手」と感じていて、これも明確に差別だろう。
自分がもし「美人じゃないから名前を覚えられない」と言われたら、傷つくはずだから。きっと逆でも本質的には同じことだ。

そもそも個人的な判断においては、「見た目」(あるいは「収入」「学歴」といった、わかりやすいものさし)で人をはかることをしていなくても、何かしらの判断基準で人を選別し、ともだちになったり恋人を選んだりしているという事実は変わらない。

見た目で選ばない人も、何かしらの基準をもって、自分の眼鏡にかなうかどうかで人を選別しているのだ。

見た目や身体的特徴といった、本人の努力で変えられないものとそれ以外は違う、と考える向きもあるだろう。けど私はあまり、そうは思わない。
生まれ持った性質や性格がその社会に適合しなくても、本人の努力でどうにもならないこともあるし、むしろ努力を強いられることがおかしいことだって多々ある。
中身で判断することだって「好み」で「差別化」していることに変わりはない。

新聞投書欄で話題になった、サークルビラの話。

私も、今も昔もまったく声をかけられる部類ではなく、合コンに呼ばれたことは数合わせでさえついに一度もないままきてしまった。

明らかに美人の子と扱いが違う、という経験もした。
美人の子がちやほやされて、その子が私の名前と似た「はる〇さん」という名前のキャラになぞらえて呼ばれるようになったときなどは、あぁ、ここには私の居場所はなくなった、と感じたものだ。
名前というアイデンティティまで侵食されたような、そんな気持ちになってしまったのをよく覚えている。

だけど、すべては強制できない感覚の部分であり、
残酷だけど、選ぶ自由は各人にある。

二十歳そこそこの男子学生が見た目でビラを配ったり配らなかったりしたことをルッキズムだとは正直思わない。だれにビラを配るのかというと、自分がサークルに呼びたい美人、なのだ。彼の価値観はそうだったのだろう。
そして、それに対して傷ついた女の子がいたことも事実だと思う。だから難しいと感じる。

それを、「中身で判断」といって中身で差別をする側(私)が批判するのも、なんだか違うと思うのだ。

咎められるべきは公の場での公の判断として美醜で差をつけられたとき、それから単に「選ばれない」だけでなく積極的に貶められたり暴言やいじめをされた……といったときであり、

そうではなく、ただ「選ばれない」ことについては受け入れるほかないし、なんなら自分自身が美醜以外のものさしを自分にあててやることしかないのだと思う。

現実問題、人はなんらかのものさしで他人を選別する。私も私で他人に優劣をつけて接している。これはもう、まぎれもない事実であり、申し開きのしようもない。
人に対して好き嫌いがあるし、人によって態度も距離感も変える。

なんらかのものさしで「選ばれない」現実は、誰にでも存在する。

かたち、見た目の美というものは若さとも似ている。

儚い価値観だからそれに振り回されるのは馬鹿だというひともいるけど、
その一瞬しかないものを愛でる気持ちもまた否定出来ない価値観だろう。
その意味では、アイドルだって芸術だってきっと同じ。
儚い一瞬を尊いと思うのは、きっと桜を愛でるようなものなのだ。

それを、自分の中に招き入れるかどうかもまた、人それぞれ。

私が年齢とともに、そういうことで傷ついたりしなくなってきたのは、自分が評価してほしいと思う基準を大切にして、そういう相手を選び、そういう場所を見つけてきたからかもしれない。

結果、特別にチヤホヤ……は、されないけれど、
きちんと私を見て尊重してくれる仲間がいて、私もまた相手を尊重する喜びを知ることができて、互いに小さくチヤホヤし合って。そうしているうちにその呪縛から解き放たれてきたような気がする。(もちろん、この「note」も私にとってそういう場のひとつだ)

今は、自分の大切なものをまっすぐ大切にしている人は何歳だろうがどんな見た目だろうが生き生きとして素敵だし、美しいと思う。
……だから、見た目のヨシアシがよくわからなくなってきたのかもしれない。

望まぬものさしなら、自分自身も人にふりかざすのをやめ、
その価値観に自分を縛りつけるのをやめて、自分の世界を広げていくことに夢中になるのが一番じゃないかな。
私は、そう思います。

#毎日note #コラム #ルッキズム #差別 #価値観  

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