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自分を押し留めるものでなく、動かすものを書きたい

数年前、数万円で購入した「あいふぉーん」と、数日前に数千円で買ったタブレット+数千円で買ったカバーについていたBluetoothキーボードとで、それぞれ、書き心地を試している。

WordPressとnote両方で試してみているが、今のところスマホ、タブレットともにnoteはたいへん挙動がよいと感じる。

地味に一番助かっているのは改行かもしれない。
noteや、WordPress新エディタのようなブロック式エディタでは、ただエンターキーを押してしまうと段落変え(一行空け)になってしまうため、それが少々ストレスだった。

私はスマホであっても普通に長文が読める人だ。
だからというわけではないが、私は空白行の多すぎる記事があまり好きではない。

短い段落でいちいち空白行を多用するのは「情報発信ブログ」としては許容できても、「読みもの」としてはちょっと、となる。
なんでもかんでもそれ一辺倒はいかがなものか、と思ってしまうのは、きっと私だけではないと思う。思いたい。

たまには文庫本のように、文字のかたまりを眺めたい。Webであろうが、である。自分の文章が、それに耐えうるリーダビリティを保持できているかどうかの問題はあるにせよ、基本的には文字で埋まっているものが好きだし、空白行には空白行なりの意味をもたせたいのである。

単純に、「どちら育ちなのか」という視点は、あるかもしれない。

紙媒体を入口として育った自分たちのなかにも、さまざまな層が存在する。
そうはいっても、どちらかというとラノベに近いものから読み始めた私だが、いっぽうの友人は親の代から生粋の読書家で、子どものうちから「大人のひとが読むような」作品にガッツリ触れていた。
その彼が、改行の多いティーンズ向けの文庫をぱらぱらと捲りながら
「この余白はメモ欄か何かか? 同じような金額を出してこれでは詐欺だ」
というようなことを言っていたのは今思い出しても痛快だった。

そういえばその彼は、私が入院した時「退屈だろうから」といっていろいろ本を差し入れてくれたな。……さすがに病床にあっては、京極夏彦氏の新書の厚さと字詰めには圧倒されたものだ。胃潰瘍にはなかなかの荒療治であった。


いずれにせよ、正解はないのだということを強調しておきたい。

リーダビリティをどのように担保するかというところで、留意する点は確かにある。
一文を長くしすぎない、句読点を適切なリズムで使う、かなと漢字のバランスをいい塩梅にととのえる、「この言葉を使ってしまえばひとことで済む」という書き手の都合で難しい(日常的にあまり使わないような)単語を選ばず、平明な、平易な単語を使う、など。

ただ、これは今書いたうちの最後のひとつにも関わってくるのだけど、「読みやすいか否か」は読み手の資質によるところも大きい。
資質というより、そのひとの日常、といったほうがいいか。

「読みやすいか否か」というところで言うなら、その文章のなかに、自分が読み進めるにあたっての手がかり、足がかりとなる部分がどれくらい含まれているか、ということがとても大きな要素になってくるのだと思う。
たとえるなら、ボルダリングでいいうとろころの、あの、掴める石の数に近いもの。

ようするに、「知っている」あるいは「わかると思える」ことがどれだけあるか、というところが、読みやすいという感覚を左右する。
ボルダリングの例でいうと、「知っている」あるいは「わかると思える」ことがある分だけ、上にのぼるために掴める石が多く、理解へのルートが見出しやすい。

基本的に、立ち止まるところや躓くところが多いと、それを「読みづらい」と感じるものだ。

……たとえば、私がここで「読みづらい」を「読みずらい」と書いただけで読みづらさを感じる人もいるし、まったく気にならない人もいるだろう。(私は、読みづらさを感じる側である)
これは、「知っている」けれど「邪魔」なもの、ノイズが入ることによって起こる。

つまるところ、「知らないこと」「理解に労力を割かなければならないこと」は総じて「ノイズ」なのだ。
改行のない文章で「目が滑る」などと言われるのも、結局その長さ・冗長さが「ノイズである」ということに他ならない。

ノイズとなるから、ちょっと不快で、その不快さがリーダビリティを妨げてしまう、ということなのだと思う。


ところが、人によってはそれが「平明すぎても」起こる。
結局は、ふだん呼吸するように出し入れしている「ことば」の粒度に近いものが、その人にとって受け入れやすい、ということなのかもしれない。

ことばというのは、(誤解されがちなことだが)正確ではない。ことばは記号なので、どこまでいっても「そのもの」との間に誤差を生じるという前提がある。
そのものを精密に、ただしく伝えきることは、厳密には不可能であるといえる。

だからこそ、
大切なのは、精確に伝えることではなく、何をどう伝えたいかという意図のほうになってくるのだと思う。

その意味で、文章とアートはとても似ている。

形ひとつにしても、
いずれにせよ、正解はない

私は、私をひとところに押し留めるようなものではなく、自分を動かすものを書きたい。
書き終わった瞬間に、自分が閉塞感の中にいるような文章ではなく、なにがしかに成れることをしていたい。
私にフィットするリズム、私にフィットする波長、私にフィットするかたちで。

私は、なにかに成りたいのだ。そのために書くし、歌っている。

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